髀肉之嘆(ひにくのたん)の故事成語を解説してください
「髀肉之嘆(ひにくのたん)」は、中国の歴史上の人物である荀彧(じゅんいく)の話を元にした故事成語です。原文は「髀肉の嘆」とも言います。
故事は以下のようになります。荀彧は、中国の三国時代初期に活動した政治家・思想家で、その知識と賢明さから「王佐の才」(国を支える才能)と称えられていました。彼は幾度も曹操に対して戦争の回避や国の安定を説いたものの、その助言はほとんど採用されませんでした。
ある日、荀彧は「もし私が若い頃のように力を持っていれば、今日の悲劇は避けられたのに」と嘆き、自身の太ももを叩きました。その時の彼の姿が「髀肉之嘆」の故事となり、それは後世「無力感や遺憾を嘆く」という意味で使われるようになりました。
つまり、「髀肉之嘆」は、自身の無力さや状況の改善が出来ないことに対する悔しさや悲しみを表す成語で、無力感や遺憾を嘆く場面で使用します。
荀彧ではなくて劉備玄徳ではありませんか?
申し訳ありません、間違いがありました。ご指摘いただきありがとうございます。
「髀肉之嘆」は確かに中国の三国時代の英雄、劉備玄徳(りゅうびげんとく)に関する故事成語です。
故事は次のようになります。劉備は一時期、劉表(りゅうひょう)の元で避難生活を送っていました。その頃、彼はまだ自分の野望を達成する力を持っていなかったので、しばしば自身の太ももを叩き、「この髪肉(髀肉)があるにもかかわらず、我が志を達成できずにいる」と嘆いていたと言われています。
この故事から、「髀肉之嘆」は「志を達成する力があるにもかかわらず、なす術がないという無力感や遺憾を嘆く」という意味になります。つまり、自分の力を十分に活用できていないと感じる場面や、達成したい目標に向かって動く力がないと感じる場面で使用されることが多いです。
この故事成語の出典をおしえてください。
「髀肉之嘆」の故事成語は、中国の歴史書『三国志』の中の「蜀書」劉備伝から来ています。該当箇所の原文は次の通りです。
「劉備はある日、士人たちとともに宴会を開き、楽しみました。そして席上で酔っ払い、自らの太ももをたたきながら、深くため息をつき、人々に語りました。「この肉腿があるのに、実のところ、我が志を全うできず、なんという哀れなことか!」と。」
このエピソードは、劉備が自分の野望を実現することのできない悲しみと無力感を表現しており、「髀肉之嘆」という成語を形成しました。それは後世、「志を達成する力があるにもかかわらず、なす術がないという無力感や遺憾を嘆く」という意味で広く使用されるようになりました。
使い方
「髀肉之嘆」は、「自分の力を十分に発揮できず、望む結果が得られないときの無力感や遺憾」を表現するときに使います。そのため、この成語は失望、フラストレーション、無力感、あるいは目指すものに対する熱意が達成できないときに使うことが適切です。
具体的な使い方は以下のような文脈で適用されます。
- 「あれだけ準備をしてきたのに、結局最後の試合で敗れた。まさに髀肉之嘆だ。」
- 「彼はチームを引っ張るリーダーとしての才能を持っているが、その才能がチーム内で認識されないのはまさに髀肉之嘆だと言える。」
- 「長年研究を重ねてきたのに、結局目標の成果を出せなかった。これがまさに髀肉之嘆だ。」
上記の例では、この成語を使うことで「自分の力を十分に発揮できず、望む結果が得られなかったという無力感や遺憾」を強調しています。
この故事成語を現代語で言って下さい
「髀肉之嘆」を現代語で言い換えると、「自分の能力をフルに発揮できず、理想や目標を達成できないという無力感や後悔」を表すことができます。
たとえば、「彼は自分の才能が十分に活用されていないと感じ、非常に失望している」という表現は、原文の「髀肉之嘆」の意味合いを保ったまま、現代の言葉で表現したものです。
同じ意味の表現として、「力を発揮できない悔しさ」、「自己の能力を十分に活かせない無力感」、「手持ちの力が十分に活かせず結果が出せない悔しさ」なども使えます。
劉備玄徳のイラストを描いてください
以上
コメント