AD 668

高句麗の滅亡
700年の大国の終焉

668年、唐と新羅の連合軍が高句麗の首都・平壌を陥落させた。隋の煬帝が3度の大遠征でも倒せなかった東アジア屈指の強国が、建国以来約700年の歴史に幕を閉じた。

高句麗は紀元前37年に朱蒙(東明王)が建国したとされる王国で、現在の中国東北部から朝鮮半島北部にかけての広大な領域を支配していました。その700年近い歴史を通じて、高句麗は中国の歴代王朝にとって最も手強い相手であり続けました。特に隋の煬帝が行った3度の高句麗遠征(612年・613年・614年)はすべて失敗に終わり、この遠征の失敗が隋の滅亡を決定的にしたことは広く知られています。

唐は隋の失敗を教訓としつつも、高句麗征服を国家的悲願として引き継ぎました。太宗は自ら遠征軍を率いて高句麗に侵攻しましたが(644-645年)、安市城の戦いで高句麗軍の頑強な抵抗に阻まれて撤退を余儀なくされました。その後も唐は断続的に高句麗への攻撃を続け、高宗の時代にはその攻略に新羅との同盟を本格的に活用する戦略へと転換しました。

高句麗の最終的な滅亡の要因は、外からの軍事的圧力だけではありませんでした。666年に権臣・淵蓋蘇文が死去すると、その息子たちの間で権力争いが勃発し、国を二分する内乱へと発展したのです。唐はこの好機を逃さず、667年に李勣(り・せき)率いる大軍を発進させ、翌668年に平壌を陥落させて高句麗を滅ぼしました。

このページでは、高句麗の軍事的強さと隋の遠征失敗、唐の新戦略、そして最終的な滅亡に至る経緯と歴史的意義を詳しく解説します。

高句麗の強さ ── 東アジア屈指の軍事国家

高句麗は、山城を核とする独特の防衛体系と、騎馬と歩兵を組み合わせた精強な軍事力で知られていました。その領域は南北約2000里(約800km)に及び、遼東から朝鮮半島北部にかけての山岳地帯を利用した堅固な防衛線を築いていました。高句麗の山城群は、平地での決戦を避けて敵軍の兵站線を攻撃するという戦略の要であり、中国の大軍を何度も退けてきたのです。

高句麗の軍事力を支えていたのは、貴族階級が率いる職業的な武士集団と、農民から徴発される大規模な歩兵部隊でした。高句麗の重装騎兵は鉄製の甲冑で全身を覆い、馬にも装甲を施した強力な突撃力を持っており、中国の歴史書にもその精強さが記録されています。また高句麗は独自の文化を発展させ、壁画古墳には当時の貴族生活や軍事活動が生き生きと描かれています。

外交面でも高句麗は巧みでした。中国王朝との対立が激化すると、突厥(テュルク)との同盟を模索し、また百済と手を結んで新羅を圧迫するなど、周辺勢力との連携によって中国の脅威に対抗していました。しかしこの戦略は、最終的に新羅を唐との同盟に走らせ、自らの滅亡を早める結果をも招いたのです。

軍事遺産

山城防衛体系 ── 大陸軍を阻んだ要塞群

高句麗は遼東から平壌に至るルート上に多数の山城を配置し、重層的な防衛体系を構築していました。各山城は数千から数万の兵を収容し、食料・武器を備蓄した自立的な要塞でした。敵の大軍が侵入すると、山城群が補給線を遮断し、後方を脅かす「清野の計」を展開しました。この防衛戦略は隋の100万を超える大軍をも撃退する威力を発揮し、東アジア軍事史上の傑作と評価されています。

山城安市城遼東城清野の計高句麗軍

隋の3度の遠征 ── 帝国を滅ぼした執念

隋の煬帝は高句麗征服に異常な執念を燃やし、612年に第一次遠征を開始しました。動員された兵力は「113万3800人」と記録されており、これに従軍する輜重兵を加えると200万人を超える史上空前の大軍でした。しかし遼東城の攻略に手間取り、平壌を目指した別働隊30万は高句麗の将軍・乙支文徳の計略にかかって壊滅しました。帰還できたのはわずか2700人であったと伝えられています。

煬帝は613年に第二次遠征を開始しましたが、後方で楊玄感の大反乱が勃発したため撤退を余儀なくされました。614年の第三次遠征では高句麗が形式的な降伏を申し入れて煬帝の面目を保ちましたが、実質的な成果は何もありませんでした。三度の遠征の失敗は国力を疲弊させ、各地で反乱が噴出し、最終的に隋は618年に滅亡しました。高句麗遠征の失敗が隋を滅ぼしたといっても過言ではありません。

唐の建国者・李淵と二代皇帝の太宗は、この隋の失敗を熟知していました。太宗は644年に自ら高句麗遠征を敢行しましたが、遼東の諸城を攻略した後、安市城(現在の遼寧省海城市付近)で高句麗軍の激しい抵抗に遭い、60日以上の包囲戦の末に冬の到来とともに撤退を決断しました。太宗はこの失敗を生涯の痛恨事とし、再遠征を計画しながら649年に崩御しました。

もし魏徴が生きていたなら、朕にこの遠征を思いとどまらせたであろう。 ── 太宗が高句麗遠征失敗後に漏らした言葉の趣旨

唐の新戦略 ── 新羅との挟撃と内部崩壊

唐の高宗は、太宗の正面攻撃による失敗を教訓として、高句麗を南北から挟撃する新戦略を採用しました。まず新羅と緊密に連携して660年に百済を滅ぼし、高句麗の南方の同盟国を排除しました。さらに663年の白村江の戦いで倭国勢力を朝鮮半島から駆逐し、高句麗を完全に孤立させることに成功したのです。

