1924年1月、広州で開催された中国国民党第一次全国代表大会において、中国共産党との提携が正式に承認されました。「第一次国共合作」と呼ばれるこの協力関係は、共産党員が個人の資格で国民党に入党するという「党内合作」の形式をとり、帝国主義と軍閥の打倒を共通の目標に掲げた革命的統一戦線でした。
国共合作が実現した背景には、国民党と共産党のそれぞれの事情がありました。孫文率いる国民党は、辛亥革命以来十年以上にわたって中国の統一を目指してきましたが、自前の軍事力と組織力の不足に苦しんでいました。幾度となく軍閥に裏切られた経験から、孫文は信頼できる革命軍の建設が急務であると痛感していました。一方の共産党は、結党からわずか数年の弱小政党であり、二七事件(京漢鉄路ストライキの弾圧)の教訓から、単独での革命が時期尚早であることを認識していました。
この二つの革命勢力を結びつけたのが、コミンテルンとソビエト連邦の仲介でした。コミンテルンは、中国革命を帝国主義に対する世界革命の一環として位置づけ、まずブルジョア民主主義革命の段階として国民革命を推進し、その過程で共産党の勢力を拡大するという二段階革命論に基づいて国共合作を推進しました。ソビエト政府は、西側列強に対する外交的な対抗手段として中国革命を支援し、軍事顧問と資金を提供しました。
合作の背景 ── 孫文の苦悩と転換
孫文は辛亥革命以来、中国の統一と民主化を追求し続けてきましたが、1920年代初頭に至るまで、その目標は実現にはほど遠い状態でした。袁世凱の死後(1916年)、中国は北洋軍閥が支配する北京政府と、孫文が率いる広州の革命政府に分裂し、さらに各地の軍閥が割拠する混乱状態が続いていました。
孫文は広州を拠点として、たびたび北伐(北方の軍閥を打倒して中国を統一する軍事行動)を試みましたが、いずれも挫折しました。孫文は自前の軍隊を持たず、地方の軍閥に依存して軍事行動を行わざるを得なかったからです。1922年6月には、かつての盟友であった陳炯明(ちんけいめい)が孫文に叛旗を翻し、大総統府を砲撃するという事件が発生しました。孫文は命からがら軍艦に逃れ、上海に退去しました。
この苦い経験は、孫文に根本的な戦略の転換を促しました。軍閥に頼る方法では革命は成功しない。自前の革命軍を持ち、党の組織力を強化し、民衆の支持を獲得しなければならない。孫文はこうした認識に至り、ソビエト・ロシアのモデルに強い関心を抱くようになりました。ロシア共産党が秘密結社的な革命組織から出発し、軍事力を掌握し、労働者と農民を動員して政権を樹立した経験は、孫文にとって示唆に富むものだったのです。
一方、列強諸国は孫文の革命政府を承認せず、外交的・経済的な支援を拒んでいました。アメリカ・イギリス・日本などに支援を求めた孫文の試みはことごとく失敗に終わり、孫文は次第にソビエト・ロシアに接近していきました。西側列強から見放された革命家が社会主義国に救いを求めるという構図は、20世紀のアジア・アフリカの反植民地運動にしばしば見られるパターンですが、孫文の場合はこの転換が中国の歴史を大きく変えることになりました。
軍閥割拠の時代 ── 国共合作の土壌
1916年の袁世凱の死後、中国は各地の軍閥が割拠する分裂状態に陥りました。北京の中央政府を掌握する直隷派・安徽派・奉天派の北洋軍閥が互いに争い、南方では各省の軍閥が独自の勢力圏を形成していました。軍閥たちは表向き共和制を標榜しながら、実態は軍事力に物を言わせる専制政治を敷いていました。この時期の中国は「兵災」と呼ばれる軍閥間の戦争に繰り返しさらされ、民衆の生活は疲弊していました。軍閥政治に対する民衆の不満が、打倒軍閥を掲げる国共合作の革命運動に広範な支持基盤を提供することになったのです。
孫文=ヨッフェ宣言 ── ソビエトとの握手
1923年1月26日、孫文とソビエト外交官アドリフ・ヨッフェは上海で共同声明(孫文=ヨッフェ宣言)を発表しました。この宣言は、国共合作とソビエト支援の基礎を築いた歴史的文書です。
宣言の核心は、ソビエト・ロシアが中国の国民革命を支援するという合意でした。ヨッフェは、中国の現状においては共産主義の導入は時期尚早であり、中国の最も急要な課題は国家の統一と独立の達成であるという孫文の見解に同意しました。これにより、国共合作はあくまでブルジョア民主主義革命の枠内で行われるという原則が確認されました。
