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第11番
わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと
人には告げよ 海人の釣舟
参議篁(小野篁)

現代語訳

大海原を、たくさんの島々を目指して漕ぎ出していったと、都に残る人々に伝えてくれよ、漁師の釣舟よ。

語句の意味

わたの原 ── 「わた」は海の古語で、「わたの原」は広々とした大海原を意味します。万葉集以来用いられてきた雅語的表現です。

八十島(やそしま)かけて ── 「八十島」は数多くの島々のこと。「八十」は実際の数ではなく「非常に多い」という意味です。「かけて」は「目指して」「頼みにして」という意味です。

漕ぎ出でぬと ── 舟を漕いで出発したと。「ぬ」は完了の助動詞で、すでに出発したことを示します。

人には告げよ ── 都にいる人々に伝えてくれ。「人」は京都に残った親しい人々を指します。「告げよ」は命令形です。

海人(あま)の釣舟 ── 漁師の釣り舟。都へ戻る舟に託して伝言を頼んでいるのです。

歌の解説

この歌は、小野篁が隠岐国へ流罪となった際に詠んだ歌です。承和五年(838年)、遣唐使の副使に任じられた篁は、大使・藤原常嗣との確執から乗船を拒否し、さらに遣唐使の事業を風刺する漢詩「西道謡」を作ったことが嵯峨上皇の怒りに触れ、隠岐への配流を命じられました。

この歌には、都から遠く離れた孤島へと流されていく者の、深い悲しみと孤独感が込められています。広大な海原に漕ぎ出していく自分の姿を、たまたま行き交う漁師の釣り舟に託して都の人々に伝えてほしいと願う――その切実な思いは、流人の心細さと望郷の念を余すところなく表しています。

注目すべきは、篁が伝言を託す相手が「海人の釣舟」という、名も知れぬ漁師の舟である点です。流罪の身である篁には、正式に都へ消息を送る手段がありません。海上で偶然すれ違うかもしれない小さな釣り舟に望みを託すしかないという状況が、篁の孤立無援の境遇をいっそう際立たせています。

また、「八十島かけて」という表現には、島から島へと渡っていく長い旅路の果てしなさが感じられます。目の前に広がる大海原と無数の島影、そしてそこを一艘の舟で漕ぎ渡っていく自分。雄大な自然の中にぽつんと置かれた人間の小ささと、それでも前へ進まなければならない覚悟が、この歌の奥行きを深くしています。

篁はのちに許されて京都に戻り、参議にまで昇進します。この歌は『古今和歌集』の羇旅歌に収められており、旅の歌としても流謫の歌としても、古来名歌の誉れ高い一首です。

作者について

参議篁(さんぎたかむら)こと小野篁(おののたかむら、802年〜853年)は、平安時代前期の公卿・歌人・漢詩人です。小野岑守の子で、学問・文才に優れ、特に漢詩と和歌の両方に秀でた才人として知られました。

篁は非常に個性的な人物として多くの逸話を残しています。嵯峨天皇が「子子子子子子子子子子子子」という文字列の読みを出題した際、「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子」と即座に読み解いたという話は有名です。また、昼は朝廷に仕え、夜は冥界で閻魔大王の補佐をしていたという伝説もあり、京都の六道珍皇寺には篁が冥界へ通ったとされる井戸が現在も残っています。

隠岐への配流後、嘉祥元年(848年)に許されて帰京し、その後は順調に出世して参議に至りました。仁寿三年(853年)に52歳で没しています。

修辞・表現技法

呼びかけ法 ── 「海人の釣舟」に呼びかけるという構成で、歌全体が釣り舟への懇願・伝言依頼になっています。最後に呼びかけの対象を置くことで、余韻と切実さが強まります。

倒置法 ── 通常の語順であれば「海人の釣舟よ、人には告げよ」となるところを、「人には告げよ 海人の釣舟」と倒置し、体言止めで結んでいます。

体言止め ── 「海人の釣舟」で歌を結ぶことで、海に浮かぶ小さな舟の映像が余韻として残り、作者の孤独感を印象づけます。

スケールの対比 ── 「わたの原」「八十島」という広大な空間と、「海人の釣舟」という小さな存在の対比が、流人の孤独と心細さを効果的に表現しています。

鑑賞のポイント

この歌を鑑賞する際にまず注目したいのは、雄大な海の情景描写です。「わたの原 八十島かけて」と詠み出すことで、目の前に広がる果てしない海と点在する島々の壮大な光景が立ち上がります。しかしその雄大さは、流される者の孤独をいっそう際立たせる装置でもあります。

また、都に残した人々への思いを釣り舟に託すという着想が秀逸です。正式な手段で消息を伝えられない流人が、海上で出会うかもしれない小舟にすがるように伝言を頼む姿には、切ないほどの望郷の念が感じられます。実際に釣り舟が伝言を届けてくれるはずもなく、それを承知の上での願いであるところに、この歌の哀切さがあります。