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第38番
忘らるる 身をば思はず 誓ひてし
人の命の 惜しくもあるかな
右近

現代語訳

あなたに忘れられてしまう我が身のことは何とも思いません。ただ、永遠の愛を神に誓ったあの人が、その誓いを破ったことで神罰を受けて命を落とすのではないかと思うと、あの人の命が惜しくてなりません。

語句の意味

「忘らるる」――「忘る」の未然形+受身の助動詞「る」の連体形で、「(相手に)忘れられる」という意味。恋人から忘れられた、つまり捨てられたことを表しています。

「身をば思はず」――「身」は自分自身のこと。「をば」は対象を強調する表現。「思はず」は「気にしない」。忘れられる自分のことなど気にしない、という強い意志を示しています。

「誓ひてし」――「誓ひて」は神仏に誓って、の意。「し」は過去の助動詞「き」の連体形で、「誓った(あの人の)」。当時、愛を誓うとき神仏に誓うのが習いでした。

「人の命の」――「人」は恋人のこと。「命の」はその恋人の命が、という意味。神仏への誓いを破ると罰が当たると信じられていました。

「惜しくもあるかな」――「惜しく」は「惜しい」「大切に思う」の意。「かな」は詠嘆の終助詞で、「惜しいことだなあ」という深い嘆きを表します。

歌の解説

この歌は、恋人に捨てられた女性が、それでもなお相手の身を案じる複雑な心情を詠んだ恋歌です。『拾遺和歌集』の恋歌に収められており、天徳4年(960年)の内裏歌合で詠まれたとされています。

歌の構造は二段に分かれます。上の句「忘らるる身をば思はず」で、まず自分が捨てられた悲しみを一旦脇に置き、「自分のことは構わない」と宣言します。そして下の句「誓ひてし人の命の惜しくもあるかな」で、神に永遠の愛を誓ったあの人が、誓いを破った罰を受けて命を失うのではないかと心配する、と詠みます。

一見すると「自分のことより相手の命を心配している」という利他的な感情を詠んだ歌に見えますが、実はそこに複雑な皮肉と深い愛情が同居しています。「私を捨てたことで神罰が下るかもしれませんよ」という警告は、相手に対する痛烈な皮肉でもあります。同時に、皮肉を言いながらも本当に相手の身を案じているという、愛憎半ばする心理も表現されているのです。

当時の恋愛において、男性が女性に愛を誓う際に神仏に誓約をすることは一般的でした。そして、その誓いを破ることは神罰を招くと真剣に信じられていました。この信仰を背景にすると、この歌の切実さがいっそう増します。恋人に捨てられた悲しみを押し殺し、むしろ相手の安全を心配するという振る舞いの中に、女性としての誇りと深い愛情が入り混じっているのです。

「思はず」と断言しながらも、実は忘れられる身の悲しみは痛いほど感じている。それを口にせず、相手の命を惜しむという形に昇華させた表現の巧みさが、この歌を名歌たらしめています。失恋の悲しみを恨みではなく心配に変えた、気高くも切ない一首です。

作者について

右近(うこん)は、平安時代中期の女流歌人で、右近衛少将・藤原季縄の娘とされています。醍醐天皇の中宮・藤原穏子に仕えた女房で、「右近」は宮中での女房名です。

恋多き女性として知られ、『大和物語』には藤原敦忠との恋愛を中心にいくつかのエピソードが伝えられています。藤原敦忠は三十六歌仙の一人で容姿端麗な貴公子でしたが、右近との関係は長くは続かなかったようです。この歌も、そうした恋愛体験を背景に詠まれたものと考えられています。

歌人としては、情熱的で率直な恋歌に優れ、女性ならではの繊細な感情表現が特徴的です。『拾遺和歌集』などの勅撰集に歌が採られています。

修辞・表現技法

逆説的表現――「忘らるる身をば思はず」と自分の悲しみを否定しつつ、実はその悲しみの深さを逆に際立たせる、逆説的な表現技法が用いられています。

対比――「身をば思はず」と「人の命の惜しくもあるかな」の対比により、自分のことより相手を案じるという構図が鮮明になっています。

皮肉(アイロニー)――神への誓いを破った罰を心配するという体裁をとりながら、実質的に相手の不実を非難するという、重層的な表現になっています。

詠嘆――「惜しくもあるかな」の「かな」が、深い感情の波を伝えています。

鑑賞のポイント

この歌を味わう際の最大のポイントは、表面上の言葉と、その裏に隠された感情の落差です。「自分のことは気にしない」と言いながら、本当は深く傷ついている。「あなたの命が心配だ」と言いながら、本当は「誓いを破ったあなたが憎い」という気持ちも混じっている。この複雑な心の動きが、わずか三十一文字に凝縮されています。

恋に破れた女性の強さと弱さ、誇りと切なさが同居するこの歌は、時代を超えて多くの人の心に響きます。「自分は平気」と虚勢を張りながらも相手への思いを断ち切れない、そんな人間の普遍的な心情が描かれた一首です。