1919年5月4日、北京の学生約3000人が天安門広場に集結し、パリ講和会議での中国外交の失敗に抗議するデモ行進を行いました。この日の抗議行動に端を発する五四運動は、学生の愛国的デモにとどまらず、労働者のストライキ、商人のボイコット運動へと発展し、中国全土を巻き込む大規模なナショナリズム運動となりました。
五四運動の直接的なきっかけは、第一次世界大戦後のパリ講和会議(ヴェルサイユ会議)において、ドイツが山東省に持っていた権益を中国に返還するのではなく、日本に譲渡することが決定されたことでした。中国は連合国の一員として第一次大戦に参戦し、約14万人の労工を西部戦線に派遣していたにもかかわらず、その正当な権利が無視されたのです。「公理は強権に勝つ」と信じてウィルソン大統領の民族自決の原則に期待を寄せていた中国の知識人たちにとって、この結果は痛恨の裏切りでした。
五四運動は、1915年以来の新文化運動が準備した思想的土壌のうえに花開いた政治的行動でした。「科学と民主」を掲げた啓蒙運動が、パリ講和会議という具体的な事件を触媒として、大衆的なナショナリズム運動に転化したのです。この運動を通じて、中国の知識人と民衆は、帝国主義列強に対する抵抗と、中国社会の内部変革を同時に追求するという、その後の中国近現代史を貫く二重の課題を自覚するに至りました。
第一次世界大戦と中国 ── 期待と裏切り
1914年に勃発した第一次世界大戦は、中国にとって国際的地位を改善する千載一遇の好機と見なされました。ヨーロッパ列強が戦争に没頭する間に、中国は経済的な自立を進め、外交的な発言力を高めようとしました。1917年8月、段祺瑞(だんきずい)政府はドイツとオーストリア・ハンガリーに宣戦布告し、連合国側に参戦しました。
中国が参戦した最大の目的は、戦後の講和会議においてドイツが山東省に持っていた権益(膠州湾租借地、膠済鉄道など)を回収することでした。しかしこの目論みには、すでに大きな障害が立ちはだかっていました。1915年の対華二十一か条要求において、日本は袁世凱政府からドイツの山東権益を日本に移譲するという約束を取りつけていたのです。さらに1917年には、日本は英・仏・伊・露との秘密協定で、山東権益の継承に対する列強の同意を確保していました。
しかし、アメリカのウィルソン大統領が掲げた「十四か条の平和原則」は、中国の知識人に大きな希望を与えました。民族自決の原則と秘密外交の廃止を唱えるウィルソンの理想主義は、不平等条約の撤廃と主権回復を願う中国人の心を強くとらえたのです。陳独秀は「ウィルソン万歳」と叫び、李大釗は新時代の到来を予感しました。中国の知識人たちは、戦後の新世界秩序において正義が実現されると信じていたのです。
だからこそ、パリ講和会議の結果は衝撃的でした。ウィルソンの理想は現実政治の前に後退し、日本の山東権益継承が認められたのです。「公理は強権に勝つ」という信念は打ち砕かれ、西洋列強に対する中国の知識人の信頼は根底から揺さぶられることになりました。
山東問題 ── 五四運動の導火線
山東省はドイツが1898年に清朝から膠州湾(青島を含む)を租借して以来、ドイツの勢力圏でした。第一次大戦が始まると、日本は日英同盟を理由にドイツに宣戦布告し、1914年11月に青島を占領しました。日本はさらに対華二十一か条要求によってドイツの山東権益の継承を中国に認めさせました。パリ講和会議において中国代表団は山東権益の直接返還を要求しましたが、日本は先の秘密協定と中国政府との合意を盾にこれを拒否しました。列強は日本の主張を支持し、ヴェルサイユ条約第156条から158条に山東権益の日本移譲が明記されました。中国にとって山東問題は、国際社会における正義の不在を象徴する問題となり、五四運動を燃え上がらせる直接的な導火線となったのです。
パリ講和会議 ── 中国外交の挫折
1919年1月に開幕したパリ講和会議に、中国は大きな期待を抱いて代表団を派遣しました。代表団の団長は外交総長の陸徵祥(りくちょうしょう)で、若く優秀な外交官・顧維鈞(こいきん、ウェリントン・クー)が実質的な交渉の中心を担いました。顧維鈞は1月28日の十人委員会でのスピーチにおいて、山東の中国返還を理路整然と主張し、列強の代表たちを感嘆させたと伝えられています。
しかし、外交交渉の帰趨は弁論の巧拙ではなく、国力と秘密外交によって決められました。日本代表団は、1915年の対華二十一か条要求に対する中国政府の承認書と、1918年の日中間の秘密協定(段祺瑞政府がドイツ権益の日本移譲に同意したもの)を提示し、国際法上の正当性を主張しました。ウィルソン大統領は当初、中国の主張に同情的でしたが、日本が国際連盟に参加しないと脅したことに屈し、最終的に日本の山東権益を認めました。
