1915年9月、陳独秀(ちんどくしゅう)は上海で雑誌『青年雑誌』(翌年に『新青年』と改題)を創刊しました。この一冊の雑誌の誕生が、中国の思想・文化の根底を揺るがす「新文化運動」の出発点となります。陳独秀は創刊号で青年に向けて六つの原則を掲げ、自主的・進歩的・進取的・世界的・実利的・科学的な精神を呼びかけました。それは二千年以上にわたって中国社会を支配してきた儒教的秩序への正面からの挑戦でした。
新文化運動が勃興した背景には、中華民国成立後の深い幻滅がありました。辛亥革命は皇帝制度を打倒したものの、袁世凱による独裁、軍閥の割拠、列強の干渉という現実のもとで、民主共和の理想は実現にはほど遠い状態でした。1915年には袁世凱が帝制復活を企て、日本が対華二十一か条の要求を突きつけるなど、中国は政治的にも外交的にも危機的状況に陥っていました。
こうしたなかで、若い知識人たちは政治制度の変革だけでは中国を救えないと痛感し、中国人の精神そのもの、すなわち思想と文化の根本的な変革が必要だと考えるようになりました。新文化運動は「思想革命」と呼ばれるにふさわしい、中国の近代化における最も深い層での変革の試みでした。この運動は後の五四運動(1919年)を準備し、マルクス主義の受容から中国共産党の成立(1921年)に至る思想的な地殻変動の起点となったのです。
民国初期の混迷 ── 政治革命の限界
中華民国の成立(1912年)は、中国に共和制をもたらしましたが、政治の安定には程遠い状態が続いていました。臨時大総統の座を孫文から引き継いだ袁世凱は、国会を解散し、国民党を非合法化し、臨時約法を廃棄して終身大総統に就任するなど、独裁体制を着々と構築していきました。
1915年、袁世凱の野心はさらにエスカレートし、帝制の復活を宣言しました。国号を「中華帝国」と改め、自ら皇帝に即位しようとしたのです。辛亥革命からわずか4年で皇帝制度が復活しようとしている事態に、知識人たちは深い衝撃を受けました。蔡鍔(さいがく)ら雲南の軍人が護国戦争を起こし、各省が反対を表明した結果、袁世凱はわずか83日で帝制を撤回し、翌1916年に失意のうちに病没しましたが、この一件は中国社会の根深い問題を浮き彫りにしました。
政治制度を変えても、人々の意識が変わらなければ真の変革は実現しないということを、知識人たちは痛感しました。袁世凱の帝制復活を支持した勢力のなかには、儒教的な君臣の秩序を尊重する保守的な知識人や軍人が少なからず含まれていたのです。このことが、陳独秀ら新しい世代の知識人に、儒教そのものを批判の対象とする決意を固めさせました。
同じ1915年には、日本が袁世凱に対して「対華二十一か条の要求」を突きつけ、中国の主権を大幅に侵害する要求を呑ませました。この屈辱的な外交失態もまた、中国社会に深い危機感を植えつけ、国家の根本的な変革を求める声を高めることになりました。
袁世凱の帝制運動 ── 共和制の挫折
袁世凱が帝制復活を企てた背景には、複数の要因がありました。袁世凱自身の権力欲はもちろんですが、「筹安会」と呼ばれる知識人グループが帝制を学術的に正当化する論陣を張ったことも見逃せません。彼らは中国の国情は共和制に適さず、立憲君主制こそが最適だと主張しました。また、袁世凱の顧問であったアメリカ人フランク・グッドナウも、中国には君主制が適しているという意見書を提出しています。この帝制復活の試みとその失敗は、単なる政治的事件にとどまらず、中国が近代国家として歩むべき道をめぐる根本的な論争を引き起こしました。新文化運動は、まさにこの論争に対する知識人の回答だったのです。
『新青年』の創刊 ── 啓蒙の旗手
1915年9月15日、陳独秀は上海で『青年雑誌』を創刊しました。翌1916年9月に『新青年(La Jeunesse)』と改題されたこの雑誌は、新文化運動の中心的なメディアとなりました。フランス語の副題が示すように、陳独秀はフランス啓蒙思想の精神を中国に移植しようとしていたのです。
陳独秀は創刊号の巻頭論文「敬告青年」(青年に告ぐ)において、中国の青年たちに向けて精神の根本的な変革を訴えました。彼は青年が備えるべき資質として、奴隷的ではなく自主的であること、保守的ではなく進歩的であること、退嬰的ではなく進取的であること、鎖国的ではなく世界的であること、虚文的ではなく実利的であること、空想的ではなく科学的であることの六点を挙げました。
陳独秀が最も重視したのは「民主」(デモクラシー、彼は「徳先生」と呼んだ)と「科学」(サイエンス、彼は「賽先生」と呼んだ)の二つの価値でした。「徳先生と賽先生を迎え入れよ」というスローガンは、新文化運動を象徴する言葉となりました。この二つの価値を中国に根付かせるためには、封建的な倫理道徳、迷信、専制政治など、旧い文化のあらゆる側面を批判し、打破しなければならないと陳独秀は主張しました。
