殷周時代とは、中国最古の確認された王朝である殷(商)の建国(紀元前1600年頃)から、西周の滅亡と平王の東遷(紀元前770年)までの約800年間を指します。この時代に中国文明の根幹となる文字・青銅器・祭祀・封建制・礼楽制度が形成され、後世の中国思想・政治・文化に計り知れない影響を与えました。
殷は甲骨文字と精緻な青銅器文化を生み出した古代王朝です。湯王の建国から武丁の中興まで繁栄を誇りましたが、最後の紂王の暴政によって滅亡。「酒池肉林」「太公望」などの故事成語は、この殷周革命の激動から生まれています。
殷を滅ぼした周は、封建制と礼楽制度に基づく秩序ある統治体制を構築しました。周公旦の理想的な政治は孔子が最も敬慕した時代であり、「制礼作楽」は中国文明の規範となりました。しかし西周末期には厲王の暴政、国人暴動を経て、幽王の失政により犬戎に滅ぼされ、春秋時代へと歴史は移っていきます。
殷(商)の建国と繁栄 ── 青銅器と甲骨文字の王朝
夏王朝を滅ぼした湯王が殷を建国し、伊尹の輔政を経て王朝の基盤が築かれた時代。盤庚の遷都、武丁の中興を経て殷は最盛期を迎え、甲骨文字と青銅器文化という中国文明の二大遺産を生み出しました。
紀元前1600年頃湯王の革命 ── 夏の桀王を放逐し殷を建国
殷の建国者・湯王(成湯)が暴虐な夏の桀王を鳴条の戦いで破り、天下を取って殷王朝を開いた。中国史における「放伐」(暴君を討つ正義の革命)の原型。
伊尹の輔政 ── 料理人から天下の名宰相へ
湯王を支えた伝説的名宰相・伊尹。もとは料理人だったが、その調理の腕前を通じて政治の道理を説き、湯王に登用された。「鼎の調味を以て天下を治む」の故事の由来。
太甲の放逐と改心 ── 伊尹が暗君を桐宮に追放
湯王の孫・太甲が暴政を行ったため、宰相の伊尹が王を桐宮に追放して反省を促した。太甲は改心して徳のある王となり帰還。臣下が君主を諫める「放逐と復帰」の原型。
九世の乱 ── 殷王朝初期の継承争い
殷王朝初期には兄弟間・父子間での王位継承が混乱し、「九世の乱」と呼ばれる長期の内紛が続いた。王位を巡る争いは殷の国力を大きく消耗させた。
盤庚の遷殷 ── 殷墟への大遷都
第20代王・盤庚が都を殷(現在の河南省安陽)に遷した。貴族の反対を押し切っての大英断であり、これ以降殷は安定期に入る。殷墟は現在世界遺産に登録されている。
武丁の中興と傅説の登用 ── 版築の中の宰相
殷の第23代王・武丁が夢のお告げに従い、土木工事の現場で版築を行っていた傅説を宰相に登用。武丁は59年にわたり在位し、殷の最盛期を築いた名君として知られる。
婦好 ── 殷の女性将軍と祭司
武丁の王妃・婦好は自ら軍を率いて鬼方や羌族と戦い、祭祀も主宰した中国最古の女性将軍。1976年に発見された婦好墓は未盗掘で、殷の文化を伝える第一級の考古資料。
甲骨文字の誕生 ── 占卜から生まれた中国最古の文字
殷代に亀の甲羅や牛の肩甲骨に刻まれた甲骨文字は、現在確認される中国最古の体系的な文字。王の狩猟、戦争、祭祀、天候から病気に至るまで、あらゆる事柄を占った記録が残る。
殷の青銅器文化 ── 后母戊鼎と礼器の世界
殷代の青銅器は当時の世界最高水準の金属加工技術を示す。后母戊鼎(司母戊鼎)は重さ832kg超の世界最大の古代青銅器であり、殷の祭祀文化と王権の象徴。
殷の祭祀と宗教 ── 上帝崇拝と人牲の世界
殷人は「上帝」を最高神とし、祖先の霊が上帝に仕えると考えた。重要な祭祀では人牲(人身御供)が行われ、戦争捕虜が犠牲に供された。殷の宗教世界観を解明する。
