Spring and Autumn Period

春秋時代
激動の300年

紀元前770年〜前473年 ── 覇者たちが天下を争い、孔子が理想を説き、呉越が死闘を繰り広げた。故事成語の宝庫・春秋時代の全貌を50の出来事で読み解く。

春秋時代とは、周の平王が都を東の洛邑に移した紀元前770年から、越王勾践が呉を滅ぼした紀元前473年までの約300年間を指します。この時代の名称は、孔子が編纂したとされる魯の年代記『春秋』に由来します。

周王室の権威が衰え、各地の諸侯が独自に勢力を拡大した時代であり、「覇者」と呼ばれる有力な諸侯が会盟を通じて秩序を維持しようとしました。斉の桓公、晋の文公、楚の荘王、呉王闔閭、越王勾践ら「春秋五覇」の活躍はこの時代を象徴しています。

また、孔子・老子・孫武など、後世に巨大な影響を与えた思想家や軍略家が活躍したのもこの時代です。「管鮑の交わり」「退避三舎」「臥薪嘗胆」「鳴かず飛ばず」など、現代の日本語にも深く根付いた故事成語の多くが、春秋時代の出来事から生まれました。

このページでは、春秋時代の主要な出来事50件を4つの時期に分けて紹介しています。各出来事のカードをクリックすると、詳細な解説ページに移動します。
Period I : BC770–BC686

東周初期 ── 王権の崩壊と諸侯の台頭

西周の滅亡により周王室の権威は地に落ち、各地の諸侯が独自の勢力圏を築き始めます。鄭・衛・宋・魯など中原の小国が主導権を争い、南方では楚が急速に台頭した時期です。

紀元前770年

平王東遷 ── 東周の幕開け

西周最後の王・幽王が犬戎の侵攻で殺され、その子の平王が洛邑(現在の洛陽)に都を遷しました。これにより東周が始まりますが、周王室の実質的な権力は大幅に縮小し、諸侯の時代が始まります。幽王と褒姒をめぐる「烽火戯諸侯」の故事でも有名です。

幽王褒姒犬戎洛邑烽火戯諸侯
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紀元前722年

『春秋』記述の開始年

魯の隠公元年にあたるこの年が、孔子が編纂したとされる歴史書『春秋』の記述開始年です。以後、魯の哀公14年(前481年)まで242年間の記録が残され、この時代の名称の由来となりました。『春秋左氏伝』はこの記録に詳細な注釈を加えた重要な歴史書です。

春秋魯の隠公春秋左氏伝孔子
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紀元前712年

鄭伯克段于鄢 ── 兄弟の骨肉の争い

鄭の荘公が、母・武姜に溺愛された弟の共叔段を鄢の地で破った事件です。荘公は弟の野心を見抜きながらあえて泳がせ、反乱を起こした時点で一挙に討伐しました。母に対して「黄泉で相見えず」と絶縁を宣言しましたが、後に後悔してトンネルを掘って再会したという逸話が『春秋左氏伝』に記されています。

鄭の荘公共叔段武姜黄泉で相見えず
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紀元前707年

繻葛の戦い ── 天子の権威が地に落ちる

周の桓王が鄭の荘公を討伐するために軍を率いましたが、逆に鄭軍に敗北し、桓王自身が肩に矢を受ける屈辱を喫しました。天子が諸侯に軍事的に敗れたこの事件は、周王室の権威が名実ともに失墜したことを天下に示す象徴的な出来事でした。

周の桓王鄭の荘公天子の権威繻葛
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紀元前704年

楚の武王「王」を自称 ── 南方大国の挑戦

周王室から「子爵」という低い爵位しか与えられていなかった楚の君主が、自ら「王」を名乗りました。これは周の秩序への明確な挑戦であり、中原の諸侯とは異なる独自の道を歩む楚の姿勢を宣言した出来事です。以後300年以上、楚は中原諸国にとって最大の脅威であり続けました。

楚の武王王号南方周の秩序への挑戦
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紀元前694年

魯の桓公、斉で殺される

魯の桓公が斉を訪問した際、斉の襄公の命により殺害されました。背景には、襄公とその異母妹・文姜(桓公の夫人)との不義密通がありました。春秋時代の国際関係における礼と暴力の二面性を象徴する事件であり、『春秋左氏伝』はこの出来事を詳細に記録しています。

