春秋時代とは、周の平王が都を東の洛邑に移した紀元前770年から、越王勾践が呉を滅ぼした紀元前473年までの約300年間を指します。この時代の名称は、孔子が編纂したとされる魯の年代記『春秋』に由来します。
周王室の権威が衰え、各地の諸侯が独自に勢力を拡大した時代であり、「覇者」と呼ばれる有力な諸侯が会盟を通じて秩序を維持しようとしました。斉の桓公、晋の文公、楚の荘王、呉王闔閭、越王勾践ら「春秋五覇」の活躍はこの時代を象徴しています。
また、孔子・老子・孫武など、後世に巨大な影響を与えた思想家や軍略家が活躍したのもこの時代です。「管鮑の交わり」「退避三舎」「臥薪嘗胆」「鳴かず飛ばず」など、現代の日本語にも深く根付いた故事成語の多くが、春秋時代の出来事から生まれました。
東周初期 ── 王権の崩壊と諸侯の台頭
西周の滅亡により周王室の権威は地に落ち、各地の諸侯が独自の勢力圏を築き始めます。鄭・衛・宋・魯など中原の小国が主導権を争い、南方では楚が急速に台頭した時期です。
紀元前770年平王東遷 ── 東周の幕開け
西周最後の王・幽王が犬戎の侵攻で殺され、その子の平王が洛邑(現在の洛陽)に都を遷しました。これにより東周が始まりますが、周王室の実質的な権力は大幅に縮小し、諸侯の時代が始まります。幽王と褒姒をめぐる「烽火戯諸侯」の故事でも有名です。
『春秋』記述の開始年
魯の隠公元年にあたるこの年が、孔子が編纂したとされる歴史書『春秋』の記述開始年です。以後、魯の哀公14年(前481年)まで242年間の記録が残され、この時代の名称の由来となりました。『春秋左氏伝』はこの記録に詳細な注釈を加えた重要な歴史書です。
鄭伯克段于鄢 ── 兄弟の骨肉の争い
鄭の荘公が、母・武姜に溺愛された弟の共叔段を鄢の地で破った事件です。荘公は弟の野心を見抜きながらあえて泳がせ、反乱を起こした時点で一挙に討伐しました。母に対して「黄泉で相見えず」と絶縁を宣言しましたが、後に後悔してトンネルを掘って再会したという逸話が『春秋左氏伝』に記されています。
繻葛の戦い ── 天子の権威が地に落ちる
周の桓王が鄭の荘公を討伐するために軍を率いましたが、逆に鄭軍に敗北し、桓王自身が肩に矢を受ける屈辱を喫しました。天子が諸侯に軍事的に敗れたこの事件は、周王室の権威が名実ともに失墜したことを天下に示す象徴的な出来事でした。
楚の武王「王」を自称 ── 南方大国の挑戦
周王室から「子爵」という低い爵位しか与えられていなかった楚の君主が、自ら「王」を名乗りました。これは周の秩序への明確な挑戦であり、中原の諸侯とは異なる独自の道を歩む楚の姿勢を宣言した出来事です。以後300年以上、楚は中原諸国にとって最大の脅威であり続けました。
魯の桓公、斉で殺される
魯の桓公が斉を訪問した際、斉の襄公の命により殺害されました。背景には、襄公とその異母妹・文姜(桓公の夫人)との不義密通がありました。春秋時代の国際関係における礼と暴力の二面性を象徴する事件であり、『春秋左氏伝』はこの出来事を詳細に記録しています。
覇者の時代 ── 尊王攘夷と会盟政治
斉の桓公が管仲を登用して覇者となり、「尊王攘夷」の旗印のもと中原の秩序を維持しました。桓公の死後は晋の文公が覇権を継承し、城濮の戦いで強大な楚を破ります。この時期、会盟(かいめい)を通じた多国間の秩序維持が確立されました。
紀元前685年斉の桓公即位・管仲の登用 ── 覇者政治の始まり
公子小白が即位して斉の桓公となり、かつて敵であった管仲を宰相に登用しました。管仲は内政改革と富国強兵策を推進し、斉を春秋時代最初の覇者に押し上げます。「管鮑の交わり」として知られる管仲と鮑叔牙の友情は、真の友情の代名詞として現代にも語り継がれています。
北杏の会盟 ── 最初の覇者会盟
