780年は、中国の財政史において最も重要な転換点の一つです。唐の徳宗の治世に宰相に就任した楊炎は、すでに形骸化していた租庸調制を正式に廃止し、夏と秋の年二回、現住地において資産額に応じて課税する「両税法」を実施しました。
唐の建国以来、税制の基盤であった租庸調制は、均田制(国家が農民に土地を一律に支給する制度)を前提としていました。しかし、8世紀に入ると土地の私的集積が進み、均田制は事実上崩壊しました。安史の乱(755〜763年)がこの崩壊を決定的にし、戦乱で農民が流亡して戸籍が乱れ、もはや旧来の人頭税的な課税方式では国家財政を維持できなくなっていました。
両税法は、このような現実に対応した画期的な改革でした。人に課税するのではなく、資産に課税する。本籍地ではなく現住地で課税する。穀物や労役ではなく銭で納税する。これらの原則は、それまでの中国の税制の根本的な発想転換であり、以後1000年にわたって中国税制の基本原則となっていきます。
このページでは、均田制と租庸調制の崩壊過程、楊炎による両税法の導入経緯、その具体的内容、そして中国財政史における歴史的意義を詳しく解説します。
Background
旧制度の崩壊 ── 均田制と租庸調制の限界
均田制は北魏の孝文帝が485年に創始し、隋・唐に継承された土地制度です。国家が農民に一定の土地(唐では口分田80畝=約4.4ヘクタール、永業田20畝)を支給し、その見返りとして租(穀物)・庸(労役または代納布)・調(布帛)の三税を課すのが租庸調制でした。この制度は国家が全土地を管理し、農民を戸籍で把握していることが前提でした。
しかし、唐の中期になると制度は深刻な矛盾を抱えるようになりました。人口増加に対して配分できる土地が不足し、貴族や寺院による土地集積が進み、多くの農民が土地を失って流民化しました。723年には宇文融が逃亡農民の括戸(再登録)を行い一時的な成果を上げましたが、根本的解決にはなりませんでした。
安史の乱は、この崩壊過程を一挙に加速させました。華北の農村は荒廃し、戸籍制度は壊滅的な打撃を受けました。乱後の唐は、租庸調制の建前を維持しながらも、実際には各種の臨時課税や塩の専売(塩鉄法)で財政を糊塗していました。このような混乱した税制を整理・統合して新たな体系を打ち立てたのが楊炎の両税法です。
制度比較
租庸調制と両税法の根本的違い
租庸調制は「人」を課税対象とし、全農民に一律の税額を課す人頭税的な制度でした。これに対し両税法は「資産」を課税対象とし、保有する土地・財産の多寡に応じて税額を定める財産税的な制度です。また、租庸調制が本籍地での課税を原則としたのに対し、両税法は現住地での課税に切り替えました。この転換は、土地に縛り付けられた農民を前提とする古い体制から、人口の流動化が進んだ新しい社会に対応する税制への脱皮を意味していました。
租庸調制両税法人頭税資産課税現住地主義
Yang Yan
楊炎と改革 ── 大転換を主導した宰相
楊炎(727〜781年)は鳳翔(現在の陝西省宝鶏市)の人で、文章に優れた官僚でした。代宗期に元載のもとで才能を発揮しましたが、元載の失脚に連座して一時左遷されました。780年、徳宗が即位すると宰相に抜擢され、財政改革の断行を委ねられました。
楊炎が両税法を提案した背景には、当時の唐の財政が極めて深刻な状態にあったことがあります。安史の乱以降、中央政府の税収は激減し、一方で各地の藩鎮が独自に徴税して中央に納めない状況が続いていました。加えて、第五琦や劉晏が導入した塩の専売などの間接税が財政の主力となっており、税制は極度に複雑化していました。
楊炎は徳宗に上奏し、これらの雑多な税をすべて統合して夏秋二回の徴税に一本化することを提案しました。徳宗はこれを採用し、780年に両税法が全国的に施行されました。しかし楊炎自身は政敵・盧杞との権力闘争に敗れ、781年に処刑されるという悲劇的な最期を遂げています。改革者としての功績にもかかわらず、政争の中で命を落としたのです。