魯の桓公斉の襄公文姜弑逆
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Period II : BC685–BC628

覇者の時代 ── 尊王攘夷と会盟政治

斉の桓公が管仲を登用して覇者となり、「尊王攘夷」の旗印のもと中原の秩序を維持しました。桓公の死後は晋の文公が覇権を継承し、城濮の戦いで強大な楚を破ります。この時期、会盟(かいめい)を通じた多国間の秩序維持が確立されました。

紀元前685年

斉の桓公即位・管仲の登用 ── 覇者政治の始まり

公子小白が即位して斉の桓公となり、かつて敵であった管仲を宰相に登用しました。管仲は内政改革と富国強兵策を推進し、斉を春秋時代最初の覇者に押し上げます。「管鮑の交わり」として知られる管仲と鮑叔牙の友情は、真の友情の代名詞として現代にも語り継がれています。

斉の桓公管仲鮑叔牙管鮑の交わり覇者
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紀元前681年

北杏の会盟 ── 最初の覇者会盟

斉の桓公が宋・陳・蔡・邾の諸侯を北杏に集めて会盟を開催しました。これは桓公が主導した最初の多国間会盟であり、覇者政治の原型となりました。周王室に代わって諸侯が国際秩序を維持するという新しい政治形態の始まりです。

会盟覇者政治国際秩序斉の桓公
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紀元前663年

斉が山戎を討伐 ── 「老馬の智」

北方異民族の山戎に攻められた燕を救うため、斉の桓公が遠征軍を派遣しました。帰路に道に迷った際、管仲が老馬を放って先導させ、無事に帰還できたという逸話から「老馬の智」(老馬之智)の故事成語が生まれました。経験豊富な者の知恵を尊重すべきという教訓です。

山戎老馬の智管仲
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紀元前660年

衛が狄に滅ぼされる

北方の遊牧民族・狄(てき)が衛を攻撃し、都城を陥落させて国を滅ぼしました。衛の君主は殺され、わずかな生存者が各地に散りました。その後、斉の桓公の支援を受けて衛は再建されましたが、かつての国力を回復することはありませんでした。覇者の存在意義を示す象徴的な出来事です。

衛の文公覇者の責任
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紀元前656年

召陵の会盟 ── 斉が楚を牽制

斉の桓公が大軍を率いて楚に進軍し、楚に対して周王室への茅(ちがや)の貢物を怠った罪を問いました。直接の軍事衝突は避けられ、楚が形式的に譲歩する形で和平が成立。中原の盟主・斉と南方の大国・楚が初めて本格的に対峙した画期的な出来事です。

召陵斉と楚の対峙茅貢問題尊王攘夷
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紀元前651年

葵丘の会盟 ── 桓公の覇権の絶頂

斉の桓公が周の天子の使者を迎えて葵丘で大会盟を開催しました。桓公の覇権の頂点を示す出来事であり、九つの盟約が交わされました。周の天子から胙肉(祭祀の肉)を賜り、拝礼を免除されるという破格の待遇を受けましたが、管仲はこの驕りを戒めたと伝えられています。

葵丘の会盟覇権の絶頂九合諸侯周の天子
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紀元前645年

韓原の戦い ── 秦が晋を破る

秦の穆公が晋の恵公を韓原の地で破り、恵公を捕虜にしました。恵公はかつて穆公の支援で即位しながら、約束した土地の割譲を反故にしていました。この戦いは信義を守ることの重要性を示す教訓として語り継がれ、秦と晋の複雑な関係の転換点となりました。

秦の穆公晋の恵公信義韓原
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紀元前643年

斉の桓公の死 ── 覇者の凄惨な最期

春秋最初の覇者・斉の桓公が死去しました。晩年の桓公は管仲の遺言を無視して奸臣を重用し、死後は五人の公子が後継を争って内乱に陥りました。桓公の遺体は67日間も放置され、虫が湧いて窓から這い出したと伝えられています。覇者の栄光と、後継問題の恐ろしさを同時に示す出来事です。