斉の桓公が宋・陳・蔡・邾の諸侯を北杏に集めて会盟を開催しました。これは桓公が主導した最初の多国間会盟であり、覇者政治の原型となりました。周王室に代わって諸侯が国際秩序を維持するという新しい政治形態の始まりです。
斉が山戎を討伐 ── 「老馬の智」
北方異民族の山戎に攻められた燕を救うため、斉の桓公が遠征軍を派遣しました。帰路に道に迷った際、管仲が老馬を放って先導させ、無事に帰還できたという逸話から「老馬の智」(老馬之智)の故事成語が生まれました。経験豊富な者の知恵を尊重すべきという教訓です。
衛が狄に滅ぼされる
北方の遊牧民族・狄(てき)が衛を攻撃し、都城を陥落させて国を滅ぼしました。衛の君主は殺され、わずかな生存者が各地に散りました。その後、斉の桓公の支援を受けて衛は再建されましたが、かつての国力を回復することはありませんでした。覇者の存在意義を示す象徴的な出来事です。
召陵の会盟 ── 斉が楚を牽制
斉の桓公が大軍を率いて楚に進軍し、楚に対して周王室への茅(ちがや)の貢物を怠った罪を問いました。直接の軍事衝突は避けられ、楚が形式的に譲歩する形で和平が成立。中原の盟主・斉と南方の大国・楚が初めて本格的に対峙した画期的な出来事です。
葵丘の会盟 ── 桓公の覇権の絶頂
斉の桓公が周の天子の使者を迎えて葵丘で大会盟を開催しました。桓公の覇権の頂点を示す出来事であり、九つの盟約が交わされました。周の天子から胙肉(祭祀の肉)を賜り、拝礼を免除されるという破格の待遇を受けましたが、管仲はこの驕りを戒めたと伝えられています。
韓原の戦い ── 秦が晋を破る
秦の穆公が晋の恵公を韓原の地で破り、恵公を捕虜にしました。恵公はかつて穆公の支援で即位しながら、約束した土地の割譲を反故にしていました。この戦いは信義を守ることの重要性を示す教訓として語り継がれ、秦と晋の複雑な関係の転換点となりました。
斉の桓公の死 ── 覇者の凄惨な最期
春秋最初の覇者・斉の桓公が死去しました。晩年の桓公は管仲の遺言を無視して奸臣を重用し、死後は五人の公子が後継を争って内乱に陥りました。桓公の遺体は67日間も放置され、虫が湧いて窓から這い出したと伝えられています。覇者の栄光と、後継問題の恐ろしさを同時に示す出来事です。
泓水の戦い ── 「宋襄の仁」
宋の襄公が楚と泓水で戦った際、楚軍が川を渡り終えるまで攻撃を仕掛けず、結果として大敗を喫しました。襄公は「君子は人の困っている時につけ込まない」と弁明しましたが、「宋襄の仁」として無意味な仁義、時代錯誤の愚かさの代名詞となりました。
晋の重耳、19年の放浪を経て帰国即位
晋の公子・重耳(後の文公)は、父の迫害を逃れて19年間にわたり各国を放浪しました。楚の成王に厚遇された際、「もし両軍が戦場で相見えたら、三舎(約90里)を退きましょう」と約束しました。この約束が後に「退避三舎」の故事成語となります。帰国後、即位して晋を強国に育て上げました。
城濮の戦い ── 晋の文公が覇者となる
晋の文公が楚の大軍と城濮で激突し、大勝を収めました。文公はかつての約束通り三舎を退いて楚軍を誘い込む戦術を採り、楚を完膚なきまでに破りました。この勝利により文公は諸侯を集めて践土の会盟を行い、名実ともに覇者の地位を確立しました。
晋の文公の死
城濮の戦いからわずか4年後、晋の文公が死去しました。在位わずか9年でしたが、19年の放浪で培った人脈と見識で晋を覇者に導きました。文公の死により覇権の安定期は終わり、以後は晋・楚・秦の三大国による流動的な勢力争いの時代に入ります。
列国抗争 ── 楚の台頭と中原の激動
晋の文公の死後、楚の荘王が台頭して覇者となり、晋と楚の間で大規模な戦争が繰り返されます。やがて両国の疲弊により弭兵(武器を止める)の和平が成立し、一方で子産のような名政治家が現れて小国の外交術が注目された時期です。孔子もこの時期に誕生しました。
