1926年7月、国民革命軍総司令に就任した蒋介石(しょうかいせき)は、広州から北伐を開始しました。北伐とは、中国南方の広東省を根拠地とする中国国民党が、北方に割拠する軍閥政権を武力で打倒し、中国全土の統一を目指した軍事作戦です。孫文(そんぶん)が生涯をかけて夢見た中国統一の悲願が、彼の死後わずか1年余りで実行に移されたのです。
1920年代の中国は、辛亥革命(1911年)で清朝が倒れた後、中央政府の権威が失墜し、各地に軍閥が割拠する分裂状態にありました。北京には段祺瑞(だんきずい)系の安徽派や呉佩孚(ごはいふ)率いる直隷派、さらに張作霖(ちょうさくりん)の奉天派が勢力争いを繰り広げ、地方では大小の軍閥が私兵を擁して独自の支配を行っていました。軍閥の抗争は民衆に計り知れない苦難をもたらし、中国は事実上の無政府状態に陥っていました。
こうした状況のなかで、孫文は1924年に「連ソ・容共・扶助工農」の方針のもと第一次国共合作を成立させ、ソ連の援助を受けて黄埔軍官学校を設立しました。革命の根拠地である広州で軍事力の近代化を図り、北伐の準備を着々と進めたのです。孫文は1925年3月に北京で客死しますが、その遺志を継いだ蒋介石が、翌1926年についに北伐の号令を発しました。国民党と共産党が手を携えた国民革命軍は、約10万の兵力で北上を開始します。
北伐前夜 ── 軍閥割拠の中国
辛亥革命によって清朝は倒れましたが、中華民国は安定した統一国家を築くことができませんでした。袁世凱(えんせいがい)の死後(1916年)、彼が築いた北洋軍閥は複数の派閥に分裂し、北京政府の支配権をめぐって激しい内戦を繰り広げました。直隷派の呉佩孚、奉天派の張作霖、安徽派の段祺瑞はそれぞれ列強の支援を受けて覇を競い、北京政府は軍閥の傀儡と化していました。
地方においても、雲南の唐継堯(とうけいぎょう)、山西の閻錫山(えんしゃくざん)、広西の李宗仁(りそうじん)・白崇禧(はくすうき)など、各省に独自の軍閥が勢力を張っていました。軍閥たちは税金の二重三重の徴収、強制的な徴兵、阿片の専売などで私腹を肥やし、民衆は極度の窮乏にあえいでいました。鉄道や電信などの近代インフラも軍閥間の対立によって分断され、経済の発展は著しく妨げられていました。
こうした混沌のなかで、孫文は「国民革命」を提唱しました。孫文の構想は、軍閥を武力で打倒して中国を統一し、帝国主義列強の不平等条約を撤廃して、真の独立国家を建設することでした。しかし孫文は長年にわたって軍事力の不足に悩まされ、欧米列強に援助を求めても拒否されました。転機となったのが、1921年に成立したソビエト連邦との接触です。1923年の孫文・ヨッフェ共同宣言を経て、ソ連は中国国民党に軍事顧問と武器を提供し、革命運動を本格的に支援することになりました。
軍閥割拠 ── 近代中国の構造的分裂
軍閥割拠の時代は、中国近代史における最も混乱した時期の一つです。軍閥とは、私的な軍事力を基盤に特定の地域を支配する政治勢力であり、中央政府の統制を受けない事実上の独立政権でした。各軍閥は列強から武器や資金の供与を受け、その見返りとして利権を提供しました。イギリスは長江流域の直隷派を、日本は満洲の奉天派を支援するなど、列強は中国の分裂を利用して自国の権益を拡大しました。このため北伐は、軍閥の打倒であると同時に帝国主義からの解放をも意味していたのです。民衆のなかに高まるナショナリズムが北伐の推進力となり、各地で労働者・農民の運動が革命軍を後押ししました。
革命軍の編成 ── 黄埔軍官学校と国共合作
北伐を可能にした最大の要因は、黄埔軍官学校(こうほぐんかんがっこう)の設立です。1924年6月、広州近郊の黄埔島に開校したこの軍事学校は、孫文が校長に蒋介石を任命し、ソ連の軍事顧問団が教官として指導に当たりました。政治部主任には中国共産党の周恩来(しゅうおんらい)が就任し、国共合作の象徴的存在となりました。黄埔軍官学校は近代的な軍事訓練と革命思想の教育を両立させ、短期間に数千名の将校を養成しました。