桓公の死五公子の乱覇者の凋落易牙・竪刁
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紀元前638年

泓水の戦い ── 「宋襄の仁」

宋の襄公が楚と泓水で戦った際、楚軍が川を渡り終えるまで攻撃を仕掛けず、結果として大敗を喫しました。襄公は「君子は人の困っている時につけ込まない」と弁明しましたが、「宋襄の仁」として無意味な仁義、時代錯誤の愚かさの代名詞となりました。

宋の襄公宋襄の仁泓水
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紀元前636年

晋の重耳、19年の放浪を経て帰国即位

晋の公子・重耳(後の文公)は、父の迫害を逃れて19年間にわたり各国を放浪しました。楚の成王に厚遇された際、「もし両軍が戦場で相見えたら、三舎(約90里)を退きましょう」と約束しました。この約束が後に「退避三舎」の故事成語となります。帰国後、即位して晋を強国に育て上げました。

晋の文公重耳19年の放浪退避三舎介子推
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紀元前632年

城濮の戦い ── 晋の文公が覇者となる

晋の文公が楚の大軍と城濮で激突し、大勝を収めました。文公はかつての約束通り三舎を退いて楚軍を誘い込む戦術を採り、楚を完膚なきまでに破りました。この勝利により文公は諸侯を集めて践土の会盟を行い、名実ともに覇者の地位を確立しました。

城濮の戦い晋の文公践土の会盟退避三舎の実行
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紀元前628年

晋の文公の死

城濮の戦いからわずか4年後、晋の文公が死去しました。在位わずか9年でしたが、19年の放浪で培った人脈と見識で晋を覇者に導きました。文公の死により覇権の安定期は終わり、以後は晋・楚・秦の三大国による流動的な勢力争いの時代に入ります。

晋の文公覇権の転換晋楚秦の三国鼎立
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Period III : BC627–BC516

列国抗争 ── 楚の台頭と中原の激動

晋の文公の死後、楚の荘王が台頭して覇者となり、晋と楚の間で大規模な戦争が繰り返されます。やがて両国の疲弊により弭兵(武器を止める)の和平が成立し、一方で子産のような名政治家が現れて小国の外交術が注目された時期です。孔子もこの時期に誕生しました。

紀元前627年

殽の戦い ── 蹇叔の涙

秦の穆公が鄭を奇襲しようとして軍を派遣しましたが、老臣の蹇叔は必ず失敗すると涙ながらに諫めました。秦軍は鄭の奇襲に失敗し、帰路に晋軍の伏兵に遭って壊滅的な敗北を喫します。老練な臣下の忠告を聞かなかった報いとして「蹇叔の涙」の故事が生まれました。

殽の戦い秦の穆公蹇叔の涙晋の伏兵
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紀元前624年

秦の穆公、西戎を制覇

中原での覇権争いで晋に阻まれた秦の穆公は、西方の異民族(西戎)の征服に方針を転換し、12の戎国を服属させました。周の天子から祝賀の使者が派遣され、穆公は「西方の覇者」として認められました。秦が後に天下統一を果たす遠い原点ともいえる出来事です。

秦の穆公西戎征服西方の覇者百里奚
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紀元前613年

楚の荘王即位 ── 「鳴かず飛ばず」

楚の荘王が即位しましたが、即位後3年間は政治を顧みず、酒色に耽りました。臣下が「丘の上に鳥がいるが、三年の間鳴きもしなければ飛びもしない。これは何の鳥か」と暗に諫めると、荘王は「ひとたび飛べば天に沖し、ひとたび鳴けば人を驚かす」と答えました。これが「鳴かず飛ばず」の故事成語の起源です。

楚の荘王鳴かず飛ばず一鳴驚人三年不蜚
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紀元前606年

楚の荘王「鼎の軽重を問う」

楚の荘王が軍を率いて周王室の領域に入り、周の使者に対して王権の象徴である九鼎の大きさと重さを尋ねました。これは天下を取る野心の表明であり、「鼎の軽重を問う」(問鼎中原)という故事成語として、権力者への挑戦や権威を侮る行為を意味するようになりました。