殷の対外戦争 ── 鬼方征伐と領域拡大
殷は周辺の鬼方・羌族・東夷などの諸族と絶えず戦争を繰り広げた。特に武丁期の鬼方征伐は3年に及ぶ大遠征であり、殷の軍事力と領域の広さを物語る。
武乙の射天 ── 天を侮った暴君の末路
殷の第28代王・武乙は「天」を人形で表して賭け事を行い、天に矢を射たとされる。猟の最中に落雷で死亡し、天の報いを受けたと伝えられる。殷の衰退を象徴する暴君。
帝乙の治世 ── 殷末期の最後の安定
殷の第30代王・帝乙は比較的穏やかな治世を送り、東方の夷族との戦争に力を注いだ。次の代の紂王(帝辛)に王位を譲る直前の、殷末期における最後の安定期。
殷周革命 ── 暴政の終焉と新王朝の誕生
周の祖先が力を蓄える一方、殷の紂王は酒池肉林と炮烙の刑で暴虐の限りを尽くした。太公望・周公旦ら名臣を擁した周の武王が牧野の戦いで殷を滅ぼし、天命思想に基づく新秩序を打ち立てました。
紀元前1100年頃古公亶父の岐山遷居 ── 周王朝の礎を築く
周の始祖的人物・古公亶父が戎狄の圧迫を避けて岐山のふもとに移り住み、農耕と都市建設を始めた。周の人々が故郷を捨ててまで古公亶父に従った逸話は、徳による統治の理想像として語り継がれている。
季歴の台頭 ── 殷に仕えながら力を蓄える
古公亶父の子・季歴は殷に忠実に仕えながら、周辺の戎狄を討伐して周の領土を拡大した。殷から「西伯」の称号を授けられたが、その勢力の拡大を恐れた殷に殺害されたと伝えられる。
紂王の即位 ── 殷最後の暴君の登場
殷の最後の王・帝辛(紂王)が即位。知力・体力ともに優れた人物だったが、その才能は自身の享楽と残虐行為に費やされた。比干・箕子・微子ら忠臣の諫言も聞き入れなかった。
酒池肉林 ── 紂王の飽くなき享楽
紂王は池に酒を満たし、木に肉を掛けて「酒池肉林」の宴を催し、男女を裸で追いかけ回させたとされる。贅沢と退廃の極みを表す故事成語の原典。
炮烙の刑と妲己 ── 殷末の暴虐
紂王は寵妃・妲己の歓心を買うために炮烙の刑(火であぶった銅柱の上を歩かせる)を考案。忠臣の比干は諫言して心臓をえぐられ、箕子は狂人を装って生き延びた。
西伯昌の羑里幽囚 ── 獄中で周易を演ず
周の西伯昌(後の文王)が紂王に投獄され、羑里に7年間幽閉された。この獄中で八卦を六十四卦に展開し、『周易』の基礎を作ったとされる。逆境を学問に変えた伝説的逸話。
太公望の登用 ── 渭水の釣り人
文王が狩りに出かけた際、渭水のほとりで釣りをしていた老人・呂尚(太公望)と出会い、軍師として登用した。「先君の太公が望んでいた人物」として「太公望」と呼ばれた故事の由来。
文王の徳治と勢力拡大 ── 天下三分の二
釈放された文王は周に戻り、仁政を敷いて周辺の諸侯を次々と味方に引き入れた。虞・芮の争いを徳で解決した逸話は、天下の三分の二が周に帰した象徴として語られる。
文王の崩御と武王の継承
周の文王が殷討伐の夢を果たせぬまま崩御。太子の発が武王として即位し、太公望・周公旦を左右の柱として殷討伐の準備を本格化させた。
牧野の戦い ── 殷周革命の大決戦
周の武王が率いる連合軍が殷の首都・朝歌近郊の牧野で紂王の大軍と激突。殷の兵士が次々と寝返り、紂王は鹿台に上って自ら火を放って死んだ。中国史上最も重要な戦いの一つ。
紂王の自焚と殷の滅亡 ── 鹿台の炎
牧野の敗戦後、紂王は宝玉を身にまとって鹿台に登り、自ら火を放って死んだ。約500年続いた殷王朝はここに終焉。妲己は処刑され、殷の遺臣たちは各地に散った。
封建制の実施 ── 天下を諸侯に分封