第一次国共合作(1924-1927年)のもとで、中国共産党員は個人の資格で国民党に入党し、両党は組織的に協力しました。共産党員は労働運動・農民運動の組織化で大きな力を発揮し、北伐の成功に不可欠な民衆動員を担いました。しかしこの合作は、国民党右派と共産党の間に深い対立の種を内包していました。孫文の死後、国民党内の権力闘争は激化し、蒋介石は1926年3月の中山艦事件で共産党勢力を牽制しつつ、自らの権力基盤を固めていきます。
北伐に際して編成された国民革命軍は、第一軍から第八軍まで8個軍から成り、総兵力は約10万人でした。蒋介石が直轄する第一軍は黄埔軍官学校の卒業生を主体とする精鋭部隊であり、そのほかの軍は広東・広西・湖南などの地方軍閥が国民革命に参加して編入されたものでした。ソ連の軍事顧問ワシリー・ブリュヘル(ガレン将軍)が作戦計画の策定に深く関与し、ソ連式の政治委員制度が各部隊に導入されました。
黄埔軍官学校 ── 中国近代軍の揺籃
黄埔軍官学校は中国近代史において特異な存在です。この学校から輩出された将校たちは、のちに国民党側と共産党側に分かれて戦うことになりますが、いずれも中国の運命を左右する人物となりました。校長の蒋介石、政治部主任の周恩来をはじめ、林彪(りんぴょう)、陳誠(ちんせい)、胡宗南(こそうなん)など、国共両党の軍事指導者の多くが黄埔の出身です。黄埔軍官学校は単なる軍事教育機関にとどまらず、革命思想と近代軍事技術を融合させた人材育成の場であり、中国の軍近代化に決定的な影響を与えました。校訓である「親愛精誠」は、国民革命軍の精神的支柱となりました。
北伐の進撃 ── 破竹の勢い
1926年7月9日、蒋介石は広州で北伐の出師式を挙行し、国民革命軍総司令として正式に北伐を宣言しました。作戦計画は、まず湖南省の呉佩孚勢力を撃破し、次いで長江流域を制圧、最終的に北京の張作霖を打倒するという段階的なものでした。各個撃破の戦略が採用され、敵軍閥を一つずつ倒していく方針が定められました。
北伐軍の進撃は予想をはるかに超える速さで進みました。湖南省では、先行していた第四軍(広東軍)の葉挺(ようてい)独立団が共産党員を中心とする精鋭部隊として先陣を切り、8月には長沙を占領します。第四軍は「鉄軍」の異名を取るほどの勇猛さを発揮し、北伐軍の士気を大いに高めました。
北伐軍の快進撃を可能にしたのは、軍事力だけではありませんでした。各地の労働者・農民が北伐軍の到来を歓迎し、情報提供・食糧補給・後方撹乱などの形で支援したのです。共産党員が組織した農民協会や労働組合は、軍閥の支配する地域で蜂起して後方を撹乱し、北伐軍の進撃を側面から支えました。北伐は単なる軍事作戦ではなく、民衆の革命運動と一体化した「国民革命」としての性格を強く帯びていたのです。
9月にはさらに進撃を続け、湖北省に入った国民革命軍は呉佩孚の主力と激突します。汀泗橋(ていしきょう)の戦い、賀勝橋(がしょうきょう)の戦いで北伐軍は連勝し、呉佩孚軍を壊滅的に打ち破りました。これらの戦闘で特に活躍したのが葉挺独立団であり、その戦功は後世まで語り継がれています。
武漢の攻略 ── 革命の分岐点
1926年10月、国民革命軍は長江中流域の要衝・武漢三鎮(武昌・漢口・漢陽)の攻略に着手しました。武昌は堅固な城壁に守られ、呉佩孚の残兵が頑強に抵抗しました。北伐軍は約40日間にわたる包囲戦の末、10月10日(辛亥革命15周年の記念日)についに武昌を陥落させました。武漢三鎮の制圧は北伐における画期的な勝利であり、革命の勢いが止められないものであることを天下に示しました。
武漢の占領は、政治的にも重大な転機となりました。国民党左派と共産党は武漢に国民政府を移転させ、ここを新たな革命の中心地としました。一方、蒋介石は軍事行動を続けて東方に進み、江西省の孫伝芳(そんでんほう)勢力を撃破して南昌を攻略しました。この時点で、武漢の国民党左派政府と蒋介石の軍事指導部の間に深刻な対立が生まれ始めます。
武漢では労働運動と農民運動が急速に過激化していきました。漢口のイギリス租界が群衆によって占拠される事件が発生し、湖南省では毛沢東(もうたくとう)が指導する農民運動が地主階級に対する激しい闘争を展開しました。革命の急進化は国民党内の保守派や資本家層に強い警戒感を抱かせ、蒋介石が共産党と決別する伏線となっていきます。北伐の軍事的成功は、同時に革命陣営内部の亀裂を決定的に深める結果をも招いたのです。
武漢政府と南京の対立 ── 革命の内部分裂