問鼎中原楚の荘王九鼎天下への野心
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紀元前597年

邲の戦い ── 楚の荘王が覇者に

楚の荘王が鄭を包囲し、救援に来た晋軍と邲(ひつ)で激突して大勝しました。晋軍は壊滅的な敗北を喫し、多くの兵士が黄河を渡って逃げようとして溺死しました。この勝利により、荘王は名実ともに中原の覇者となり、楚の最盛期を迎えます。

邲の戦い楚の荘王晋の大敗楚の覇権
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紀元前589年

鞍の戦い ── 晋が斉を破る

晋が斉を鞍の地で破った戦いです。斉の頃公は危機に陥りましたが、家臣の逢丑父が身代わりとなって捕虜になり、頃公は脱出に成功しました。忠臣の献身として語り継がれる逸話であり、晋の軍事的優位を再確認させた戦いでもあります。

鞍の戦い晋と斉逢丑父忠臣の献身
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紀元前575年

鄢陵の戦い ── 晋楚最後の大決戦

晋と楚が鄢陵(えんりょう)で激突した、両大国の最後の大規模直接対決です。晋が勝利しましたが、楚の共王は片目を負傷するほどの激戦でした。この戦い以降、両国とも疲弊が進み、やがて弭兵(和平)の機運が高まっていきます。

鄢陵の戦い晋楚の最終決戦楚の共王両国の疲弊
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紀元前563年

晋の悼公の覇権確立

晋の悼公は若くして即位し、卓越した政治手腕で晋の覇権を再建しました。楚に奪われていた鄭を再び晋の陣営に引き戻し、諸侯の信頼を回復させた名君です。しかし29歳で夭折し、その後の晋は内部の有力氏族の抗争により次第に衰退していきます。

晋の悼公覇権の再建夭折の名君晋の内紛
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紀元前551年

孔子の誕生

魯の昌平郷陬邑に、後の中国思想の最大の巨人・孔子(孔丘)が誕生しました。没落した貴族の家に生まれた孔子は、学問と礼を通じて社会の秩序回復を目指す「儒学」を創始し、その教えは東アジア全域に計り知れない影響を与えました。弟子3000人、優れた弟子72人と伝えられています。

孔子儒学の始祖仁と礼
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紀元前548年

崔杼、斉の荘公を弑殺 ── 太史の直筆

斉の権臣・崔杼が、自分の妻と密通していた主君の荘公を殺害しました。斉の太史(記録官)が「崔杼、その君を弑す」と記録したところ、崔杼は太史を殺しましたが、後任の太史も同じ記録を書き、その弟もまた同じ記録を書きました。歴史を記録する者の気骨を示す「太史の直筆」の故事です。

崔杼太史の直筆斉の荘公歴史記録の気骨
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紀元前546年

弭兵の会 ── 晋楚の和平会議

宋の向戌の仲裁により、晋と楚の二大国が宋で和平会議を開き、「弭兵(兵を止める)」の盟約を結びました。以後約40年間、晋楚間の大規模な軍事衝突はなくなりました。しかしこの和平は、両国が内部問題を抱えていたための消極的な平和であり、春秋の重心は東南の呉越に移っていきます。

弭兵の会向戌晋楚和平宋の仲裁外交
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紀元前543年

子産、鄭の執政に就任

小国・鄭の子産(公孫僑)が執政(首相)に就任しました。子産は晋と楚という二大国に挟まれた鄭の独立を、巧みな外交術と内政改革で維持した名宰相です。田畑の区画整理、税制改革、成文法の公開など、画期的な政策を次々と実行しました。孔子は子産を深く尊敬していたと伝えられています。

子産小国の外交術内政改革
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紀元前536年

子産、刑鼎を鋳る ── 中国最古の成文法

子産が鄭の法律を鼎(青銅の大釜)に鋳込んで公開しました。これは中国で最も古い成文法の公開とされています。晋の叔向は「民が法律を知れば上に従わなくなる」と批判しましたが、子産は「法の公開こそ民の信頼を得る道」と応じました。法治と人治の論争の原点です。

刑鼎成文法の公開子産叔向の批判法治の原点
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紀元前529年