1917年、陳独秀は北京大学の学長に就任した蔡元培(さいげんばい)に招かれて文科学長(文学部長に相当)に就任し、『新青年』の編集拠点も北京に移りました。蔡元培は「学術の自由」と「百家争鳴」を掲げ、北京大学を中国における新思想の発信地へと変貌させました。胡適(こてき)、李大釗(りたいしょう)、銭玄同(せんげんどう)、劉半農(りゅうはんのう)など、後に中国思想界を代表する知識人たちが北京大学と『新青年』に集まり、百花繚乱の議論を繰り広げたのです。
文学革命 ── 白話文の勝利
新文化運動の具体的な成果として最も重要なのが、文学革命です。1917年1月、アメリカ留学から帰国した胡適(こてき)は『新青年』に「文学改良芻議」(文学改良についての初歩的な提案)を発表し、古典的な文語文(文言文)に代えて口語体(白話文)で文学作品を書くことを提唱しました。
胡適の提案は穏健なものでしたが、翌月、陳独秀は「文学革命論」を発表し、より急進的な姿勢で旧文学の打破を主張しました。陳独秀は「貴族文学を打倒して国民文学を建設せよ、古典文学を打倒して写実文学を建設せよ、山林文学を打倒して社会文学を建設せよ」と三つのスローガンを掲げ、文学革命を宣言しました。
この文学革命において決定的な役割を果たしたのが、魯迅(ろじん、本名・周樹人)です。1918年5月、魯迅は『新青年』に短編小説「狂人日記」を発表しました。中国文学史上初の白話文による本格的な小説であるこの作品は、儒教道徳を「人を食う礼教」として痛烈に告発するものでした。狂人の目を通して中国社会の本質を暴き出す魯迅の筆致は読者に強烈な衝撃を与え、白話文学の可能性を一挙に証明しました。
白話文運動は急速に広まり、1920年には中華民国教育部が小学校の国語教科書を白話文に切り替えることを決定しました。数千年にわたって知識人の言語であった文語文が、わずか数年のうちに書き言葉の主流の座を白話文に譲ったのです。この変革は、文学や学術を一部のエリートの独占から解放し、より広い層の人々が知識にアクセスできる条件を整えたという点で、中国社会の民主化に大きく貢献しました。
儒教批判 ── 「孔子の店を打倒せよ」
新文化運動における最も根本的な思想的営為は、儒教に対する体系的な批判でした。「打倒孔家店」(孔子の店を打倒せよ)というスローガンは、二千年以上にわたって中国社会の思想的基盤であった儒教に正面から挑戦するものでした。
新文化運動の知識人たちが儒教を批判した論点は多岐にわたります。第一に、儒教の倫理体系は個人の自由と平等を否定し、上下関係の固定化された身分秩序を正当化するものだと批判されました。「三綱五常」(君臣・父子・夫婦の三つの綱と、仁・義・礼・智・信の五つの常)の倫理は、人々を従順な臣民として拘束する道具にすぎないと断じられたのです。
第二に、儒教は女性に対する抑圧の思想的基盤であると批判されました。「女子は才なきが便ち徳なり」という伝統的な価値観や、纏足の慣習、寡婦の再婚禁止などが、儒教的な礼教から生み出されたものとして攻撃されました。新文化運動は女性解放の思想的な先駆けとなり、女性の教育権や参政権を求める声が高まる契機となりました。
第三に、儒教は科学的・合理的な思考の発展を阻害してきたと批判されました。祖先崇拝や天命思想に基づく世界観は、自然科学の発展とは根本的に相容れないとされました。陳独秀は、中国が西洋に遅れをとった根本原因は技術力の差ではなく、科学的思考方法の欠如にあると主張しました。
ただし、新文化運動の儒教批判に対しては、当時から反論も存在しました。東南大学の呉宓(ごひつ)らを中心とする「学衡派」は、文化的伝統の全面的な否定は行き過ぎであり、東西文化の調和こそが目指すべき方向だと主張しました。梁漱溟(りょうそうめい)もまた、西洋文明と中国文明の根本的な相違を認めたうえで、中国文化の独自の価値を擁護しました。新文化運動は伝統文化を全面否定したように見えますが、実際にはそれに対する反論との緊張関係のなかで展開されたのです。
思想家たち ── 新時代を切り拓いた知識人
新文化運動を牽引した知識人たちは、それぞれ異なる思想的立場から中国の変革に取り組みました。運動の中心人物である陳独秀(1879-1942)は、安徽省出身の知識人で、日本とフランスに留学した経験をもっています。当初は自由主義的な啓蒙思想家でしたが、ロシア革命の影響を受けて次第にマルクス主義に傾倒し、1921年には中国共産党の初代総書記に就任することになります。
