現代語訳
語句の意味
有馬山:現在の兵庫県神戸市北区にある山。有馬温泉で知られる景勝地。
猪名の笹原:猪名野(いなの)にある笹原のこと。猪名川流域の野で、現在の兵庫県伊丹市・川西市周辺。「猪名」は歌枕として知られる地名。
風吹けば:「風が吹くと」の意味。笹原に風が吹いてそよそよと音を立てる情景。
いでそよ:「さあ、そうですよ」「まあ、そのとおりですよ」の意味。「いで」は感動詞で呼びかけ、「そよ」は「そうですよ」の意。同時に笹が風で「そよそよ」と鳴る擬音語に掛けている。
人を忘れやはする:「あなたのことを忘れたりするでしょうか(いいえ、忘れません)」の意味。「やは」は反語を表す係助詞。
歌の解説
この歌は、自分のことを忘れたのではないかと疑う相手に対して、「忘れるものですか」と力強く答えた恋の歌です。有馬山から猪名の笹原にかけての風景を序詞として用い、笹の葉がそよぐ音の「そよ」と、相手に呼びかける「そよ(そうですよ)」を掛詞にした、機知に富んだ巧みな歌です。
この歌が詠まれた背景としては、しばらく会えない期間が続いた恋人から「私のことを忘れたのではないですか」と問いかけられ、それに対する返歌として詠まれたとされています。「忘れるものですか」という返答を、直接的に言うのではなく、有馬山・猪名の笹原という具体的な風景を経由して、風の音の「そよ」を媒介にしながら伝えるという、非常に洗練された表現方法をとっています。
上の句の「有馬山 猪名の笹原 風吹けば」は序詞として機能しており、「そよ」という音を導き出すための導入部分です。有馬山から猪名野にかけての笹原に風が吹き渡り、笹の葉がそよそよと音を立てる情景が、まず読者の前に広がります。この情景描写自体も美しく、兵庫県の風光明媚な景色が目に浮かびます。
そして下の句で「いでそよ」と転じ、笹のそよぐ音を恋人への返事に変換します。「さあ、そうですとも、あなたのことを忘れたりするものですか」という明快な回答は、不安を抱える恋人への優しい安心の言葉であると同時に、自信に満ちた愛情表現でもあります。反語の「やはする」で「忘れるはずがないでしょう」と念を押す形は、相手の疑いを軽やかに払拭する効果を持っています。
出典は『後拾遺和歌集』の恋二に収められています。母の紫式部とは異なる、明るく軽やかな歌風が特徴的な一首です。
作者について
大弐三位(だいにのさんみ)は、藤原賢子(ふじわらのけんし / かたこ)のことで、平安時代中期の女流歌人です。999年頃に生まれ、1082年頃に亡くなったとされています。紫式部の娘であり、父は藤原宣孝です。
母の紫式部の死後、後一条天皇の乳母を務め、藤原兼隆との間に子をもうけた後、高階成章と結婚しました。夫の成章が大宰大弐(大宰府の次官)に任じられたことと、自身が従三位に叙せられたことから「大弐三位」と呼ばれるようになりました。
母・紫式部の文学的才能を受け継ぎ、和歌に秀でていました。女房三十六歌仙の一人に選ばれています。母のような内省的で重厚な歌風とは異なり、軽やかで機知に富んだ明るい歌風が特徴です。宮中で長く活躍し、80歳を超える長寿を全うしたとされています。
修辞・表現技法
序詞:「有馬山 猪名の笹原 風吹けば」の上の句全体が、「そよ」を導き出すための序詞として機能しています。
掛詞:「そよ」が笹の葉がそよぐ擬音語の「そよ」と、「そうですよ」という呼びかけの「そよ」を掛けています。
反語:「忘れやはする」の「やは」が反語を表し、「忘れたりするでしょうか(いや、しない)」と強い否定の意味を持たせています。
歌枕:「有馬山」「猪名」という摂津国(現在の兵庫県)の歌枕を用いて、歌に風雅な趣を添えています。
鑑賞のポイント
この歌の魅力は、「そよ」という一語の掛詞を軸に、自然の風景と恋の返事を見事に結びつけた機知にあります。笹原に吹く風の音が、そのまま愛の言葉に変わるという発想は、平安和歌の洗練さを存分に味わえるものです。
母の紫式部(57番)と大弐三位(58番)が百人一首で連番になっている点も注目に値します。内省的で繊細な母の歌と、明るく自信に満ちた娘の歌を比較して読むと、親子それぞれの個性がより鮮やかに浮かび上がります。