ソビエト側が中国に対して外モンゴルからの撤退や中東鉄道の返還を約束するなどの譲歩を示したことも、孫文がソビエトとの協力を決断する重要な要因となりました。もちろん、ソビエトの支援は純粋な善意によるものではなく、イギリスや日本などの列強に対抗する地政学的な戦略の一環でしたが、列強から見捨てられた孫文にとって、ソビエトの支援は革命継続のための貴重な生命線でした。
孫文=ヨッフェ宣言を受けて、ソビエト政府は本格的な中国支援に乗り出しました。1923年秋、ソビエト政府の代表としてミハイル・ボロディンが広州に派遣されました。ボロディンは国民党の組織改革の顧問として活動し、ロシア共産党をモデルとした党組織の構築、綱領の策定、大衆運動の組織化などを指導しました。ボロディンの助言は、国民党を緩やかな知識人の集団から規律ある革命政党へと変貌させる決定的な役割を果たしました。
国民党第一回大会 ── 合作の正式成立
1924年1月20日から30日にかけて、広州で中国国民党第一次全国代表大会が開催されました。この大会こそが、第一次国共合作を正式に成立させた歴史的な会議です。出席した代表165名のうち、共産党員の資格で国民党に入党した者が約20名含まれていました。李大釗、毛沢東、林伯渠(りんはくきょ)らが共産党員として大会に参加しました。
大会では、孫文の三民主義(民族主義・民権主義・民生主義)が新たに解釈し直されました。特に重要なのが、三民主義に「連ソ・容共・扶助工農」(ソビエトと連携し、共産党を受け入れ、労働者と農民を援助する)という三大政策が付加されたことです。これにより、国民党の革命路線は従来のエリート主義から大衆動員路線へと大きく転換しました。
大会で採択された宣言は、帝国主義と軍閥を国民革命の打倒対象として明確に位置づけました。不平等条約の撤廃、外国勢力の駆逐、軍閥政治の打倒という目標は、国民党と共産党の共通綱領となりました。また、労働者と農民の権利の保護、土地問題の解決なども掲げられ、社会改革の要素が加えられました。
大会後に選出された国民党中央執行委員会には、共産党員も含まれていました。毛沢東は国民党中央候補執行委員に選ばれ、後に国民党宣伝部長代理を務めることになります。共産党員が国民党の中枢に入り込むという「党内合作」の形式は、両党の協力を促進する一方で、将来の対立の種をも内包していました。
黄埔軍官学校 ── 革命軍の揺籃
1924年6月16日、広州近郊の黄埔(こうほ、ホアンプー)島に陸軍軍官学校(黄埔軍官学校)が開校しました。孫文が校長の任命権を持ち、蒋介石(しょうかいせき)が校長に就任しました。副校長には廖仲愷(りょうちゅうがい)、政治部主任には共産党員の周恩来(しゅうおんらい)が任命されました。黄埔軍官学校は、国共合作の精神を体現する機関として設計されていました。
黄埔軍官学校の設立は、孫文が長年の課題としてきた「党の軍隊」の創設を意味しました。それまでの中国では、軍隊は個々の将軍の私兵であり、政党の理念に忠実な軍事力は存在しませんでした。黄埔軍官学校は、政治教育と軍事訓練を結合させ、革命の大義に忠誠を誓う士官を養成することを目的としました。ソビエトから派遣された軍事顧問団が教官として活動し、武器・資金もソビエトから提供されました。
第一期生の約500名の中には、後に国民党と共産党の双方で活躍する多数の軍事指導者が含まれていました。教官や学生のなかには共産党員も多く、周恩来が率いる政治部は学生たちへの思想教育を通じて共産党の影響力を浸透させていきました。黄埔軍官学校はこうして、国共両党の協力の象徴であると同時に、両党の人材争奪の場ともなっていったのです。
校長の蒋介石は、黄埔軍官学校を通じて自らの軍事的・政治的基盤を築いていきました。学生たちとの師弟関係を通じて強固な人的ネットワークを構築した蒋介石は、「黄埔系」と呼ばれる軍閥の核をここで形成しました。孫文の死後、蒋介石が国民党の指導者として台頭する基盤は、黄埔軍官学校にあったのです。蒋介石と周恩来という、後に中国の命運をめぐって激しく対立する二人がここで共に働いていたことは、歴史の皮肉と言うべきでしょう。
黄埔軍官学校 ── 国共両党の将星
黄埔軍官学校は、中国近現代史における最も重要な軍事教育機関でした。わずか数年の間に、国民党側では胡宗南・杜聿明・陳誠など国民党軍の主力指揮官が、共産党側では徐向前・林彪・陳賡など人民解放軍の将軍たちが黄埔から輩出されました。彼らは黄埔で共に学び、共に訓練を受けた同窓生でしたが、やがて国共対立のなかで敵味方に分かれて戦うことになります。黄埔軍官学校の卒業生たちは、北伐戦争から国共内戦に至るまで、中国の軍事史の主要な場面に登場し続けました。黄埔はまさに、近現代中国の軍事エリートの揺籃でした。