楚の霊王の自殺

楚の霊王は章華台という壮麗な宮殿を建設し、諸侯を集めて盛大な宴を開くなど驕奢を極めました。しかし国内で弟たちのクーデターが起き、味方を失った霊王は山中をさまよった末に自殺しました。権力の頂点からの転落として、暴君の末路を象徴する出来事です。

楚の霊王章華台暴君の末路クーデター
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紀元前522年

伍子胥、楚から亡命 ── 一夜白髪

楚の名臣・伍奢の子である伍子胥(伍員)は、父と兄が楚の平王に殺されたことを知り、復讐を誓って亡命しました。楚の国境・昭関で追っ手に追われた際、一夜にして白髪になったと伝えられています。この苦難の逃亡は、後に壮大な復讐劇へとつながっていきます。

伍子胥一夜白髪昭関復讐の誓い
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紀元前517年

孔子、斉に遊学 ── 韶楽を聴く

魯の政変により孔子は斉に赴きました。斉で舜の時代の音楽「韶」を聴いた孔子は、その美しさに感動し、三か月間肉の味がわからなくなったと伝えられています。「三月肉の味を知らず」の故事として、芸術への深い感動を表す言葉になりました。斉の景公は孔子を登用しようとしましたが、実現しませんでした。

孔子韶楽斉の景公三月不知肉味
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Period IV : BC515–BC468

呉越の時代 ── 復讐と覇権の最終章

春秋時代の最終章は、長江下流域の呉と越を舞台に展開します。伍子胥と孫武が呉を強国に育て、呉王夫差と越王勾践が「臥薪嘗胆」の故事で知られる壮絶な覇権争いを繰り広げました。孔子の最晩年もこの時期に重なります。

紀元前515年

専諸、呉王僚を暗殺 ── 魚腸剣

公子光(後の呉王闔閭)が刺客の専諸を使って呉王僚を暗殺した事件です。専諸は焼き魚の中に短剣(魚腸剣)を忍ばせ、宴席で呉王僚に料理を差し出す際に剣を引き抜いて刺殺しました。公子光は即位して闔閭となり、伍子胥と孫武を登用して呉を急速に強国化させます。

専諸魚腸剣呉王闔閭刺客列伝
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紀元前512年

孫武、呉に仕える ── 『孫子の兵法』

伍子胥の推薦により、兵法家の孫武が呉王闔閭に仕えることになりました。闘閭は孫武の能力を試すために宮女を使った軍事訓練を命じましたが、孫武は王の寵姫二人を隊長に任命し、命令に従わなかったため斬首しました。これにより闔閭は孫武の軍才を確信し、将軍に任じました。『孫子の兵法』は世界最古の体系的な軍事理論書です。

孫武孫子の兵法呉王闔閭伍子胥
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紀元前510年

伍子胥、蘇州城を築く

伍子胥が闔閭の命を受けて、呉の新都城「闔閭大城」(現在の蘇州の原型)を設計・建設しました。八つの水門と陸門を備えた堅固な城郭都市で、水路を巧みに利用した都市計画は、後の蘇州の発展の基礎となりました。伍子胥の軍事的才能は都市計画にも発揮されたのです。

伍子胥蘇州城闔閭大城都市計画
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紀元前506年

柏挙の戦い ── 伍子胥の復讐成る

呉王闔閭が伍子胥・孫武の指揮のもと、3万の兵で楚の20万の大軍を柏挙で破り、楚の都・郢を陥落させました。伍子胥は父の仇である楚の平王の墓を暴き、その遺体に鞭を300回打ったと伝えられています。「死者に鞭打つ」(鞭屍)の故事の起源であり、壮大な復讐劇の完結です。

柏挙の戦い伍子胥孫武楚の都陥落鞭屍
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紀元前505年

申包胥、秦に泣いて援軍を請う

楚の忠臣・申包胥は、呉に占領された祖国を救うため秦に赴き、援軍を請いました。秦が応じないと見ると、秦の宮殿の壁に寄りかかって七日七晩泣き続けました。秦の哀公はその忠義に感動して援軍を派遣し、呉軍を撤退させました。友人の伍子胥が楚を滅ぼし、申包胥が楚を救うという数奇な運命の対比です。

申包胥七日七晩の慟哭秦の援軍伍子胥との対比
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紀元前496年