4月30日、山東問題に関する最終決定が中国代表団に通告されました。ドイツが山東に持っていた一切の権益は日本に移譲されるという内容でした。この報がニュースとして中国に伝わると、全国に衝撃が走りました。北京の知識人たちは、中国政府に対してヴェルサイユ条約への調印を拒否するよう強く求めました。
最終的に、中国代表団は6月28日の条約調印式を欠席し、ヴェルサイユ条約への署名を拒否しました。これは、パリ講和会議に参加した諸国のなかで条約に署名しなかった唯一の事例であり、五四運動の直接的な成果の一つでした。国内世論の圧力が外交判断を動かしたという意味で、中国の政治史において画期的な出来事でした。
五月四日の蜂起 ── 学生たちの怒り
1919年5月4日午後、北京大学をはじめとする十三の大学・専門学校の学生約3000人が天安門広場に集結しました。学生たちは「山東権益を取り戻せ」「対華二十一か条を廃棄せよ」「売国賊を罰せよ」というスローガンを掲げ、デモ行進を開始しました。当初は平和的なデモでしたが、学生たちの怒りは次第にエスカレートしていきました。
学生たちの怒りの矛先は、日本に対するものだけでなく、日本に屈服した中国政府の「売国」外交官たちにも向けられました。デモ隊の一部は、親日的な外交官として知られる曹汝霖(そうじょりん)の邸宅に押しかけ、邸宅に火を放ちました(「火焼趙家楼」事件)。この場にいた駐日公使・章宗祥(しょうそうしょう)は暴行を受けて重傷を負いました。
北京政府は軍警を動員してデモを鎮圧し、32名の学生を逮捕しました。しかし、この弾圧はかえって全国的な連帯を生み出しました。逮捕された学生の釈放を求めて、北京の学生は授業ボイコット(罷課)を開始し、天津・上海・南京・武漢・広州など全国の主要都市で学生が呼応しました。北京大学の蔡元培学長は逮捕された学生の救出に奔走し、政府に抗議して辞表を提出しました。
五月四日の出来事は、中国の学生が初めて組織的な政治行動に出た歴史的な瞬間でした。伝統的な中国社会において、知識人は科挙に合格して官僚になることが最高の使命とされ、街頭に出て政治を動かすという行動は考えられないことでした。五四運動は、知識人の社会的役割に対する根本的な認識の転換を象徴していたのです。
全国への拡大 ── 労働者と商人の参加
五四運動の画期的な特徴は、学生の抗議行動が労働者と商人の参加によって全社会的な運動に発展したことです。6月3日、北京政府が再び学生を大量逮捕したことをきっかけに、運動は新たな段階に入りました。上海の工場労働者が大規模なストライキに突入し、商人たちも日本製品のボイコットと店舗の休業(罷市)を開始したのです。
上海では6月5日以降、紡績工場・鉄道・港湾など、あらゆる産業でストライキが相次ぎました。参加した労働者の数は6万人から10万人に達したと推計されています。商人たちの罷市も上海から全国に波及し、天津・済南・漢口・重慶・長沙など各地で日本製品の不買運動が展開されました。
労働者のストライキへの参加は、五四運動の性格を根本的に変えました。学生中心の啓蒙運動から、労働者階級が政治的に目覚め、組織的な行動をとるようになったことは、中国社会に新たな政治的アクターが登場したことを意味しました。この経験は、マルクス主義の知識人に大きな示唆を与えました。李大釗や陳独秀らは、労働者階級こそが中国の社会変革を担う主体であるというマルクス主義の理論が、中国においても有効であることを確信するに至ったのです。
全国的な運動の圧力のもとで、北京政府はついに屈服しました。6月10日、政府は曹汝霖・章宗祥・陸宗輿の三名の「売国」外交官を罷免し、逮捕された学生を釈放しました。さらに6月28日、中国代表団はヴェルサイユ条約の調印を拒否しました。学生・労働者・商人が連帯した国民運動が、政府の外交方針を転換させるという前例のない事態が実現したのです。
労働者階級の登場 ── 中国政治の新しい主体
五四運動において労働者が政治的行動に参加したことは、中国の社会構造の変化を反映していました。19世紀末以降の産業化の進展により、上海・武漢・天津などの都市には相当数の工場労働者が集中していました。彼らは劣悪な労働条件と低賃金に苦しんでおり、ナショナリズムの高揚は彼らの不満に政治的な方向性を与えました。五四運動における労働者のストライキは、中国の労働運動の事実上の出発点であり、その後の労働組合運動と共産主義運動の基盤を形成しました。毛沢東は後に、五四運動において中国の労働者階級が「独立的な政治的力量として歴史の舞台に登場した」と評価しています。