武王は天下を安定させるため、一族や功臣を各地に封じて諸侯国を建てた。太公望は斉に、周公旦は魯に封じられた。この封建制が後の春秋・戦国時代の諸侯割拠の基盤となる。
西周の確立と盛世 ── 礼楽文化の黄金時代
周公旦の摂政と制礼作楽により西周の統治体制が確立し、成康の治と呼ばれる太平の世が訪れた時代。孔子が最も理想とした礼楽政治が花開き、西周文化は後世の中国文明の規範となりました。
紀元前1042年頃武王の崩御と成王即位 ── 幼主と偉大な叔父
殷を滅ぼした武王が建国間もなく崩御し、幼い成王が即位。武王の弟・周公旦が摂政として政治を担うこととなった。西周の命運を左右する世代交代。
周公旦の摂政 ── 聖人の政治
幼い成王に代わって国政を執った周公旦。孔子が最も尊敬し、「夢に周公を見ず」と嘆いた聖人。一度の食事に三度口の物を吐き出し、一度の入浴に三度髪を握って客を迎えたという逸話で知られる。
三監の乱 ── 管叔・蔡叔の反乱
殷の旧領を監視していた武王の弟・管叔と蔡叔が、周公旦の摂政に不満を抱き、殷の遺臣・武庚と結んで反乱を起こした。建国直後の周王朝を揺るがした最大の危機。
周公旦の東征 ── 殷の残党を平定
周公旦は3年をかけて三監の乱を鎮圧し、殷の残党を完全に平定した。管叔は処刑、蔡叔は追放され、武庚も誅された。この勝利により周の支配は東方にまで確固たるものとなった。
洛邑の建設 ── 天下の中心に都を造る
周公旦は東方統治の拠点として洛邑(現在の洛陽)を建設した。「中国(国の中心)」の概念はここから始まるとされ、後の東周の首都となる。西の鎬京と東の洛邑の二都体制が確立。
制礼作楽 ── 周公旦の文化大事業
周公旦が「礼」と「楽」の制度を体系的に整備し、宗法制度に基づく社会秩序を確立した。この礼楽制度は孔子が理想とし、中国文明の根幹として2000年以上にわたり影響を与え続けた。
成王の親政 ── 桐葉封弟の逸話
周公旦から政権を返還された成王が親政を開始。桐の葉で弟を封じる遊びをしたところ、「天子に戯言なし」と周公旦に諫められた「桐葉封弟」の逸話は、天子の言葉の重さを説く教訓として知られる。
微子啓と宋国 ── 殷の祭祀を継ぐ国
紂王の庶兄・微子啓が周に降伏し、殷の祭祀を続けるために宋国に封じられた。滅亡した前王朝の祭祀を継がせる「興滅継絶」の精神は、中国の王朝交代における重要な礼制。
成康の治 ── 刑罰を用いない太平の世
成王と康王の治世は「成康の治」と呼ばれ、40年にわたり刑罰を用いる必要がなかったとされる西周最大の太平期。礼楽制度が機能し、天下が安定した理想の時代として後世に語り継がれた。
昭王の南征 ── 漢水に消えた天子
西周の第4代王・昭王が楚の地へ南征し、帰途に漢水で溺死したとされる事件。天子が遠征先で非業の死を遂げるという前代未聞の出来事は、西周の軍事的限界と南方の楚の勢力を示す。
穆王の西征 ── 西王母伝説と天子の旅
西周の第5代王・穆王が八頭立ての馬車で西方を巡り、崑崙山で西王母と会見したという伝説。『穆天子伝』に記された壮大な旅は、西周の西方への関心と交流を反映する。
呂刑の制定 ── 穆王の法整備
穆王が呂侯に命じて刑法を整備させた「呂刑」は、中国に現存する最古の法典の一つ。「疑わしきは罰せず」の精神を含み、後世の法思想に大きな影響を与えた。
孝王と秦の起源 ── 非子が秦の地を賜る
西周の孝王が馬の飼育に長けた非子に秦の地を与え、嬴姓の祭祀を継がせた。これが後に天下を統一する秦の起源であり、辺境の馬飼いの一族が帝国を築く壮大な歴史の出発点。