紀元前627年殽の戦い ── 蹇叔の涙
秦の穆公が鄭を奇襲しようとして軍を派遣しましたが、老臣の蹇叔は必ず失敗すると涙ながらに諫めました。秦軍は鄭の奇襲に失敗し、帰路に晋軍の伏兵に遭って壊滅的な敗北を喫します。老練な臣下の忠告を聞かなかった報いとして「蹇叔の涙」の故事が生まれました。
秦の穆公、西戎を制覇
中原での覇権争いで晋に阻まれた秦の穆公は、西方の異民族(西戎)の征服に方針を転換し、12の戎国を服属させました。周の天子から祝賀の使者が派遣され、穆公は「西方の覇者」として認められました。秦が後に天下統一を果たす遠い原点ともいえる出来事です。
楚の荘王即位 ── 「鳴かず飛ばず」
楚の荘王が即位しましたが、即位後3年間は政治を顧みず、酒色に耽りました。臣下が「丘の上に鳥がいるが、三年の間鳴きもしなければ飛びもしない。これは何の鳥か」と暗に諫めると、荘王は「ひとたび飛べば天に沖し、ひとたび鳴けば人を驚かす」と答えました。これが「鳴かず飛ばず」の故事成語の起源です。
楚の荘王「鼎の軽重を問う」
楚の荘王が軍を率いて周王室の領域に入り、周の使者に対して王権の象徴である九鼎の大きさと重さを尋ねました。これは天下を取る野心の表明であり、「鼎の軽重を問う」(問鼎中原)という故事成語として、権力者への挑戦や権威を侮る行為を意味するようになりました。
邲の戦い ── 楚の荘王が覇者に
楚の荘王が鄭を包囲し、救援に来た晋軍と邲(ひつ)で激突して大勝しました。晋軍は壊滅的な敗北を喫し、多くの兵士が黄河を渡って逃げようとして溺死しました。この勝利により、荘王は名実ともに中原の覇者となり、楚の最盛期を迎えます。
鞍の戦い ── 晋が斉を破る
晋が斉を鞍の地で破った戦いです。斉の頃公は危機に陥りましたが、家臣の逢丑父が身代わりとなって捕虜になり、頃公は脱出に成功しました。忠臣の献身として語り継がれる逸話であり、晋の軍事的優位を再確認させた戦いでもあります。
鄢陵の戦い ── 晋楚最後の大決戦
晋と楚が鄢陵(えんりょう)で激突した、両大国の最後の大規模直接対決です。晋が勝利しましたが、楚の共王は片目を負傷するほどの激戦でした。この戦い以降、両国とも疲弊が進み、やがて弭兵(和平)の機運が高まっていきます。
晋の悼公の覇権確立
晋の悼公は若くして即位し、卓越した政治手腕で晋の覇権を再建しました。楚に奪われていた鄭を再び晋の陣営に引き戻し、諸侯の信頼を回復させた名君です。しかし29歳で夭折し、その後の晋は内部の有力氏族の抗争により次第に衰退していきます。
孔子の誕生
魯の昌平郷陬邑に、後の中国思想の最大の巨人・孔子(孔丘)が誕生しました。没落した貴族の家に生まれた孔子は、学問と礼を通じて社会の秩序回復を目指す「儒学」を創始し、その教えは東アジア全域に計り知れない影響を与えました。弟子3000人、優れた弟子72人と伝えられています。
崔杼、斉の荘公を弑殺 ── 太史の直筆
斉の権臣・崔杼が、自分の妻と密通していた主君の荘公を殺害しました。斉の太史(記録官)が「崔杼、その君を弑す」と記録したところ、崔杼は太史を殺しましたが、後任の太史も同じ記録を書き、その弟もまた同じ記録を書きました。歴史を記録する者の気骨を示す「太史の直筆」の故事です。
弭兵の会 ── 晋楚の和平会議
宋の向戌の仲裁により、晋と楚の二大国が宋で和平会議を開き、「弭兵(兵を止める)」の盟約を結びました。以後約40年間、晋楚間の大規模な軍事衝突はなくなりました。しかしこの和平は、両国が内部問題を抱えていたための消極的な平和であり、春秋の重心は東南の呉越に移っていきます。
子産、鄭の執政に就任
小国・鄭の子産(公孫僑)が執政(首相)に就任しました。子産は晋と楚という二大国に挟まれた鄭の独立を、巧みな外交術と内政改革で維持した名宰相です。田畑の区画整理、税制改革、成文法の公開など、画期的な政策を次々と実行しました。孔子は子産を深く尊敬していたと伝えられています。
