1927年4月12日、上海に入城した蒋介石は突如として共産党員と労働者に対する大規模な弾圧を開始しました。これが「四・一二事件」あるいは「上海クーデター」と呼ばれる近現代中国史上最も衝撃的な事件の一つです。わずか前日まで革命の同志として共に戦っていた国民党と共産党が、一夜にして敵対関係に転じたのです。
この事件の背景には、北伐の進展にともなう革命の急進化と、それに対する蒋介石の危機感がありました。北伐軍が長江流域を制圧するにつれて、共産党が組織する労働運動と農民運動は急速に力を増し、その革命的エネルギーは既存の社会秩序を根底から覆そうとしていました。上海の財界・外国租界・列強諸国は共産主義の台頭に強い警戒感を抱き、蒋介石に対して共産党排除を強く働きかけました。
蒋介石は上海の青幇(ちんぱん)と呼ばれる秘密結社の力も借りて、共産党員・労働者・左翼活動家に対する血の粛清を断行しました。数千人が殺害され、さらに多くの人々が逮捕・投獄されました。四・一二事件は上海にとどまらず、広州・南京・杭州など各地に波及し、「白色テロ」の嵐が中国全土を覆いました。この事件によって第一次国共合作は完全に崩壊し、中国革命は国民党と共産党の二大勢力による血みどろの抗争の時代に突入するのです。
クーデター前夜 ── 革命陣営の亀裂
1927年初頭、北伐の成功は逆説的に革命陣営内部の矛盾を深刻化させていました。武漢に移転した国民政府(武漢政府)は汪兆銘を中心とする国民党左派と共産党が主導し、社会革命の深化を志向していました。一方、東方に進軍した蒋介石は南昌・杭州を経て上海へ向かい、沿海部の資本家や列強との連携を模索していました。
武漢では革命の急進化が加速していました。漢口のイギリス租界が群衆に占拠され、九江でも同様の事件が発生しました。湖南省では農民運動が地主の財産を没収し、伝統的な社会秩序を根底から覆す勢いで拡大していました。こうした動きは国民党内の保守的な軍人や資本家層に深刻な脅威と映り、蒋介石のもとには共産党排除を求める声が殺到しました。
蒋介石にとって決定的だったのは、上海の財界からの支持表明でした。江浙財閥(こうせつざいばつ)と呼ばれる上海の金融・実業界の巨頭たちは、共産党の労働運動が自らの経済的利益を脅かすことを恐れ、蒋介石に巨額の資金を提供して共産党弾圧を後押ししました。また列強諸国、特にイギリスとアメリカも、共産主義の拡大を阻止する観点から蒋介石の行動を事実上黙認しました。蒋介石は軍事力・財力・国際的支持のすべてを手にし、クーデターの準備を着々と進めていったのです。
蒋介石 ── 革命家から独裁者への転身
蒋介石は浙江省出身で、日本の陸軍士官学校で学んだ軍人です。孫文の信任を得て黄埔軍官学校の校長に就任し、北伐を率いて中国統一の立役者となりました。しかし四・一二事件における彼の決断は、革命家としての理想よりも権力政治家としての現実主義を選んだことを示しています。蒋介石は共産党を排除することで資本家と列強の支持を獲得し、自らの政治的基盤を固めました。この選択は短期的には蒋介石に権力をもたらしましたが、共産党を壊滅させることはできず、長期的には国共内戦という新たな闘争を招く結果となりました。蒋介石の政治的判断は、中国近現代史の流れを決定的に変えたのです。
上海の制圧 ── 労働者蜂起と蒋介石の入城
1927年3月、北伐軍が上海に迫るなか、中国共産党が指導する上海総工会は第三次武装蜂起を敢行しました。周恩来が蜂起の指導に当たり、約60万人の労働者がゼネラル・ストライキに参加、うち武装した5千人の工人糾察隊(ピケ隊)が上海の中国人居住区(華界)を占拠しました。この蜂起は北伐軍の上海入城に先立って行われ、共産党と労働者の力で上海を「解放」したものでした。
しかし蒋介石にとって、上海を共産党が事実上支配している状況は受け入れがたいものでした。上海は中国最大の経済都市であり、この都市の支配権は革命後の権力構造を左右するものだったのです。蒋介石は3月26日に上海に入城しましたが、ただちにクーデターに踏み切ることはせず、周到な準備を進めました。
