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第45番
あはれとも いふべき人は 思ほえで
身のいたづらに なりぬべきかな
謙徳公(藤原伊尹)

現代語訳

「かわいそうに」と同情してくれるような人は思い浮かばず、このまま恋い焦がれて、わが身はむなしく朽ち果ててしまいそうだなあ。

語句の意味

あはれとも ――「ああ、かわいそうに」「気の毒に」と同情・共感する気持ちを表す。「あはれ」は深い情感を表す語。

いふべき人は ――「言ってくれるはずの人は」の意。「べき」は当然・推量の助動詞「べし」の連体形。

思ほえで ――「思ほゆ(思われる)」の未然形+打消の接続助詞「で」。「思い浮かばないで」の意。

身のいたづらに ――「身」は自分自身。「いたづらに」は「むなしく、無駄に」の意。

なりぬべきかな ――「なる」+完了の助動詞「ぬ」+推量の助動詞「べし」の連体形+詠嘆の終助詞「かな」。「なってしまいそうだなあ」と嘆く表現。

歌の解説

この歌は、報われない恋に苦しみながら、その苦しみを理解してくれる人さえいないという、二重の孤独を詠んだ一首です。恋の苦しみそのものに加えて、その苦しみに共感してくれる相手が見つからないという絶望感が、歌の深い哀感を生み出しています。

「あはれとも いふべき人」とは、自分の恋の苦しみを聞いて「それはお気の毒に」と同情してくれるような人のことです。平安時代の恋愛では、恋の悩みを友人や知人に打ち明けて慰めてもらうことも一つの慣習でした。しかし、この歌の作者にはそのような相談相手すらいないのです。あるいは、恋の相手である女性自身が「かわいそうに」と思ってくれないことを嘆いているとも解釈できます。

「身のいたづらになりぬべきかな」は、恋のために命が尽きてしまいそうだという表現です。「いたづらになる」は「死ぬ」「命を落とす」の婉曲表現で、恋の苦しみが命に関わるほど深刻であることを示しています。平安時代の恋歌では、恋に命を懸けるという表現は定番でしたが、この歌では「あはれとも いふべき人は 思ほえで」という前提があるため、単なる誇張ではなく、誰にも理解されないまま孤独に朽ちていくという切実さが伝わってきます。

この歌の構造は、上の句で「同情者がいない」という状況を述べ、下の句で「このまま朽ち果てるだろう」という結果を予告するという二段構えになっています。「思ほえで」の「で」(打消接続)が上の句と下の句をつなぐ要となっており、「〜ないので、〜してしまう」という因果関係を示しています。同情者の不在が、自滅への道を加速させるという、恋における孤立の恐ろしさを描いた一首と言えるでしょう。

作者について

謙徳公(けんとくこう、924年〜972年)は、藤原伊尹(ふじわらのこれただ / これまさ)のことで、平安時代中期の公卿です。父は右大臣・藤原師輔、母は醍醐天皇の皇女。兄弟には藤原兼通・藤原兼家がおり、摂関家の中核を担う家系でした。官位は正二位・摂政太政大臣にまで昇り、一条摂政とも呼ばれました。「謙徳公」はその諡号です。娘の懐子が冷泉天皇の女御となり、その子が花山天皇として即位するなど、政治的にも大きな影響力を持ちました。49歳で亡くなり、その死後に摂関の座は弟たちに受け継がれました。『拾遺和歌集』などに歌が残っています。

修辞・表現技法

打消接続 ――「思ほえで」の「で」は打消の接続助詞で、「〜ないので」「〜ないまま」という意味を持ちます。上の句の状況(同情者がいない)と下の句の結果(朽ち果てる)を因果的に結びつけています。

婉曲表現 ――「身のいたづらになる」は「死ぬ」の婉曲表現です。直接的な表現を避けることで、かえって静かな絶望感と哀感が際立っています。

詠嘆 ――結句の「かな」は詠嘆の終助詞で、「〜だなあ」という深い嘆息を表します。自分の運命に対する諦めとも取れる、しみじみとした感慨が込められています。

鑑賞のポイント

この歌は、政治の頂点にまで昇りつめた権力者が詠んだ恋歌であるという点も興味深い要素です。摂政太政大臣という最高位にあっても、恋の前では無力であり、孤独であるという人間の普遍的な姿が浮かび上がります。「あはれとも いふべき人」が恋の相手を指すのか、友人・知人を指すのかで解釈が分かれますが、いずれにしても「誰にも理解されない」という孤独感が歌の核心です。華やかな地位とは裏腹の内面の寂寥を感じ取ってみてください。