1921年7月23日、上海のフランス租界にある一軒の住宅に、全国各地から集まった十数名の若者が密かに会合を開きました。これが中国共産党第一次全国代表大会(第一回党大会)であり、20世紀の世界史を大きく動かすことになる政党の出発点でした。参加者はわずか13名(コミンテルン代表2名を含む)、代表する党員総数は全国でおよそ50名余りにすぎませんでしたが、この小さな集まりが、28年後に中華人民共和国を建国する巨大な組織へと成長することになります。
中国共産党の結成は、五四運動以降のマルクス主義の急速な普及と、コミンテルン(共産主義インターナショナル、第三インターナショナル)の東方への浸透という二つの潮流が合流した結果でした。新文化運動と五四運動を通じて「科学と民主」を追求してきた中国の知識人の一部は、帝国主義列強に裏切られた経験から西洋的な自由主義に幻滅し、ロシア革命が示した社会主義の道に中国の未来を見出したのです。
陳独秀と李大釗は、それぞれ上海と北京を拠点として共産主義小組(グループ)を組織し、マルクス主義の研究と労働運動の実践を進めていました。彼らの活動に注目したコミンテルンは、オランダ人のヘンク・スネーフリート(中国名・馬林)を派遣し、正式な政党の結成を促しました。こうして、中国の知識人の自発的な思想的探求と、国際共産主義運動の組織的な支援が結びつき、中国共産党が産声を上げたのです。
マルクス主義の受容 ── ロシア革命の衝撃
マルクス主義が中国に本格的に紹介されるのは、1917年のロシア十月革命以降のことです。それ以前にも社会主義思想は断片的に紹介されていましたが、体系的な理解には至っていませんでした。ロシア革命は、後進的な農業国においても社会主義革命が可能であることを実証してみせました。この事実は、同じく後進国として近代化に苦悩する中国の知識人に強烈なインスピレーションを与えました。
李大釗は、マルクス主義を中国に本格的に導入した先駆者です。1918年11月、李大釗は「庶民の勝利」「ボリシェヴィズムの勝利」という二つの論文を発表し、ロシア革命の世界史的意義を高く評価しました。1919年には「わがマルクス主義観」を発表し、唯物史観・剰余価値説・階級闘争論というマルクス主義の三大要素を体系的に紹介しました。北京大学で図書館主任を務めていた李大釗のもとには、多くの若い知識人が集まり、マルクス主義研究会が結成されました。
五四運動後のマルクス主義の普及は急速でした。1920年には『共産党宣言』の完全な中国語訳が陳望道によって出版され、マルクスの主要著作が次々と翻訳されました。各地でマルクス主義の研究会や読書会が結成され、社会主義に関する雑誌・パンフレットが大量に出版されました。特に上海・北京・長沙・武漢・広州・済南の六都市では、活発なマルクス主義の研究活動が展開されました。
しかし、初期のマルクス主義受容には無視できない問題もありました。当時の中国の知識人のマルクス主義理解は、必ずしも原典に基づくものではなく、日本語訳からの重訳やロシアを経由した解釈に依存する部分が大きかったのです。また、産業プロレタリアートが未発達な中国にマルクス主義をいかに適用するかという根本的な問題は、この時点ではまだ十分に検討されていませんでした。この課題は、その後の中国共産党の歴史を通じて繰り返し問い直されることになります。
ロシア革命とカラハン宣言 ── ソビエトへの期待
ロシア十月革命(1917年)が中国の知識人に与えた衝撃は、単にイデオロギー的なものにとどまりませんでした。1919年7月に発表されたカラハン宣言は、帝政ロシアが中国に対して獲得した一切の特権と利権(中東鉄道の権益、治外法権、租界など)を無償で返還すると宣言するものでした。列強が中国の権益を争奪しあうなかで、唯一自らの権益を放棄すると宣言した国がソビエト・ロシアだったのです。この宣言は中国社会に大きな感銘を与え、社会主義体制に対する好感と期待を急速に高めました。もっとも、カラハン宣言の実態には曖昧な部分もあり、ソビエト政府がすべての権益を実際に返還したわけではありませんでしたが、宣伝効果は絶大でした。
結党への道 ── 各地の共産主義小組
中国共産党の正式な結成に先立ち、1920年から各地で共産主義小組(共産主義グループ)が結成されました。最初に結成されたのは上海の共産主義小組で、陳独秀が中心でした。陳独秀は新文化運動の旗手として全国的な名声をもっており、彼の参加はマルクス主義運動に大きな権威を与えました。