胡適(1891-1962)は、アメリカのコロンビア大学でジョン・デューイに師事したプラグマティストです。白話文運動の提唱者として文学革命を主導し、「実験主義」の立場から科学的方法論を中国に導入しようとしました。胡適は全面的な西洋化を支持し、「大胆に仮説を立て、慎重に求証せよ」と科学的態度を説きました。しかし、後にマルクス主義と対立し、自由主義の立場を貫いたことで共産党との関係は断裂します。
李大釗(1889-1927)は、新文化運動の知識人のなかでいち早くマルクス主義に注目した人物です。1918年にロシア十月革命を紹介する論文を発表し、マルクス主義の中国への本格的な導入に先鞭をつけました。李大釗は後に中国共産党の創設に参画し、国共合作にも尽力しましたが、1927年に北京で張作霖軍閥に逮捕され処刑されました。
そして魯迅(1881-1936)は、日本留学の経験を経て文学の道に進み、小説・エッセイ・翻訳を通じて中国社会の病弊を鋭く告発し続けました。「阿Q正伝」「孔乙己」「故郷」など、中国近代文学の最高傑作とされる作品群を生み出した魯迅は、中国の国民性そのものに対する痛烈な批判者であると同時に、中国の人々に対する深い愛情と絶望的な希望を持ち続けた思想家でもありました。
蔡元培と北京大学改革 ── 学術の自由の砦
新文化運動の展開において、北京大学学長・蔡元培(1868-1940)の果たした役割は決定的でした。1917年に学長に就任した蔡元培は、「兼容並包」(あらゆる思想を包容する)の方針を打ち出し、保守派も革命派も、自由主義者もマルクス主義者も分け隔てなく教壇に招きました。この学術の自由の保障が、北京大学を中国における思想革新の拠点に変えたのです。蔡元培は科挙出身の伝統的な知識人でありながら、ドイツとフランスに留学して西洋の大学制度を学び、近代的な学術研究の理念を北京大学に導入しました。彼の改革がなければ、新文化運動はこれほど大きな影響力を持ち得なかったでしょう。
歴史的意義 ── 思想革命がもたらしたもの
新文化運動の歴史的意義は、中国の近代化を政治制度の変革から思想・文化の変革へと深化させた点にあります。辛亥革命が皇帝を倒したのに対し、新文化運動は皇帝を支えてきた思想的基盤そのものに挑戦しました。この意味で、新文化運動は辛亥革命を思想的に補完し、深化させる営みでした。
白話文運動の成功は、中国社会に計り知れない影響をもたらしました。数千年にわたって文語文によって独占されてきた知識と情報が、口語体で書かれることによって、はるかに広い層の人々に届くようになりました。新聞・雑誌・教科書が白話文で書かれるようになったことで、近代的な市民社会の形成に不可欠な情報の共有と公共的な議論の場が整えられていきました。
新文化運動はまた、中国にさまざまな西洋思想を紹介する窓口となりました。自由主義、実用主義、社会主義、アナキズム、フェミニズムなど、多様な思想が中国の知識人に受容され、激しい論争が繰り広げられました。なかでもロシア十月革命(1917年)以降のマルクス主義の流入は、中国の政治的運命を大きく変えることになります。李大釗がマルクス主義を紹介し、陳独秀がそれに共鳴したことが、1921年の中国共産党結成への直接的な布石となりました。
しかし、新文化運動には批判もあります。伝統文化の全面的な否定は行き過ぎであり、中国文化のなかにも近代化に活用しうる要素があったのではないかという指摘です。また、「科学と民主」というスローガンは西洋への無批判な追従を招き、中国独自の近代化の道を模索する妨げになったとも言われます。こうした功罪の両面を含みながらも、新文化運動が中国の近現代史において果たした思想的解放の役割は、きわめて大きなものでした。
新文化運動 関連年表
| 年代 | 出来事 | 備考 |
|---|---|---|
| 1915年1月 | 対華二十一か条の要求 | 日本が袁世凱に要求を突きつける |
| 1915年9月 | 『青年雑誌』(のち『新青年』)創刊 | 陳独秀が上海で発行 |
| 1915年12月 | 袁世凱の帝制宣言 | わずか83日で撤回 |
| 1916年6月 | 袁世凱の死去 | 軍閥割拠時代の始まり |
| 1917年1月 | 胡適「文学改良芻議」発表 | 白話文学の提唱 |
| 1917年1月 | 蔡元培が北京大学学長に就任 | 学術の自由を推進 |
| 1917年2月 | 陳独秀「文学革命論」発表 | 旧文学の打破を宣言 |
| 1918年5月 | 魯迅「狂人日記」発表 | 中国初の白話小説 |
| 1918年11月 | 李大釗がロシア革命を紹介 | マルクス主義の導入 |
| 1919年5月 | 五四運動の勃発 | 新文化運動が政治運動に発展 |