子産、刑鼎を鋳る ── 中国最古の成文法
子産が鄭の法律を鼎(青銅の大釜)に鋳込んで公開しました。これは中国で最も古い成文法の公開とされています。晋の叔向は「民が法律を知れば上に従わなくなる」と批判しましたが、子産は「法の公開こそ民の信頼を得る道」と応じました。法治と人治の論争の原点です。
楚の霊王の自殺
楚の霊王は章華台という壮麗な宮殿を建設し、諸侯を集めて盛大な宴を開くなど驕奢を極めました。しかし国内で弟たちのクーデターが起き、味方を失った霊王は山中をさまよった末に自殺しました。権力の頂点からの転落として、暴君の末路を象徴する出来事です。
伍子胥、楚から亡命 ── 一夜白髪
楚の名臣・伍奢の子である伍子胥(伍員)は、父と兄が楚の平王に殺されたことを知り、復讐を誓って亡命しました。楚の国境・昭関で追っ手に追われた際、一夜にして白髪になったと伝えられています。この苦難の逃亡は、後に壮大な復讐劇へとつながっていきます。
孔子、斉に遊学 ── 韶楽を聴く
魯の政変により孔子は斉に赴きました。斉で舜の時代の音楽「韶」を聴いた孔子は、その美しさに感動し、三か月間肉の味がわからなくなったと伝えられています。「三月肉の味を知らず」の故事として、芸術への深い感動を表す言葉になりました。斉の景公は孔子を登用しようとしましたが、実現しませんでした。
呉越の時代 ── 復讐と覇権の最終章
春秋時代の最終章は、長江下流域の呉と越を舞台に展開します。伍子胥と孫武が呉を強国に育て、呉王夫差と越王勾践が「臥薪嘗胆」の故事で知られる壮絶な覇権争いを繰り広げました。孔子の最晩年もこの時期に重なります。
紀元前515年専諸、呉王僚を暗殺 ── 魚腸剣
公子光(後の呉王闔閭)が刺客の専諸を使って呉王僚を暗殺した事件です。専諸は焼き魚の中に短剣(魚腸剣)を忍ばせ、宴席で呉王僚に料理を差し出す際に剣を引き抜いて刺殺しました。公子光は即位して闔閭となり、伍子胥と孫武を登用して呉を急速に強国化させます。
孫武、呉に仕える ── 『孫子の兵法』
伍子胥の推薦により、兵法家の孫武が呉王闔閭に仕えることになりました。闘閭は孫武の能力を試すために宮女を使った軍事訓練を命じましたが、孫武は王の寵姫二人を隊長に任命し、命令に従わなかったため斬首しました。これにより闔閭は孫武の軍才を確信し、将軍に任じました。『孫子の兵法』は世界最古の体系的な軍事理論書です。
伍子胥、蘇州城を築く
伍子胥が闔閭の命を受けて、呉の新都城「闔閭大城」(現在の蘇州の原型)を設計・建設しました。八つの水門と陸門を備えた堅固な城郭都市で、水路を巧みに利用した都市計画は、後の蘇州の発展の基礎となりました。伍子胥の軍事的才能は都市計画にも発揮されたのです。
柏挙の戦い ── 伍子胥の復讐成る
呉王闔閭が伍子胥・孫武の指揮のもと、3万の兵で楚の20万の大軍を柏挙で破り、楚の都・郢を陥落させました。伍子胥は父の仇である楚の平王の墓を暴き、その遺体に鞭を300回打ったと伝えられています。「死者に鞭打つ」(鞭屍)の故事の起源であり、壮大な復讐劇の完結です。
申包胥、秦に泣いて援軍を請う
楚の忠臣・申包胥は、呉に占領された祖国を救うため秦に赴き、援軍を請いました。秦が応じないと見ると、秦の宮殿の壁に寄りかかって七日七晩泣き続けました。秦の哀公はその忠義に感動して援軍を派遣し、呉軍を撤退させました。友人の伍子胥が楚を滅ぼし、申包胥が楚を救うという数奇な運命の対比です。
檇李の戦い ── 呉王闔閭の戦死
呉王闔閭が越を攻めましたが、越王勾践の奇策により敗北しました。勾践は死刑囚に自陣の前で自刎させるという奇怪な戦術で呉軍を驚かせ、混乱に乗じて攻撃しました。闔閭は足の指に傷を受け、その傷が悪化して死亡。死に際に太子の夫差に「越が父を殺したことを忘れるな」と遺言しました。