檇李の戦い ── 呉王闔閭の戦死

呉王闔閭が越を攻めましたが、越王勾践の奇策により敗北しました。勾践は死刑囚に自陣の前で自刎させるという奇怪な戦術で呉軍を驚かせ、混乱に乗じて攻撃しました。闔閭は足の指に傷を受け、その傷が悪化して死亡。死に際に太子の夫差に「越が父を殺したことを忘れるな」と遺言しました。

檇李の戦い闔閭の死越王勾践夫差への遺言
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紀元前494年

夫椒の戦い ── 勾践の降伏と臥薪嘗胆の始まり

呉王夫差が父の仇を討つため越を攻め、夫椒の地で大勝しました。夫差は薪の上に寝て(臥薪)復讐心を忘れなかったのです。追い詰められた勾践は、范蠡の進言に従って降伏し、呉で夫差の馬番として3年間の屈辱的な奉仕生活を送りました。勾践は苦い胆を嘗めて(嘗胆)復讐を誓い続けました。

夫椒の戦い臥薪嘗胆夫差勾践の降伏范蠡
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紀元前489年

孔子、陳蔡の間で困窮

諸国を遍歴していた孔子が、陳と蔡の間で軍に包囲され、食料が尽きて7日間飢えに苦しんだ事件です。弟子の子路は不満を漏らしましたが、孔子は「君子も窮することがあるが、小人は窮すると乱れる」と説き、琴を弾き歌い続けたと伝えられています。逆境における君子の態度を示す逸話です。

孔子在陳絶糧君子固窮子路
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紀元前485年

伍子胥の死 ── 忠臣の悲劇

伍子胥は越の脅威を繰り返し警告しましたが、呉王夫差は奸臣の伯嚭の讒言を信じ、伍子胥に自殺を命じました。伍子胥は死に際に「私の目を抉り出して呉の東門に掛けよ。越が呉を滅ぼすのを見届けたい」と言い残しました。この予言は後に現実のものとなります。

伍子胥呉王夫差伯嚭の讒言忠臣の悲劇
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紀元前484年

艾陵の戦い ── 呉が斉を破る

呉王夫差が大軍を率いて斉を攻め、艾陵で大勝しました。この勝利により呉の勢力は山東半島にまで及び、夫差の中原制覇の野望は頂点に達しました。しかし、伍子胥を失い、越の脅威を軽視したこの北方遠征こそが、呉の滅亡への第一歩でした。

艾陵の戦い呉の北方進出夫差の野望呉の過伸展
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紀元前482年

黄池の会 ── 夫差の野望の頂点

呉王夫差が晋と黄池で会盟を行い、盟主の座を争いました。夫差は武力を背景に盟主の地位を主張しましたが、まさにこの時、留守の呉を越王勾践が攻撃し、呉の太子を殺害しました。覇権の頂点が同時に破滅の始まりでもあったという、劇的な転換点です。

黄池の会夫差の頂点越の奇襲栄光と破滅
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紀元前479年

孔子の死

73歳の孔子が魯で死去しました。死の直前、孔子は「泰山崩れたり、梁柱摧けたり、哲人萎えたり」と歌ったと伝えられています。生前は政治的な理想を実現できませんでしたが、その教えは弟子たちによって『論語』にまとめられ、2500年にわたって東アジアの思想と文化の根幹を形成し続けています。

孔子の死論語泰山崩れたり儒学の確立
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紀元前478年

越が呉に反攻開始 ── 笠沢の戦い

越王勾践が本格的に呉への反攻を開始し、笠沢で呉軍を大破しました。20年近くにわたる臥薪嘗胆の日々を経て、勾践はついに復讐の最終段階に入りました。呉は黄池の会での消耗と越の攻撃により急速に衰退していきます。

笠沢の戦い越の反攻勾践の復讐呉の衰退
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紀元前473年

越王勾践、呉を滅ぼす ── 臥薪嘗胆の完結

越王勾践がついに呉を滅亡させました。呉王夫差は自殺し、死に際に「地下で伍子胥に合わせる顔がない」と布で顔を覆って死んだと伝えられています。紀元前494年の敗北から約20年、勾践の「臥薪嘗胆」が結実した瞬間です。この勝利により、勾践は春秋時代最後の覇者となりました。