思想的転換 ── 西洋への幻滅とマルクス主義
五四運動は、中国の知識人の思想的な方向性に決定的な転換をもたらしました。パリ講和会議での裏切りは、西洋の自由主義・民主主義に対する信頼を根底から揺さぶりました。ウィルソンの民族自決の原則が中国には適用されないという現実は、列強の唱える「正義」が結局は自国の利害に従属するものにすぎないことを暴露したのです。
この幻滅のなかで急速に影響力を増したのが、マルクス主義でした。1917年のロシア十月革命は、労働者と農民が自らの手で社会を変革しうることを実証してみせました。しかもソビエト政府は、帝政ロシアが中国に強要した不平等条約を放棄すると宣言し(カラハン宣言、1919年7月)、中国の知識人の間にソビエト・ロシアに対する好感を広めました。
李大釗は1919年に「わが国のマルクス主義研究」と題する論文を発表し、マルクス主義の包括的な紹介を試みました。陳独秀もまた、五四運動の経験を経てマルクス主義への傾倒を深めていきました。彼らは、帝国主義と封建主義の二重の支配から中国を解放するためには、資本主義的な近代化の道ではなく、社会主義革命の道を選ぶべきだと考えるようになりました。
一方で、胡適に代表される自由主義的な知識人は、マルクス主義の受容に警鐘を鳴らしました。胡適は「主義を語るよりも問題を研究せよ」と主張し、包括的なイデオロギーに基づく社会変革よりも、具体的な問題を一つずつ解決していく漸進的アプローチを提唱しました。この「問題と主義」をめぐる論争は、1919年から1920年にかけて『新青年』誌上で展開され、中国の知識人社会を自由主義と社会主義の二つの陣営に分裂させる契機となりました。
歴史的意義 ── 近現代中国の分岐点
五四運動の歴史的意義は、多層的なものです。まず、中国におけるナショナリズムの大衆的な覚醒を画した出来事として位置づけられます。それ以前のナショナリズムは一部の知識人やエリート層のものでしたが、五四運動を通じて、学生・労働者・商人という幅広い社会層が愛国的な行動に参加しました。「国民」としての自覚が社会全体に広まったことは、その後の中国政治を根底から変える力となりました。
第二に、五四運動は新文化運動の思想的成果を政治的行動に転化させた出来事でした。1915年以来の啓蒙運動で培われた批判精神と社会意識が、パリ講和会議という具体的な事件を契機として、大衆的な政治運動に結実したのです。思想と行動の結合という点で、五四運動は中国近代史における画期をなしています。
第三に、五四運動はその後の中国政治の基本的な構図を形成しました。マルクス主義の急速な受容は、1921年の中国共産党結成への直接的な布石となりました。同時に、孫文は五四運動に鼓舞されて国民党の再建に着手し、ソビエト・ロシアとの連携を模索し始めました。五四運動後の中国では、国民党と共産党という二つの革命政党が、中国の変革をめぐって協力と対立を繰り返すことになります。
五四運動は今日に至るまで、中国における愛国主義と近代化の象徴として語り継がれています。毎年5月4日は「青年節」として記念され、若者の愛国精神と社会参加の精神を称える日とされています。五四運動が提起した「反帝国主義」と「反封建主義」という二つの課題は、その後の中国革命全体を貫く基本的なテーマとなり、20世紀中国の歴史を方向づけたのです。
五四運動 関連年表
| 年代 | 出来事 | 備考 |
|---|---|---|
| 1914年8月 | 第一次世界大戦の勃発 | 日本がドイツに宣戦布告 |
| 1914年11月 | 日本軍が青島を占領 | ドイツの山東権益を奪取 |
| 1917年8月 | 中国がドイツに宣戦布告 | 連合国側として参戦 |
| 1919年1月 | パリ講和会議の開幕 | 中国代表団が山東返還を要求 |
| 1919年4月30日 | 山東権益の日本移譲が決定 | 中国外交の挫折 |
| 1919年5月4日 | 五四運動の勃発 | 北京の学生約3000人がデモ |
| 1919年6月3日 | 政府が学生を大量逮捕 | 運動が労働者・商人に拡大 |
| 1919年6月5日 | 上海で労働者のストライキ | 全国の主要都市に波及 |
| 1919年6月10日 | 「売国」外交官三名の罷免 | 運動の直接的成果 |
| 1919年6月28日 | 中国がヴェルサイユ条約の調印を拒否 | 講和会議参加国中唯一 |