夫椒の戦い ── 勾践の降伏と臥薪嘗胆の始まり
呉王夫差が父の仇を討つため越を攻め、夫椒の地で大勝しました。夫差は薪の上に寝て(臥薪)復讐心を忘れなかったのです。追い詰められた勾践は、范蠡の進言に従って降伏し、呉で夫差の馬番として3年間の屈辱的な奉仕生活を送りました。勾践は苦い胆を嘗めて(嘗胆)復讐を誓い続けました。
孔子、陳蔡の間で困窮
諸国を遍歴していた孔子が、陳と蔡の間で軍に包囲され、食料が尽きて7日間飢えに苦しんだ事件です。弟子の子路は不満を漏らしましたが、孔子は「君子も窮することがあるが、小人は窮すると乱れる」と説き、琴を弾き歌い続けたと伝えられています。逆境における君子の態度を示す逸話です。
伍子胥の死 ── 忠臣の悲劇
伍子胥は越の脅威を繰り返し警告しましたが、呉王夫差は奸臣の伯嚭の讒言を信じ、伍子胥に自殺を命じました。伍子胥は死に際に「私の目を抉り出して呉の東門に掛けよ。越が呉を滅ぼすのを見届けたい」と言い残しました。この予言は後に現実のものとなります。
艾陵の戦い ── 呉が斉を破る
呉王夫差が大軍を率いて斉を攻め、艾陵で大勝しました。この勝利により呉の勢力は山東半島にまで及び、夫差の中原制覇の野望は頂点に達しました。しかし、伍子胥を失い、越の脅威を軽視したこの北方遠征こそが、呉の滅亡への第一歩でした。
黄池の会 ── 夫差の野望の頂点
呉王夫差が晋と黄池で会盟を行い、盟主の座を争いました。夫差は武力を背景に盟主の地位を主張しましたが、まさにこの時、留守の呉を越王勾践が攻撃し、呉の太子を殺害しました。覇権の頂点が同時に破滅の始まりでもあったという、劇的な転換点です。
孔子の死
73歳の孔子が魯で死去しました。死の直前、孔子は「泰山崩れたり、梁柱摧けたり、哲人萎えたり」と歌ったと伝えられています。生前は政治的な理想を実現できませんでしたが、その教えは弟子たちによって『論語』にまとめられ、2500年にわたって東アジアの思想と文化の根幹を形成し続けています。
越が呉に反攻開始 ── 笠沢の戦い
越王勾践が本格的に呉への反攻を開始し、笠沢で呉軍を大破しました。20年近くにわたる臥薪嘗胆の日々を経て、勾践はついに復讐の最終段階に入りました。呉は黄池の会での消耗と越の攻撃により急速に衰退していきます。
越王勾践、呉を滅ぼす ── 臥薪嘗胆の完結
越王勾践がついに呉を滅亡させました。呉王夫差は自殺し、死に際に「地下で伍子胥に合わせる顔がない」と布で顔を覆って死んだと伝えられています。紀元前494年の敗北から約20年、勾践の「臥薪嘗胆」が結実した瞬間です。この勝利により、勾践は春秋時代最後の覇者となりました。
范蠡の引退 ── 陶朱公となる
勾践の最大の功臣・范蠡は、呉を滅ぼした後に越を去りました。范蠡は文種に「高い鳥が尽きれば良い弓はしまわれ、狡い兎が死ねば走狗は烹られる(狡兎死して走狗烹らる)」と警告の手紙を送りましたが、文種はこの忠告を聞かずに残り、後に勾践に殺されました。范蠡自身は名を陶朱公と変えて商人となり巨富を築きました。
勾践の覇権確立 ── 春秋時代の終幕
越王勾践は琅琊(現在の山東省)に遷都し、周王室から正式に覇者として認められました。しかし勾践の死後、越は急速に衰退し、やがて楚に併合されました。勾践の覇権は春秋時代の最後を飾るとともに、より激烈な戦国時代の幕開けを告げるものでもありました。
春秋時代 年表一覧
春秋時代の主要な出来事50件を年代順にまとめました。各出来事をクリックすると詳細ページに移動します。
| 年代 | 出来事 | 時期 | 関連する故事成語 |
|---|---|---|---|
| 前770 | 平王東遷・東周の開始 | 東周初期 | 烽火戯諸侯 |