人の多少によらず、資産の高下に応じて税を課す。これにより逃亡する者なく、貧富の差に即した公平な課税が実現する。
── 楊炎の上奏の趣旨より
The New System
両税法の内容 ── 新税制のしくみ
両税法の基本原則は明快でした。第一に、すべての住民を現住地の戸籍に登録し、資産額に応じて等級を定めて課税する。第二に、徴税は夏(6月まで)と秋(11月まで)の年二回に行う(「両税」の名はここに由来します)。第三に、従来の租庸調や各種の雑税をすべて両税に統合する。
課税の基準は資産(主に土地の保有面積)であり、富裕な者は多く、貧しい者は少なく納めるという原則が明確に打ち出されました。また、それまで免税特権を持っていた官人や僧侶・道士にも課税されることになり、課税基盤が大幅に広がりました。
納税は原則として銭で行うとされましたが、実際には穀物や布帛での納入も広く認められました。銭納の原則は貨幣経済の浸透を促す効果がありましたが、同時に銭の不足(銭荒)を引き起こし、穀物価格の下落(穀賤銭貴)という問題を生む原因ともなりました。
制度の特徴
両税法の四つの革新
両税法には四つの根本的な革新がありました。(1) 人頭税から資産税への転換:個人ではなく財産に課税する。(2) 本籍地主義から現住地主義へ:流動化した人口の実態に即した課税。(3) 税の統合:雑多な税目を二回の徴税に一本化し、行政の簡素化を実現。(4) 身分を超えた課税:貴族・僧侶の免税特権を否定し、すべての住民を等しく課税対象とした。これらの原則は近代的税制にも通じるものであり、両税法が中国財政史上の画期とされる所以です。
資産課税現住地主義税の統合普遍課税銭納
Impact
影響と問題点 ── 改革の光と影
両税法の導入は短期的には大きな成果を収めました。税収は増加し、財政は一時的に安定しました。また、税制の簡素化によって徴税コストが削減され、行政効率が向上しました。さらに、資産に応じた課税は租庸調制に比べて公平性が高く、農民の逃亡を減少させる効果がありました。
しかし、時間が経つにつれて深刻な問題も表面化しました。最大の問題は、両税法の上にさらに新たな付加税が次々と課されたことです。楊炎は雑税を両税に統合したはずでしたが、朝廷の財政難から新たな臨時課税が復活し、農民の負担は改革前よりも重くなってしまいました。
また、銭納の原則が銭荒(銭不足)を引き起こし、農民は穀物を安値で売って銭を調達せざるを得なくなる「穀賤銭貴」の問題が生じました。さらに、資産の再評価が十分に行われなかったため、時代が下ると当初の税額が固定化され、土地を売却して資産が減っても税額が変わらないという不合理が生まれました。
Significance
歴史的意義 ── 中国財政史の分水嶺
両税法は中国財政史を二分する画期的改革でした。両税法以前の中国の税制は、均田制に象徴されるように、国家が土地と人民を直接管理し、一律に課税する「国家統制型」でした。両税法以後は、流動的な社会の現実を認め、資産に応じて課税する「市場適応型」へと転換しました。
この転換は不可逆的なものでした。唐の後継王朝である宋は両税法を基本的に継承し、明の「一条鞭法」(16世紀)、清の「地丁銀制」(18世紀)も、両税法の延長線上にある改革です。両税法が確立した「資産に基づく課税」「現住地での課税」「税の簡素化と統合」という三原則は、形を変えながらも以後の中国税制の基盤であり続けました。
両税法はまた、均田制の理念の放棄を意味していました。国家が全農民に平等に土地を配分するという理想は、現実の前に退却し、土地の私的所有と貧富の格差を事実として追認する方向に舵を切ったのです。この転換は、唐宋変革と呼ばれる中国社会の大きな構造変動の一環として位置づけることができます。