西周の衰退と滅亡 ── 暴政・烽火・犬戎
厲王の暴政と国人暴動、宣王の一時的な中興を経て、幽王の愚政が西周に終止符を打つ。褒姒のために烽火を上げた幽王は犬戎に殺され、平王の東遷によって東周(春秋時代)が始まりました。
紀元前878年頃厲王の暴政 ── 専売制と言論弾圧
西周の第10代王・厲王は山林河川の利益を独占する専売制を敷き、批判する者を弾圧した。巫女を使って政府批判者を監視し密告させたため、人々は道で目配せするだけで口をつぐんだ。
国人暴動と共和の政治 ── 中国最古の確実な紀年
厲王の暴政に堪えかねた国人(都市住民)が蜂起し、厲王は彘(ち)に逃亡。周公と召公が共同で政治を行う「共和」が14年間続いた。紀元前841年は中国史上最古の確実な紀年として知られる。
宣王の即位と中興 ── 西周中興の祖
厲王の子・宣王が即位し、周召二公の補佐のもとで西周の中興を成し遂げた。異民族征伐、農政改革、制度の立て直しを進め、衰退しかけた周王朝に再び活力を取り戻した。
宣王の猃狁征伐 ── 北方異民族との戦い
宣王の命を受けた尹吉甫が北方の強敵・猃狁を征伐し、太原まで押し戻した。『詩経』の「六月」に詠まれたこの遠征は、宣王中興を象徴する軍事的成功。
宣王の料民政策 ── 人口調査と民の反発
宣王が太原の地で人口調査(料民)を実施しようとしたところ、仲山甫が強く諫めた。天子は徳で天下を治めるべきで、民を数えて管理するのは徳治に反するという思想が示された。
鄭国の建国 ── 宣王が弟を封じる
宣王が弟の友を鄭に封じて鄭国が建国された。後に鄭の桓公・武公・荘公は春秋初期の政治において重要な役割を果たす。西周末期に新たに封建された注目すべき諸侯国。
千畝の戦い ── 宣王の大敗北
宣王が姜戎に千畝の地で大敗を喫し、西周の軍事力の限界が露呈した。この敗北は宣王の威信を大きく傷つけ、中興の勢いに陰りをもたらした転換点。
幽王の即位 ── 西周最後の王
宣王の崩御後、子の幽王が即位。暗愚な王のもとで西周は急速に衰退し、政治は乱れ、天災も頻発した。幽王の即位は西周の滅亡へのカウントダウンの始まり。
褒姒と烽火戯諸侯 ── 笑わない美女のために
幽王は寵妃・褒姒を笑わせるために偽の烽火を上げて諸侯の軍を呼び寄せ、慌てて駆けつけた諸侯を見て褒姒が初めて笑った。後に本当の危機が訪れた時、誰も駆けつけなかった。
太子宜臼の廃立 ── 申后と太子の追放
幽王は褒姒を寵愛するあまり、正妻の申后と太子の宜臼を廃し、褒姒の子・伯服を太子に立てた。怒った申后の父・申侯は犬戎と結んで復讐を図ることとなる。
犬戎の侵入と幽王の死 ── 西周の滅亡
申侯が犬戎を引き入れて鎬京を攻撃。幽王は烽火を上げたが諸侯は信用せず駆けつけなかった。幽王は驪山のふもとで殺され、約270年続いた西周は滅亡した。
平王の東遷 ── 東周の始まりと春秋時代への道
太子宜臼が即位して平王となり、犬戎に荒らされた鎬京を捨てて洛邑に遷都した。これにより西周は東周に移行し、周王室の権威は急速に衰退。春秋時代の幕が開ける。
殷周時代 年表一覧
殷周時代の主要な出来事50件を年代順にまとめました。各出来事をクリックすると詳細ページに移動します。
| 年代 | 出来事 | 時期 | 関連する故事成語 |
|---|---|---|---|
| 前1600頃 | 湯王の革命・殷の建国 | 殷の繁栄 | 放伐 |
| 前1580頃 | 伊尹の輔政 | 殷の繁栄 | 鼎の調味 |
| 前1549頃 | 太甲の放逐と改心 | 殷の繁栄 | — |
