1928年は、辛亥革命以来17年にわたって続いた中国の分裂状態が、少なくとも名目上は終わりを告げた年です。蒋介石が率いる国民革命軍は北伐を再開し、6月には北京を占領、さらに12月には東北の張学良(ちょうがくりょう)が「易幟」(えきし:旗の変更)を行って南京国民政府への忠誠を表明しました。これにより中華民国は形式的に統一され、南京国民政府が中国唯一の合法政府として国際的に承認されることになります。
しかしこの「統一」は実態を伴うものではありませんでした。北伐を共に戦った各地の軍閥は名義上は国民政府に服属しましたが、実際には自らの軍事力と地方支配を維持し続けました。蒋介石の権力は長江下流域と沿海部に限定され、華北・西北・西南の広大な地域では地方実力者が事実上の独立を保っていました。また共産党は農村に根拠地を築いて武装闘争を継続し、日本は満洲への野心を露わにしていました。1928年の「統一」は、新たな分裂と対立の始まりでもあったのです。
南京国民政府は孫文の遺した「建国大綱」に基づき、「訓政」(くんせい)の段階に入ったと宣言しました。訓政とは、国民党が国民を政治的に訓練し、将来の憲政(立憲民主制)への移行を準備する過渡期という概念です。しかし実際には、蒋介石を中心とする国民党の一党独裁体制が確立され、民主化への道筋は極めて不透明なものにとどまりました。
北伐の再開 ── 蒋介石の復帰と四路進軍
1927年8月、国共分裂後の政治的混乱のなかで蒋介石は一時下野しました。しかし国民党内の対立が続くなか、蒋介石は唯一の統合的指導者として1928年1月に国民革命軍総司令に復帰し、北伐の完成を宣言しました。
1928年4月、蒋介石は約70万の大軍を四路に分けて北伐を再開しました。第一集団軍は蒋介石自らが指揮し、山東方面から北上。第二集団軍は馮玉祥(ふうぎょくしょう)が率いて河南から北進。第三集団軍は閻錫山が指揮し、山西から東方へ進撃。第四集団軍は李宗仁が統率し、京漢鉄道沿いに北上しました。この四路進軍は、各地の軍閥を北伐の枠組みに取り込み、共同で張作霖の奉天軍を打倒しようという戦略でした。
北伐軍は圧倒的な兵力で北上を続け、奉天軍は各地で敗退しました。張作霖は北京を放棄して東北(満洲)への撤退を決意します。しかしこの撤退の途上で、張作霖は関東軍(日本軍)によって爆殺されるという衝撃的な事件が起こります(張作霖爆殺事件、1928年6月4日)。日本軍は満洲の支配権を確保するために、親日的でありながらも完全には操縦できない張作霖を排除し、より扱いやすい後継者を擁立しようとしたのです。
四路進軍 ── 軍閥連合の功罪
1928年の北伐は、1926年の第一次北伐とは大きく異なる性格を持っていました。第一次北伐が黄埔軍官学校を中核とする革命軍の統一的な作戦であったのに対し、1928年の北伐は馮玉祥・閻錫山・李宗仁など各地の軍閥が参加した連合作戦でした。彼らは北伐の大義名分のもとに蒋介石と協力しましたが、その真の目的は自勢力の拡大にありました。北伐完成後、これらの軍閥は蒋介石の中央集権化に反発し、1929年から1930年にかけて「中原大戦」と呼ばれる大規模な内戦を引き起こします。北伐の「成功」は、新たな軍閥間抗争の始まりでもあったのです。
済南事件 ── 日本との衝突
北伐軍の北上は、山東省において日本との深刻な衝突を招きました。1928年5月3日、北伐軍が山東省の省都・済南に入城した際、日本軍(第6師団)との間で武力衝突が発生しました。これが「済南事件」(じなんじけん)です。
日本は山東省に大きな経済的権益を有しており、北伐軍の山東侵入に強い警戒感を抱いていました。田中義一内閣は「居留民保護」を名目に約5000名の日本軍を済南に派遣し、北伐軍と対峙する姿勢を見せていました。衝突の発端については日中双方で見解が分かれていますが、日本軍は済南の中国人居住区を砲撃し、多数の中国人民間人が犠牲となりました。中国側の外交官・蔡公時(さいこうじ)が日本軍に殺害された事件は、中国国民の間に激しい反日感情を引き起こしました。