越王勾践呉の滅亡臥薪嘗胆の完結夫差の自殺春秋最後の覇者
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紀元前472年

范蠡の引退 ── 陶朱公となる

勾践の最大の功臣・范蠡は、呉を滅ぼした後に越を去りました。范蠡は文種に「高い鳥が尽きれば良い弓はしまわれ、狡い兎が死ねば走狗は烹られる(狡兎死して走狗烹らる)」と警告の手紙を送りましたが、文種はこの忠告を聞かずに残り、後に勾践に殺されました。范蠡自身は名を陶朱公と変えて商人となり巨富を築きました。

范蠡陶朱公狡兎死して走狗烹らる文種鳥尽弓蔵
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紀元前468年

勾践の覇権確立 ── 春秋時代の終幕

越王勾践は琅琊(現在の山東省)に遷都し、周王室から正式に覇者として認められました。しかし勾践の死後、越は急速に衰退し、やがて楚に併合されました。勾践の覇権は春秋時代の最後を飾るとともに、より激烈な戦国時代の幕開けを告げるものでもありました。

勾践の覇権琅琊春秋の終幕戦国時代への移行
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Timeline

春秋時代 年表一覧

春秋時代の主要な出来事50件を年代順にまとめました。各出来事をクリックすると詳細ページに移動します。

年代 出来事 時期 関連する故事成語
前770平王東遷・東周の開始東周初期烽火戯諸侯
前722『春秋』記述の開始年東周初期春秋の筆法
前712鄭伯克段于鄢東周初期黄泉で相見えず
前707繻葛の戦い東周初期天子の権威失墜
前704楚の武王「王」を自称東周初期
前694魯の桓公、斉で殺される東周初期
前685斉の桓公即位・管仲の登用覇者の時代管鮑の交わり
前681北杏の会盟覇者の時代
前663斉が山戎を討伐覇者の時代老馬の智
前660衛が狄に滅ぼされる覇者の時代
前656召陵の会盟覇者の時代尊王攘夷
前651葵丘の会盟覇者の時代九合諸侯
前645韓原の戦い覇者の時代
前643斉の桓公の死覇者の時代
前638泓水の戦い覇者の時代宋襄の仁
前636晋の重耳、帰国即位覇者の時代退避三舎
前632城濮の戦い覇者の時代退避三舎(実行)
前628晋の文公の死覇者の時代
前627殽の戦い列国抗争蹇叔の涙
前624秦の穆公、西戎を制覇列国抗争
前613楚の荘王即位列国抗争鳴かず飛ばず
前606楚の荘王「鼎の軽重を問う」列国抗争問鼎中原
前597邲の戦い列国抗争
前589鞍の戦い列国抗争
前575鄢陵の戦い列国抗争
前563晋の悼公の覇権確立列国抗争
前551孔子の誕生列国抗争
前548崔杼、斉の荘公を弑殺列国抗争太史の直筆
前546弭兵の会列国抗争
前543子産、鄭の執政に就任列国抗争
前536子産、刑鼎を鋳る列国抗争
前529楚の霊王の自殺列国抗争
前522伍子胥、楚から亡命列国抗争一夜白髪
前517孔子、斉に遊学列国抗争三月不知肉味
前515専諸、呉王僚を暗殺呉越の時代魚腸剣
前512孫武、呉に仕える呉越の時代孫子の兵法
前510伍子胥、蘇州城を築く呉越の時代
前506柏挙の戦い呉越の時代鞭屍
前505申包胥、秦に泣いて援軍を請う呉越の時代七日七晩の慟哭
前496檇李の戦い呉越の時代
前494夫椒の戦い呉越の時代臥薪嘗胆
前489孔子、陳蔡で困窮呉越の時代君子固窮
前485伍子胥の死呉越の時代
前484艾陵の戦い呉越の時代
前482黄池の会呉越の時代
前479孔子の死呉越の時代泰山崩れたり
前478笠沢の戦い呉越の時代
前473越王勾践、呉を滅ぼす呉越の時代臥薪嘗胆
前472范蠡の引退呉越の時代狡兎死して走狗烹らる
前468勾践の覇権確立呉越の時代