この戦略が決定的な効果を発揮したのは、高句麗内部で大きな政変が起きた時でした。666年、約20年にわたって高句麗の実権を握っていた大莫離支(摂政)の淵蓋蘇文が死去しました。淵蓋蘇文は642年にクーデターで権力を掌握した強権的な指導者でしたが、その統率力のもとで高句麗は唐の侵攻を何度も退けてきました。彼の死後、長男の淵男生が大莫離支を継ぎましたが、弟の淵男建・淵男産との間で激しい権力争いが勃発しました。

追い詰められた淵男生は666年末に唐に投降するという決断を下しました。高句麗の最高権力者の一人が敵国に降り、内部の軍事情報を提供したことは、高句麗にとって致命的でした。唐はこの好機を逃さず、667年に老将・李勣を総司令官とする大遠征軍を編成し、新羅軍と合流して南北からの総攻撃を開始しました。

高句麗の内紛

淵蓋蘇文の死と兄弟の対立

淵蓋蘇文は642年のクーデターで宰相を含む100人以上を殺害して権力を掌握した強権的な独裁者でしたが、同時に卓越した軍事指導者でもありました。唐の太宗による遠征を退けた安市城の戦いも、彼の指揮体制のもとで実現した勝利でした。その死後、長男の淵男生は地方視察中に弟たちに首都から締め出され、追い詰められて唐に投降しました。内部結束こそが高句麗の最大の防衛力であったことを、この内紛は痛烈に証明しています。

淵蓋蘇文淵男生淵男建内紛投降

平壌陥落 ── 最後の抵抗と降伏

667年秋、李勣率いる唐軍は遼東を突破し、次々と高句麗の城を陥落させながら平壌へと進撃しました。淵男生が提供した情報に基づき、唐軍は高句麗の防衛線の弱点を的確に突くことができました。一方、南方からは新羅軍が北上し、高句麗は二正面作戦を強いられました。

668年9月、唐軍と新羅軍は平壌城を完全に包囲しました。約一か月の包囲戦の末、城内では食糧が尽き、士気は極度に低下しました。高句麗最後の王・宝蔵王は降伏を主張しましたが、実権を握る淵男建は最後まで抗戦を主張しました。しかし高句麗の僧・信誠が密かに城門を開いたことで唐軍が突入し、平壌城は遂に陥落しました。宝蔵王は捕虜となって長安に送られ、高句麗は建国以来約700年の歴史に幕を閉じたのです。

唐は高句麗の旧領に安東都護府を設置し、平壌にその治所を置いて統治を開始しました。高句麗の住民約20万戸が中国内地に強制移住させられ、王族・貴族は長安に連行されました。宝蔵王は唐の高宗によって司平太常伯の官職を授けられ、名目上は優遇されましたが、実質的に政治的自由を奪われた存在でした。一方で高句麗の遺民の一部は新羅に合流し、また一部は北方で渤海国を建国する母体となっていきます。

歴史的意義 ── 東アジアの再編

高句麗の滅亡は、東アジアの地政学的構造を根底から変えた大事件でした。朝鮮半島では百済に続いて高句麗が滅亡したことで、新羅が半島唯一の王国となりました。しかし唐が高句麗の旧領を直接支配しようとしたため、今度は唐と新羅の対立が激化し、676年の新羅による唐の安東都護府の駆逐へとつながりました。結果的に朝鮮半島は新羅によって統一され、以後の朝鮮の歴史が始まることになります。

中国にとって高句麗の滅亡は、隋の煬帝以来の宿願の達成でした。しかしその果実を完全に手にすることはできませんでした。安東都護府は新羅の圧力と高句麗遺民の反乱に悩まされ、治所は平壌から遼東へ、さらに遼西へと後退を重ね、結局は朝鮮半島での支配権を失いました。唐は半島支配という戦略目標を達成できなかったのです。

高句麗の遺産は消滅しませんでした。698年、高句麗の遺民を中心として大祚栄が渤海国を建国し、高句麗の文化と伝統を引き継ぎました。渤海は「海東の盛国」と称されるほどに繁栄し、926年に契丹(遼)に滅ぼされるまで約230年間存続しました。また高麗の建国者・王建も高句麗の後継を自任し、国号に「高麗」を選んだことは、高句麗が朝鮮半島の歴史に深い足跡を残したことの証左です。

高句麗の滅亡 関連年表

年代出来事備考
612年隋の煬帝、第一次高句麗遠征113万の大軍を動員するも大敗
613年第二次遠征、楊玄感の乱で撤退後方の反乱により中止
614年第三次遠征、形式的降伏で終了実質的成果なし
642年淵蓋蘇文のクーデター大莫離支として実権掌握
645年唐の太宗が高句麗に親征安市城で撤退を余儀なくされる
660年唐・新羅連合軍が百済を滅ぼす高句麗の南方同盟国を排除
666年淵蓋蘇文の死去、息子たちの内紛淵男生が唐に投降
667年李勣率いる唐軍が遼東を突破高句麗の防衛線を次々に突破
668年9月平壌城陥落、高句麗滅亡宝蔵王が捕虜として長安へ
668年安東都護府の設置唐による直接統治の開始