合作の矛盾 ── 協力と対立の萌芽
第一次国共合作は、その出発点から内在的な矛盾を孕んでいました。国民党と共産党は帝国主義と軍閥の打倒という当面の目標では一致していましたが、革命の最終目標と社会のあるべき姿についてはまったく異なるビジョンを持っていました。国民党が目指したのはブルジョア民主主義国家の建設であり、共産党が目指したのは社会主義・共産主義社会の実現でした。
「党内合作」という形式そのものが矛盾を含んでいました。共産党員は国民党に入党しながら、共産党の独自の組織と規律を維持していました。つまり国民党の中に別の政党が組織的に入り込んでいる状態であり、国民党内の右派はこれを「腹中の蛆虫」として強く警戒しました。国民党右派の戴季陶(たいきとう)や鄒魯(すうろ)らは、共産党員の国民党入党に反対し、合作の破棄を求める運動を展開しました。
孫文が存命中は、彼の威信と指導力によって国共間の矛盾は表面化せずに抑えられていました。しかし1925年3月12日、孫文が北京で肝臓がんのために死去すると、国民党内の権力闘争が激化し、左派と右派の対立が深刻化していきます。孫文の死は、国共合作の最大の調停者を失ったことを意味しました。
1925年5月30日の五卅事件(上海の日本人経営の紡績工場で労働者がストライキを行い、英国租界の警察が中国人デモ隊に発砲して多数の死者を出した事件)は、反帝国主義運動を全国的に燃え上がらせ、国共合作のもとでの革命運動をさらに高揚させました。しかし同時に、労働運動と農民運動の急進化は国民党右派の危機感を強め、国共間の亀裂を深めることにもなりました。この矛盾は、1926年の北伐開始を経て、1927年の蒋介石による上海クーデター(四・一二事件)として爆発し、第一次国共合作は崩壊に至ることになります。
歴史的意義 ── 中国革命の加速
第一次国共合作の歴史的意義は、中国の革命運動を質的に新しい段階に引き上げたことにあります。合作以前の革命は、知識人や軍人を中心とする限られた層の運動でしたが、国共合作のもとで革命は初めて労働者と農民を広範に巻き込む大衆運動に発展しました。
黄埔軍官学校に象徴される革命軍の建設は、中国政治における決定的な変化をもたらしました。それまで軍閥の私兵にすぎなかった軍隊に代わって、政治的な理念に忠誠を誓う近代的な軍事力が誕生したのです。この革命軍が、1926年の北伐において軍閥を次々と打倒し、中国の統一に向けた大きな一歩を踏み出すことになります。
ソビエト連邦との連携は、中国の革命運動に国際的な支援の枠組みを提供しました。軍事顧問の派遣、武器の供給、資金の援助、組織ノウハウの提供など、ソビエトの支援は革命の物質的基盤を強化しました。しかし同時に、コミンテルンの指令と中国の現実との矛盾は、のちに深刻な問題を引き起こすことになります。
第一次国共合作は1927年に崩壊しますが、その遺産は中国近現代史に深く刻まれました。国民党は黄埔軍官学校を母体とする軍事力と、大衆動員の手法を獲得しました。共産党は国民党内部での活動を通じて組織的な経験を積み、労働者・農民運動の実践から革命戦略を鍛え上げました。また、国共合作の経験と崩壊の教訓は、後の第二次国共合作(1937-45年、抗日統一戦線)や国共内戦において重要な参照点となりました。孫文が遺言で語った「革命はいまだ成功せず」という言葉は、第一次国共合作によって始まった革命の激流が、その後数十年にわたって中国を揺さぶり続けることを予見するものでした。
第一次国共合作 関連年表
| 年代 | 出来事 | 備考 |
|---|---|---|
| 1922年6月 | 陳炯明の叛乱 | 孫文が広州から退去 |
| 1922年8月 | マーリンが孫文と会談 | コミンテルンが国共合作を提案 |
| 1923年1月 | 孫文=ヨッフェ宣言 | ソビエト支援の基礎を確認 |
| 1923年6月 | 共産党第三回大会 | 国民党入党(党内合作)方針を決定 |
| 1923年秋 | ボロディンが広州に着任 | 国民党の組織改革を指導 |
| 1924年1月 | 国民党第一回大会 | 国共合作の正式成立 |
| 1924年6月 | 黄埔軍官学校の開校 | 蒋介石が校長に就任 |
| 1925年3月 | 孫文の死去 | 北京にて、享年58歳 |
| 1925年5月 | 五卅事件 | 反帝国主義運動の高揚 |
| 1926年7月 | 北伐の開始 | 国民革命軍が北進 |