コミンテルンの極東戦略も、中国共産党の結成を後押しする重要な要因でした。1920年春、コミンテルンはグリゴリー・ヴォイチンスキーを中国に派遣しました。ヴォイチンスキーは北京で李大釗と面会した後、上海の陳独秀を訪ね、正式な共産党の組織化を働きかけました。コミンテルンは資金面でも支援を行い、中国共産党の結成を組織的に後援しました。
1920年から1921年にかけて、上海・北京・武漢・長沙・済南・広州の六都市に加え、日本とフランスにも在外共産主義小組が結成されました。長沙の共産主義小組は毛沢東(もうたくとう)が中心で、新民学会を母体としていました。武漢では董必武(とうひつぶ)と陳潭秋(ちんたんしゅう)、済南では王尽美(おうじんび)と鄧恩銘(とうおんめい)がそれぞれ活動の中心でした。
各地の共産主義小組は、マルクス主義の学習と宣伝、労働者への教育活動、労働組合の組織化などに取り組みました。上海では労働者向けの夜間学校が開設され、『労働界』という週刊誌が発行されました。しかし、各地の活動はそれぞれ独立して行われており、全国的な統一組織の必要性が痛感されるようになりました。こうして、正式な共産党の結成に向けた機運が高まっていったのです。
第一回大会 ── 上海から嘉興南湖へ
1921年7月23日、中国共産党第一次全国代表大会が上海フランス租界の望志路106号(現在の興業路76号)にあった李漢俊の兄・李書城の住宅で開幕しました。全国各地の共産主義小組から選出された代表13名と、コミンテルン代表のマーリン(ヘンク・スネーフリート)およびニコルスキーの2名が出席しました。
大会は約一週間にわたって行われ、党の綱領・組織規約・当面の任務について議論が交わされました。綱領においては、資本家階級の打倒と無産階級の独裁(プロレタリア独裁)の実現を党の最終目標として掲げ、当面は労働者の組織化と教育に重点を置くことが決定されました。陳独秀は大会に出席しませんでしたが、不在のまま中央局書記(事実上の党首)に選出されました。
大会の最終日(7月30日)、フランス租界の巡捕(警察)が会場に踏み込むという事件が発生しました。会議は中断を余儀なくされ、代表たちは急遽場所を変更して、浙江省嘉興(かこう)の南湖に浮かぶ遊覧船上で最後の議事を行い、大会を閉幕しました。租界警察の捜索を逃れて船上で党を正式に発足させたというエピソードは、中国共産党の原点として語り継がれています。
結党時の中国共産党は、あらゆる面で脆弱な組織でした。党員総数は全国で約50名余り、明確な軍事力はなく、資金はコミンテルンの援助に大きく依存していました。党の活動拠点は上海のフランス租界という外国の支配下にある地域であり、中国政府の弾圧を逃れるための苦肉の選択でした。この小さく脆弱な組織が、28年後に4億人を超える人口を擁する中国の支配政党となることを、この時点で予見できた者は誰もいなかったでしょう。
参加者たち ── 十三人の代表
第一回大会に出席した13名の代表の多くは、20代から30代前半の若い知識人でした。彼らのその後の運命は、中国近現代史の激動を象徴するかのように劇的に分かれていきます。
上海代表の李達(りたつ)と李漢俊(りかんしゅん)は、ともに日本留学経験をもつ知識人でした。北京代表の張国燾(ちょうこくとう)と劉仁静(りゅうじんせい)は北京大学の学生でした。長沙からは毛沢東と何叔衡(かしゅくこう)が参加しました。当時28歳の毛沢東は、湖南省の教師であり、まだ党内における指導的な地位にはありませんでしたが、農村の現実に深い関心を寄せる独自の視点を持っていました。
武漢代表の董必武と陳潭秋、済南代表の王尽美と鄧恩銘、広州代表の陳公博(ちんこうはく)と包恵僧(ほうけいそう)、そして日本留学中の周仏海(しゅうふつかい)が東京からの代表として加わりました。これらの人物のうち、中華人民共和国の建国(1949年)まで共産党員として活動を続けたのは、毛沢東と董必武の二人だけでした。
陳公博と周仏海は早期に党を離れ、後に汪兆銘政権(日本の傀儡政権)に参加して「漢奸」(売国奴)として断罪されました。張国燾は長征の過程で毛沢東と激しく対立し、最終的に国民党側に投じました。李漢俊は1927年に軍閥によって処刑され、鄧恩銘は1931年に国民党政府によって銃殺されました。革命の道はかくも過酷であり、第一回大会の参加者たちの運命は、中国革命の複雑さと残酷さを物語っています。
陳独秀と李大釗 ── 「南陳北李」の結党
中国共産党の結成は「南陳北李、相い約して建党す」という言葉で語られます。上海を拠点とする陳独秀と北京を拠点とする李大釗が、南北から呼応して党を建てたという意味です。陳独秀は第一回大会に出席しませんでしたが、新文化運動の旗手としての威信から初代書記に選ばれました。李大釗もまた大会には不参加でしたが、北京での共産主義運動の精神的指導者でした。二人は新文化運動の同志として出発しながら、マルクス主義への傾倒を深め、中国に共産党を創設するに至りました。しかし陳独秀は1927年に大革命の失敗の責任を問われて失脚し、李大釗は同年に軍閥に処刑されます。党の創始者二人がいずれも悲劇的な結末を迎えたことは、中国革命の苛烈さを象徴しています。