| 前1500頃 | 九世の乱 | 殷の繁栄 | — |
| 前1400頃 | 盤庚の遷殷 | 殷の繁栄 | — |
| 前1350頃 | 武丁の中興・傅説の登用 | 殷の繁栄 | 版築の間 |
| 前1330頃 | 婦好の活躍 | 殷の繁栄 | — |
| 前1300頃 | 甲骨文字の誕生 | 殷の繁栄 | — |
| 前1280頃 | 殷の青銅器文化 | 殷の繁栄 | — |
| 前1250頃 | 殷の祭祀と宗教 | 殷の繁栄 | — |
| 前1220頃 | 殷の対外戦争 | 殷の繁栄 | — |
| 前1200頃 | 武乙の射天 | 殷の繁栄 | — |
| 前1154頃 | 帝乙の治世 | 殷の繁栄 | — |
| 前1100頃 | 古公亶父の岐山遷居 | 殷周革命 | — |
| 前1080頃 | 季歴の台頭 | 殷周革命 | — |
| 前1075頃 | 紂王の即位 | 殷周革命 | — |
| 前1068頃 | 酒池肉林 | 殷周革命 | 酒池肉林 |
| 前1060頃 | 炮烙の刑と妲己 | 殷周革命 | 炮烙の刑 |
| 前1056頃 | 西伯昌の羑里幽囚 | 殷周革命 | — |
| 前1055頃 | 太公望の登用 | 殷周革命 | 太公望 |
| 前1050頃 | 文王の徳治と勢力拡大 | 殷周革命 | — |
| 前1048頃 | 文王の崩御と武王の継承 | 殷周革命 | — |
| 前1046 | 牧野の戦い | 殷周革命 | — |
| 前1045頃 | 紂王の自焚・殷の滅亡 | 殷周革命 | — |
| 前1043頃 | 封建制の実施 | 殷周革命 | — |
| 前1042頃 | 武王の崩御・成王即位 | 西周の盛世 | — |
| 前1040頃 | 周公旦の摂政 | 西周の盛世 | 吐哺握髪 |
| 前1039頃 | 三監の乱 | 西周の盛世 | — |
| 前1036頃 | 周公旦の東征 | 西周の盛世 | — |
| 前1034頃 | 洛邑の建設 | 西周の盛世 | — |
| 前1032頃 | 制礼作楽 | 西周の盛世 | — |
| 前1025頃 | 成王の親政・桐葉封弟 | 西周の盛世 | 桐葉封弟 |
| 前1020頃 | 微子啓と宋国 | 西周の盛世 | 興滅継絶 |
| 前1005頃 | 成康の治 | 西周の盛世 | — |
| 前985頃 | 昭王の南征 | 西周の盛世 | — |
| 前976頃 | 穆王の西征 | 西周の盛世 | — |
| 前950頃 | 呂刑の制定 | 西周の盛世 | — |
| 前900頃 | 孝王と秦の起源 | 西周の盛世 | — |
| 前878頃 | 厲王の暴政 | 西周の衰亡 | 道路以目 |
| 前841 | 国人暴動・共和の政治 | 西周の衰亡 | 防民之口 |
| 前828 | 宣王の中興 | 西周の衰亡 | — |
| 前823頃 | 宣王の猃狁征伐 | 西周の衰亡 | — |
| 前811頃 | 宣王の料民政策 | 西周の衰亡 | — |
| 前806 | 鄭国の建国 | 西周の衰亡 | — |
| 前789 | 千畝の戦い | 西周の衰亡 | — |
| 前781 | 幽王の即位 | 西周の衰亡 | — |
| 前779頃 | 褒姒と烽火戯諸侯 | 西周の衰亡 | 烽火戯諸侯 |
| 前775頃 | 太子宜臼の廃立 | 西周の衰亡 | — |
| 前771 | 犬戎の侵入・幽王の死 | 西周の衰亡 | — |
| 前770 | 平王の東遷 | 西周の衰亡 | — |