蒋介石が頼みとしたのが、上海の地下組織である青幇でした。青幇のボス・杜月笙(とげつしょう)は上海の裏社会を支配する実力者であり、蒋介石と個人的な関係を持っていました。杜月笙は蒋介石のために手下の暴徒を動員し、クーデター当日の先兵として労働者の武装解除に当たらせることを約束しました。こうして軍事力と暴力団が手を組んだクーデターの計画が秘密裏に進行していたのです。
四・一二事件 ── 血の粛清
1927年4月12日未明、蒋介石の命を受けた軍隊と青幇の暴徒が一斉に行動を開始しました。まず青幇の手下たちが労働者に偽装して工人糾察隊の本部に潜入し、内部から武装解除を図りました。続いて国民革命軍の部隊が各地の労働組合事務所・共産党の拠点・工人糾察隊の駐屯地を急襲し、武器を押収しました。抵抗した者は容赦なく射殺されました。
翌4月13日、弾圧に抗議する労働者約10万人が抗議デモを行いましたが、蒋介石軍はこのデモ隊に対して発砲し、多数の死傷者を出しました。その後、上海全域で共産党員・労働運動家・左翼知識人に対する大規模な逮捕と処刑が行われました。上海総工会は強制的に解散させられ、労働者の武装は完全に解除されました。事件の犠牲者は数千人に達したとされ、さらに多くの人々が逮捕・投獄されました。
四・一二事件は上海だけの出来事にとどまりませんでした。同月、広州では4月15日に同様のクーデターが実行され、共産党員と労働者が大量に逮捕・処刑されました。南京・杭州・福州・長沙など各地でも「清党」(共産党員の粛清)が行われ、国民党支配地域全体で「白色テロ」が猛威を振るいました。わずか数カ月前まで革命の同志として肩を並べていた者たちが、突如として敵となり、銃口を向け合うことになったのです。
4月18日、蒋介石は南京に独自の国民政府を樹立しました。これにより中国には武漢の国民党左派政府と南京の蒋介石政府という二つの国民政府が並立する事態となりました。蒋介石は「清党」を正当化するために共産党を「国民革命を裏切る陰謀者」と位置づけ、反共を国民党の基本路線として確立しました。
武漢政府の崩壊 ── 国共合作の終焉
蒋介石のクーデター後も、武漢の国民党左派政府は当初、共産党との合作を維持しようとしました。汪兆銘は蒋介石を「反革命」と糾弾し、武漢政府こそが正統な国民政府であると主張しました。しかし武漢政府の立場は日を追うごとに困難になっていきます。
武漢政府を支える軍の指揮官たちのなかには、共産党の農民運動に不満を持つ者が少なくありませんでした。特に湖南・湖北の軍人たちは、自らの出身地で地主階級が農民運動によって財産を没収されている状況に強い反発を感じていました。1927年5月、湖南の軍閥許克祥(きょこくしょう)がクーデターを起こし、長沙で共産党員と労働者を弾圧する「馬日事変」が発生しました。武漢政府の内部からも共産党排除の動きが始まったのです。
さらにコミンテルン(共産主義インターナショナル)からの指示が混乱に拍車をかけました。スターリンの指令のもと、コミンテルン代表のロイは農村での土地革命の急進化を命じましたが、この方針は武漢の国民党左派をいっそう警戒させる結果となりました。1927年7月15日、汪兆銘は「分共」(共産党との分離)を宣言し、武漢政府からも共産党員が排除されました。これによって第一次国共合作は完全に崩壊しました。
同年9月、武漢政府と南京政府は「寧漢合流」として統合に合意し、南京を首都とする統一国民政府が成立します。蒋介石は一時下野しますが、翌1928年に復帰して再び北伐を指揮し、中国統一を推し進めることになります。
コミンテルンと中国革命 ── ソ連の誤算
第一次国共合作はソ連とコミンテルンの主導のもとに成立した戦略でした。しかし蒋介石のクーデターは、ソ連の中国政策に深刻な打撃を与えました。スターリンはクーデターの可能性を軽視し、国民党との合作を継続するようコミンテルンに指示していたため、中国共産党は事前の準備がほとんどできないままクーデターに直面しました。この失敗はソ連共産党内の権力闘争にも影響し、対中国政策を批判したトロツキーとスターリンの対立を深めました。また中国共産党内では、コミンテルンの指導に盲従することへの反省が生まれ、後に毛沢東が主張する「中国の実情に合った革命路線」の模索につながっていきます。