初期の活動 ── 労働運動と組織拡大
結党後の中国共産党は、まず労働者の組織化に重点を置きました。第一回大会の決議に従い、中国労働組合書記部が上海に設立され、全国の労働運動を指導する機関として活動を開始しました。党員たちは工場や鉱山に入り込み、労働者教育と組合の組織化に奔走しました。
1922年1月、香港の海員が賃上げを求めてストライキに突入し、約56日間にわたって続きました。この香港海員ストライキは中国共産党が関与した最初の大規模な労働争議であり、最終的に海員側の勝利に終わりました。この成功に勢いづいて、1922年から1923年にかけて全国各地でストライキが頻発し、中国の労働運動は空前の高揚期を迎えました。
しかし、1923年2月7日に起きた京漢鉄路ストライキの弾圧(二七事件)は、共産党と労働運動に大きな挫折をもたらしました。京漢鉄道(北京─漢口)の労働組合が全線でストライキを実施したところ、軍閥・呉佩孚(ごはいふ)が武力で鎮圧し、労働者の指導者・林祥謙(りんしょうけん)をはじめ多数が殺害されました。この弾圧は、軍閥が支配する中国において、労働運動だけでは革命を成し遂げることはできないという教訓を共産党に与えました。
二七事件の挫折は、中国共産党の戦略に大きな転換をもたらしました。共産党は単独での革命が困難であることを認識し、コミンテルンの勧告もあって、孫文率いる国民党との協力関係の構築(国共合作)を模索し始めます。1923年6月の第三回大会で、共産党員が個人の資格で国民党に入党するという方針(党内合作)が決定され、1924年の第一次国共合作への道が開かれたのです。
歴史的意義 ── 中国革命の新たな段階
中国共産党の結成は、中国の革命運動に質的な転換をもたらしました。辛亥革命以来、中国の革命は国民党に代表されるブルジョア民主主義革命の枠内にとどまっていましたが、共産党の登場によって社会主義革命という新たな選択肢が提示されました。マルクス・レーニン主義の理論と組織原則に基づく政党の出現は、中国の政治地図を根本的に書き換えることになります。
共産党がもたらした最も重要な変革は、労働者と農民を革命の主体として位置づけたことです。それまでの中国の政治運動は、知識人・軍人・商人が中心であり、圧倒的多数を占める労働者と農民は政治から疎外されていました。共産党はマルクス主義の階級闘争理論に基づき、搾取される側の人々こそが社会変革の主役であると主張し、彼らの組織化に全力を注ぎました。
また、中国共産党の結成は、中国の革命運動を国際的な共産主義運動と結びつけました。コミンテルンとの連携を通じて、中国共産党はソビエト連邦の経験と資源を活用することができましたが、同時に国際共産主義運動の指令に従わなければならないという制約も負いました。コミンテルンの指導と中国の現実の間の矛盾は、後に深刻な問題を引き起こすことになります。
結党からわずか28年後の1949年、中国共産党は中華人民共和国を建国し、世界の人口の約4分の1を支配する政権を樹立しました。上海の一軒の住宅から始まった小さな政党が、このような歴史的な成功を収めた背景には、中国社会の深刻な矛盾と変革への渇望があったことは間違いありません。同時に、その過程での夥しい犠牲と試行錯誤もまた、中国共産党の歴史に刻まれた消えない刻印です。
中国共産党の結成 関連年表
| 年代 | 出来事 | 備考 |
|---|---|---|
| 1917年11月 | ロシア十月革命 | 社会主義国家の誕生 |
| 1918年 | 李大釗がロシア革命を紹介 | マルクス主義受容の起点 |
| 1919年5月 | 五四運動 | 思想的転換の契機 |
| 1919年7月 | カラハン宣言 | ソビエトが中国の権益を返還と宣言 |
| 1920年春 | ヴォイチンスキーが中国訪問 | コミンテルンの組織化支援 |
| 1920年8月 | 上海共産主義小組の結成 | 陳独秀が中心 |
| 1920年 | 『共産党宣言』中国語全訳出版 | 陳望道による翻訳 |
| 1921年7月23日 | 中国共産党第一回大会の開幕 | 上海フランス租界にて |
| 1921年7月末 | 大会が嘉興南湖で閉幕 | 遊覧船上で最終議事 |
| 1922年1月 | 香港海員ストライキ | 共産党関与の大規模労働争議 |