蒋介石は日本との全面衝突を避けるため、北伐軍に済南を迂回して北上するよう命じました。国力において日本に大きく劣る中国が、この時点で対日戦争に突入することは自殺行為に等しいと判断したのです。しかしこの「隠忍」の姿勢は国内の民族主義者から厳しい批判を受け、蒋介石の対日政策は常に弱腰であるとの評価につながりました。済南事件は、北伐の過程で表面化した日中対立の前兆であり、3年後の満洲事変への伏線ともなる重要な事件でした。
北京占領 ── 北伐の軍事的完成
1928年6月8日、閻錫山率いる第三集団軍が北京に入城し、北伐は軍事的に完成しました。張作霖が北京を放棄して東北に撤退したことで、北伐軍はほとんど戦闘なく北京を占領することができました。16年間にわたって北洋軍閥の本拠地であった北京は、ついに国民革命軍の手に落ちたのです。
国民政府は北京を「北平」(ペイピン:北方の平和)と改称し、首都は引き続き南京に置きました。この改称には、北京という名が「北の都」を意味し、首都機能を示唆するため、南京が唯一の首都であることを明確にする意図がありました。「北平」の名称は1949年に中華人民共和国が北京を首都と定めるまで使用されます。
北京占領に際して、国民政府は孫文の遺体が安置されていた北京西山碧雲寺を参拝し、北伐完成を報告する儀式を行いました。孫文が生涯をかけて追い求めた中国統一が、形式的にせよ達成されたのです。1929年6月には、孫文の遺体は北京から南京の中山陵に移葬され、国父として厳かに安葬されました。
張学良の易幟 ── 名目上の中国統一
北伐の完成にとって最後の関門となったのが、東北三省(満洲)の帰趨でした。張作霖の爆殺後、その子の張学良が東北の実権を継承しました。わずか27歳の張学良は、父の死が関東軍の仕業であることを知り、日本に対する深い不信感を抱いていました。
日本政府は張学良に対して、南京国民政府への合流を思いとどまるよう圧力をかけました。東北が国民政府に統合されれば、日本が満洲で築いてきた特殊権益が脅かされると懸念したのです。しかし張学良は国民統一の大義を選び、1928年12月29日、東北三省の旗を北洋軍閥の五色旗から国民政府の青天白日満地紅旗に掲げ替える「易幟」を断行しました。
この易幟により、中華民国は形式的に全国統一を達成しました。南京国民政府は中国唯一の合法政府として国際社会に承認され、不平等条約の改訂交渉も本格的に開始されました。しかしこの統一は極めて脆弱なものでした。張学良は東北の軍事力と行政権を依然として掌握しており、他の地方軍閥も同様でした。中国の統一は、各地の実力者が南京の権威を「承認」したにすぎず、実質的な中央集権はほど遠い状態にありました。
張学良 ── 「少帥」の決断
張学良は「少帥」(若い元帥)の通称で知られる人物です。東北の軍閥・張作霖の長男として生まれ、父の爆殺後にわずか27歳で東北三省の支配者となりました。彼の易幟の決断は、日本の圧力に屈しない民族主義的な選択であり、中国統一への貢献として高く評価されています。しかし皮肉にも、この決断は日本の軍部を刺激し、3年後の満洲事変を招く遠因の一つとなりました。張学良は後に1936年の西安事件で蒋介石を監禁し、国共合作による抗日を迫るという劇的な行動に出ます。父を日本軍に殺された記憶が、彼の政治的判断に生涯にわたって影響を与え続けたのです。
南京国民政府の体制 ── 訓政と近代化
北伐の完成を受けて、南京国民政府は本格的な国家建設に乗り出しました。1928年10月、国民政府は「訓政綱領」を公布し、孫文の建国大綱に基づく「訓政」の段階に入ったことを宣言しました。訓政とは、軍政(武力による統一)の次の段階であり、国民党が国民を政治的に訓練し、将来の憲政に備える過渡期という位置づけです。