共産党の反撃 ── 武装蜂起と地下活動
壊滅的な弾圧を受けた中国共産党は、武装蜂起による反撃を試みました。1927年8月1日、周恩来・朱徳(しゅとく)・賀龍(がりゅう)らが南昌で蜂起し、国民党軍の一部を率いて南昌を一時占拠しました。この「南昌蜂起」は中国共産党が独自の軍事力を持った最初の行動であり、後に8月1日は中国人民解放軍の建軍記念日とされます。
9月には毛沢東が湖南・江西省境で「秋収蜂起」を指導しましたが、正規軍との戦闘で敗北し、残存部隊を率いて井岡山(せいこうざん)に退きました。12月には広州で共産党員と労働者が蜂起して「広州コミューン」を樹立しましたが、わずか3日で鎮圧され、多くの犠牲者を出しました。これらの蜂起はいずれも軍事的には失敗に終わりましたが、共産党が武装闘争を通じて革命を継続する決意を示す重要な出来事でした。
都市での蜂起が次々と失敗に終わるなかで、毛沢東は従来のコミンテルン路線とは異なる独自の革命戦略を模索し始めます。都市の労働者階級ではなく農村の農民を革命の主力とし、農村に根拠地を築いて都市を包囲するという戦略です。この「農村から都市を包囲する」路線は、当初は党中央から異端視されましたが、後に中国革命を成功に導く基本戦略となります。1927年の弾圧と敗北の経験が、中国共産党の革命路線を根本的に転換させたのです。
歴史的意義 ── 中国革命の分岐点
1927年の上海クーデターと国共分裂は、中国近現代史における最大の転換点の一つです。第一に、この事件は中国革命の性格を根本的に変えました。第一次国共合作のもとでは「反帝国主義・反軍閥」という共通目標のもとに国民党と共産党が協力していましたが、分裂後は両党が中国の政治的主導権をめぐって激しく争うことになります。この対立構造は1949年の共産党政権樹立まで続き、中国の命運を決定づけました。
第二に、四・一二事件は中国共産党の革命路線に決定的な影響を与えました。都市での蜂起と合法的な政治活動が不可能になったことで、共産党は農村に根拠地を移し、武装闘争を通じた革命の道を歩むことになります。この転換がなければ、毛沢東の農村革命路線も、後の長征も、延安時代も、そして1949年の革命の成功もなかったかもしれません。
第三に、蒋介石の南京国民政府の性格を規定しました。共産党と労働運動を弾圧して権力を握った蒋介石政権は、資本家・地主・軍閥という保守的な社会勢力に依存する体質を持つことになりました。このことが、のちに国民党政権が農村問題や社会改革に取り組む能力を欠く原因の一つとなり、最終的には共産党に敗北する遠因ともなっていきます。
1927年は中国革命が二つの道に分岐した年でした。国民党は上からの近代化と秩序の維持を目指し、共産党は下からの社会変革と階級闘争を追求しました。この二つの路線の対立が、以後20年以上にわたって中国の歴史を規定することになるのです。
上海クーデターと国共分裂 関連年表
| 年月 | 出来事 | 備考 |
|---|---|---|
| 1927年3月 | 上海の第三次武装蜂起 | 周恩来指導、労働者が華界を占拠 |
| 1927年3月 | 南京事件 | 北伐軍入城時に外国人襲撃事件 |
| 1927年4月12日 | 四・一二事件(上海クーデター) | 蒋介石が共産党・労働者を弾圧 |
| 1927年4月18日 | 南京国民政府の樹立 | 蒋介石が南京に政府を樹立 |
| 1927年5月 | 馬日事変 | 長沙で軍閥が共産党を弾圧 |
| 1927年7月15日 | 武漢政府の「分共」宣言 | 汪兆銘が共産党との分離を宣言 |
| 1927年8月1日 | 南昌蜂起 | 共産党初の独自の武装蜂起 |
| 1927年9月 | 秋収蜂起 | 毛沢東が指導、のち井岡山へ |
| 1927年12月 | 広州蜂起(広州コミューン) | 3日で鎮圧、多数の犠牲者 |
| 1927年9月 | 寧漢合流 | 武漢・南京両政府が統合 |