武漢を拠点とする国民党左派政府には汪兆銘(おうちょうめい)が指導者として参加し、共産党との合作を継続する路線を掲げました。これに対して蒋介石は、上海・南京方面への進軍を優先し、沿海部の財界や列強との関係を重視する姿勢を見せていました。武漢政府と蒋介石の対立は、国民革命の方向性をめぐる根本的な路線対立でした。革命を社会変革にまで深化させるのか、それとも軍閥打倒と国家統一に限定するのか。この問いに対する両者の回答の違いが、翌1927年の悲劇的な国共分裂へとつながっていくのです。
社会的影響 ── 民衆運動の高揚
北伐は単なる軍事作戦にとどまらず、中国社会全体を揺り動かす革命運動でした。北伐軍が進撃する先々で、抑圧されていた民衆が立ち上がり、労働運動・農民運動・反帝国主義運動が爆発的に高揚しました。都市部では労働者がストライキを敢行し、労働条件の改善と外国企業の横暴に抗議しました。農村部では農民協会が組織され、地主の土地を分配し、旧来の封建的な慣行を打破する運動が展開されました。
女性解放運動も北伐期に大きな前進を見せました。纏足(てんそく)の廃止運動が加速し、女性が政治活動や軍事活動に参加する例も増えていきました。黄埔軍官学校には女性の入学も認められ、北伐軍には女性兵士が従軍しました。教育や識字運動も活発化し、民衆の政治意識は急速に覚醒していきました。
一方で、革命運動の急進化は社会に深い分断ももたらしました。農村での「土豪劣紳」(地方有力者)に対する暴力的な報復、都市での過激なストライキは、中産階級や知識人のなかにも革命に対する不安を広げました。毛沢東は『湖南農民運動視察報告』のなかで農民運動の革命的エネルギーを高く評価しましたが、国民党右派はこうした運動を「過激」と見なし、共産党排除の論拠としました。北伐がもたらした社会変動は、中国革命の方向性をめぐる深刻な対立を顕在化させたのです。
歴史的意義 ── 中国統一への第一歩
1926年の北伐開始は、近現代中国史における画期的な出来事でした。第一に、北伐は辛亥革命以来の宿願であった中国統一に向けた最初の本格的な軍事行動でした。わずか半年余りで華中の主要軍閥を撃破し、長江流域を制圧した国民革命軍の進撃は、軍閥割拠の時代が終わりつつあることを明確に示しました。
第二に、北伐は中国のナショナリズムを覚醒させる重大な契機となりました。反帝国主義・反封建を掲げる北伐は、民衆の国民意識を高め、中国が近代的な統一国家として再生しうるという希望を与えました。漢口のイギリス租界回収は、不平等条約の撤廃に向けた具体的な成果として国民の自尊心を鼓舞しました。
第三に、北伐は中国の政治地図を根本的に塗り替えました。北伐以前の中国政治の主役は北洋軍閥でしたが、北伐後は国民党と共産党が中国の命運を争う二大勢力として台頭します。北伐期に形成された国共対立の構図は、その後の中国史を数十年にわたって規定することになりました。
しかし北伐は同時に、革命陣営内部の深刻な矛盾をも露呈させました。国共合作のもとで進められた北伐は、やがて蒋介石による上海クーデター(1927年4月)へと帰結し、国共は血で血を洗う対立に突入します。北伐の成功と分裂は、表裏一体の関係にあったのです。1926年の北伐開始は、中国統一への希望の幕開けであると同時に、国共内戦という新たな悲劇の序曲でもありました。
北伐の開始 関連年表
| 年代 | 出来事 | 備考 |
|---|---|---|
| 1924年1月 | 第一次国共合作の成立 | 中国国民党第一次全国代表大会 |
| 1924年6月 | 黄埔軍官学校の開校 | 校長:蒋介石、政治部主任:周恩来 |
| 1925年3月 | 孫文の死去 | 北京にて客死、遺言「革命尚未成功」 |
| 1925年5月 | 五・三〇事件 | 上海で反帝運動が激化 |
| 1926年3月 | 中山艦事件 | 蒋介石が共産党勢力を牽制 |
| 1926年7月 | 北伐の開始 | 国民革命軍が広州を出発 |
| 1926年8月 | 長沙の占領 | 湖南省を制圧 |
| 1926年9月 | 汀泗橋・賀勝橋の戦い | 呉佩孚軍を撃破 |
| 1926年10月 | 武昌の陥落 | 武漢三鎮を制圧 |
| 1926年11月 | 南昌の攻略 | 孫伝芳勢力を撃破 |