国民政府の組織は、孫文が構想した五権分立に基づいていました。行政院・立法院・司法院・考試院・監察院の五院がそれぞれ行政・立法・司法・公務員試験・監察の機能を担いました。しかし実権は行政院長(首相に相当)と国民政府主席に集中し、さらにその上に立つ蒋介石が軍事委員会委員長として最高権力を掌握しました。五権分立は形式的なものにとどまり、実態は蒋介石を頂点とする一党独裁体制でした。
経済面では、1928年から1937年までの約10年間(いわゆる「南京の十年」)に一定の近代化が達成されました。財政部長の宋子文(そうしぶん)と後任の孔祥熙(こうしょうき)のもとで、関税自主権の回収、通貨制度の統一(幣制改革)、交通インフラの整備が進められました。上海を中心とする沿海都市では工業化が進み、高等教育の拡充や法制度の近代化も行われました。しかしこれらの近代化は都市部に限定され、農村部の貧困と社会矛盾はほとんど手つかずのまま残されました。
蒋介石の南京政府は、共産党の武装勢力に対する「剿共」(共産党掃討)作戦を最優先課題としました。1930年から1934年にかけて五次にわたる「囲剿」(包囲殲滅)作戦が実施され、江西省の中華ソビエト共和国に対する軍事的圧力が強められていきます。蒋介石は「安内攘外」(国内を安定させてから外敵に当たる)のスローガンのもと、日本の侵略よりも共産党の掃討を優先する路線を堅持しました。この路線は国内外から激しい批判を受けることになります。
歴史的意義 ── 統一と分裂の二重性
1928年の北伐完成と南京国民政府の確立は、近現代中国史において複雑な歴史的意義を持っています。第一に、辛亥革命以来の中国統一の宿願が少なくとも形式的に達成されたことです。北洋軍閥の時代が終わり、南京国民政府が中国の合法的中央政府として国際的に承認されたことは、中国の国際的地位の向上につながりました。不平等条約の改訂交渉が本格化し、関税自主権の回収が実現したことは、半植民地状態からの脱却への重要な一歩でした。
第二に、この「統一」が極めて不完全なものであったことも、また重要な事実です。地方軍閥の実質的な独立、共産党の農村根拠地、日本の満洲への野心など、統一を脅かす要因は数多く存在していました。南京国民政府はこれらの課題に同時に対処する必要に迫られましたが、限られた資源と能力のなかでの優先順位の設定が、その後の中国の運命を大きく左右することになります。
第三に、南京国民政府の統治体制の性格が、中国の近代化と民主化にとって持つ意味です。孫文の三民主義を掲げながらも、実態は蒋介石の個人的権威に大きく依存する一党独裁体制でした。「訓政」という過渡期の名のもとに民主化が先送りされ、結局、国民党が中国大陸を支配した間に憲政への移行が実現することはありませんでした。
1928年は、近代中国が初めて全国的な統一政権を持った年であると同時に、その統一の脆弱さが次なる危機の芽をはらんでいた年でもありました。北伐の完成は一つの時代の終わりを告げましたが、満洲事変・日中戦争・国共内戦という新たな激動の序章でもあったのです。
北伐の完成と南京国民政府 関連年表
| 年月 | 出来事 | 備考 |
|---|---|---|
| 1928年1月 | 蒋介石が総司令に復帰 | 北伐の再開を宣言 |
| 1928年4月 | 北伐軍の四路進軍開始 | 約70万の兵力で北上 |
| 1928年5月3日 | 済南事件 | 日本軍と北伐軍が武力衝突 |
| 1928年6月4日 | 張作霖爆殺事件 | 関東軍が奉天軍閥の首領を爆殺 |
| 1928年6月8日 | 北京占領 | 北伐の軍事的完成 |
| 1928年6月 | 北京を「北平」に改称 | 首都は引き続き南京 |
| 1928年10月 | 訓政綱領の公布 | 国民党一党支配の制度的確立 |
| 1928年12月29日 | 張学良の易幟 | 東北三省が国民政府に統合 |
| 1929年6月 | 孫文の中山陵移葬 | 南京に国父を安葬 |
| 1930年 | 中原大戦の勃発 | 反蒋軍閥連合との大規模内戦 |