| 前722 | 『春秋』記述の開始年 | 東周初期 | 春秋の筆法 |
| 前712 | 鄭伯克段于鄢 | 東周初期 | 黄泉で相見えず |
| 前707 | 繻葛の戦い | 東周初期 | 天子の権威失墜 |
| 前704 | 楚の武王「王」を自称 | 東周初期 | — |
| 前694 | 魯の桓公、斉で殺される | 東周初期 | — |
| 前685 | 斉の桓公即位・管仲の登用 | 覇者の時代 | 管鮑の交わり |
| 前681 | 北杏の会盟 | 覇者の時代 | — |
| 前663 | 斉が山戎を討伐 | 覇者の時代 | 老馬の智 |
| 前660 | 衛が狄に滅ぼされる | 覇者の時代 | — |
| 前656 | 召陵の会盟 | 覇者の時代 | 尊王攘夷 |
| 前651 | 葵丘の会盟 | 覇者の時代 | 九合諸侯 |
| 前645 | 韓原の戦い | 覇者の時代 | — |
| 前643 | 斉の桓公の死 | 覇者の時代 | — |
| 前638 | 泓水の戦い | 覇者の時代 | 宋襄の仁 |
| 前636 | 晋の重耳、帰国即位 | 覇者の時代 | 退避三舎 |
| 前632 | 城濮の戦い | 覇者の時代 | 退避三舎(実行) |
| 前628 | 晋の文公の死 | 覇者の時代 | — |
| 前627 | 殽の戦い | 列国抗争 | 蹇叔の涙 |
| 前624 | 秦の穆公、西戎を制覇 | 列国抗争 | — |
| 前613 | 楚の荘王即位 | 列国抗争 | 鳴かず飛ばず |
| 前606 | 楚の荘王「鼎の軽重を問う」 | 列国抗争 | 問鼎中原 |
| 前597 | 邲の戦い | 列国抗争 | — |
| 前589 | 鞍の戦い | 列国抗争 | — |
| 前575 | 鄢陵の戦い | 列国抗争 | — |
| 前563 | 晋の悼公の覇権確立 | 列国抗争 | — |
| 前551 | 孔子の誕生 | 列国抗争 | — |
| 前548 | 崔杼、斉の荘公を弑殺 | 列国抗争 | 太史の直筆 |
| 前546 | 弭兵の会 | 列国抗争 | — |
| 前543 | 子産、鄭の執政に就任 | 列国抗争 | — |
| 前536 | 子産、刑鼎を鋳る | 列国抗争 | — |
| 前529 | 楚の霊王の自殺 | 列国抗争 | — |
| 前522 | 伍子胥、楚から亡命 | 列国抗争 | 一夜白髪 |
| 前517 | 孔子、斉に遊学 | 列国抗争 | 三月不知肉味 |
| 前515 | 専諸、呉王僚を暗殺 | 呉越の時代 | 魚腸剣 |
| 前512 | 孫武、呉に仕える | 呉越の時代 | 孫子の兵法 |
| 前510 | 伍子胥、蘇州城を築く | 呉越の時代 | — |
| 前506 | 柏挙の戦い | 呉越の時代 | 鞭屍 |
| 前505 | 申包胥、秦に泣いて援軍を請う | 呉越の時代 | 七日七晩の慟哭 |
| 前496 | 檇李の戦い | 呉越の時代 | — |
| 前494 | 夫椒の戦い | 呉越の時代 | 臥薪嘗胆 |
| 前489 | 孔子、陳蔡で困窮 | 呉越の時代 | 君子固窮 |
| 前485 | 伍子胥の死 | 呉越の時代 | — |
| 前484 | 艾陵の戦い | 呉越の時代 | — |
| 前482 | 黄池の会 | 呉越の時代 | — |
| 前479 | 孔子の死 | 呉越の時代 | 泰山崩れたり |
| 前478 | 笠沢の戦い | 呉越の時代 | — |
| 前473 | 越王勾践、呉を滅ぼす | 呉越の時代 | 臥薪嘗胆 |
| 前472 | 范蠡の引退 | 呉越の時代 | 狡兎死して走狗烹らる |
| 前468 | 勾践の覇権確立 | 呉越の時代 | — |