現代語訳
語句の意味
「このたびは」 ── 「この度は」と「この旅は」の掛詞。今回の旅、この機会には、の意味を兼ねています。
「ぬさもとりあへず」 ── 「幣(ぬさ)も用意することができず」。「幣」は旅の安全を祈って神に捧げる布や紙のこと。「とりあへず」は「準備できない」の意です。
「手向山」 ── 奈良にある手向山のこと。「手向(たむけ)」には神に供え物をするという意味もあり、地名と行為が掛けられています。
「紅葉の錦」 ── 紅葉が美しく色づいた様子を、豪華な織物「錦」にたとえた表現です。
「神のまにまに」 ── 「神様の御心のままに」。「まにまに」は「~のままに」「~に従って」の意味です。
歌の解説
この歌は、宇多上皇の奈良・吉野への行幸に随行した菅原道真が、手向山八幡宮に参拝した際に詠んだ歌です。急な旅であったため、旅の安全を祈る幣を用意できなかったが、この美しい紅葉の錦をそのまま神様へのお供え物としてお受け取りください、と詠んでいます。出典は『古今和歌集』羈旅歌です。
この歌の魅力は、機知に富んだ構成にあります。まず「幣を用意できなかった」という不足・欠落を提示しておきながら、それを補って余りある「紅葉の錦」という自然の美しさを差し出す。人間が用意した幣よりも、自然が織り成した紅葉の錦のほうがよほど美しく、神様への供え物としてふさわしいではないか――という逆転の発想が鮮やかです。
「手向山」という地名も巧みに効いています。「手向け」はもともと神に物を供える行為を意味し、手向山は神への供え物をする場所そのものです。紅葉で美しく彩られた手向山は、まさに自然が用意した最高の供え物だったのです。この地名と歌の内容の一致は、偶然ではなく、道真の知性が生み出した必然の歌境と言えます。
菅原道真は学問の神として知られますが、この歌には学者らしい知的な構成力と、自然を愛でる豊かな感受性が共存しています。紅葉を「錦」にたとえる表現は当時の歌の常套でしたが、それを神への供え物に転化させた着想は、道真ならではのものです。この歌からは、後に太宰府に流される前の、輝かしい時代の道真の姿が偲ばれます。宇多天皇に重用された道真が、自信に満ち、教養と機知を備えた歌人としても高い実力を持っていたことを示す一首です。
作者について
菅家(かんけ)は菅原道真(すがわらのみちざね、845~903年)のこと。平安時代前期の学者・政治家・歌人で、「学問の神様」として現在も広く信仰されています。宇多天皇・醍醐天皇に重用され、右大臣にまで昇進しましたが、左大臣・藤原時平の讒言により、901年に太宰府に左遷されました。
道真は漢詩・和歌ともに優れた才能を発揮し、『菅家文草』『菅家後集』などの作品集を残しています。死後、京都に不吉な出来事が相次いだことから怨霊として恐れられ、やがて天満大自在天神として祀られました。現在、全国の天満宮・天神社の御祭神として、学問の神様として多くの受験生に親しまれています。
修辞・表現技法
掛詞 ── 「このたび」に「この度(今回)」と「この旅」の意味が掛けられています。
縁語 ── 「ぬさ」「手向」「神」「まにまに」は神事に関する縁語で、歌全体に神聖な雰囲気を与えています。
見立て ── 紅葉を「錦」という豪華な織物に見立てる比喩表現です。自然の美を人工の最高級品になぞらえています。
体言止め ── 「神のまにまに」で歌を結んでおり、余韻を残す効果があります。神への祈りの言葉としての荘厳さも加わっています。
鑑賞のポイント
この歌は、「不足」を「豊かさ」に転じる発想の鮮やかさが最大の見どころです。幣を持っていないという出発点から、紅葉の錦という自然の最高の贈り物へと導くその構成力は見事です。また、学問の神として知られる菅原道真が、政治の表舞台で活躍していた華やかな時代に詠まれた歌であることを思うと、歴史的な感慨も深まります。手向山の紅葉が美しい秋に、この歌を思い出してみてはいかがでしょうか。