AD 657

西突厥の滅亡
唐の版図最大

657年、唐の名将・蘇定方が西突厥の阿史那賀魯を捕え、西突厥は滅亡した。唐の版図は東は朝鮮半島から西は中央アジアのアム河流域にまで及び、史上最大の中華帝国が出現した。

657年は、唐帝国がその版図の最大規模に達した画期的な年です。唐の名将・蘇定方が率いる軍が中央アジアの天山山脈を越えて西突厥の最後の可汗・阿史那賀魯(あしなかろ)を捕らえ、西突厥は完全に滅亡しました。これにより、唐の勢力圏は東の朝鮮半島から西はカスピ海の東岸に至る広大な領域に及び、中華帝国の版図は空前の規模に達したのです。

西突厥は6世紀半ばに突厥帝国が東西に分裂して以来、中央アジアを支配してきた遊牧国家でした。天山山脈の北麓からアム河流域にかけての広大な草原と、タリム盆地周辺のオアシス都市群を勢力下に置き、シルクロード交易を掌握する富裕な国家でした。しかし、7世紀に入ると内部抗争が激化し、国力は次第に衰退していきました。

唐は太宗の時代から西域への進出を図っており、640年に高昌国を滅ぼして安西都護府を設置し、西域支配の橋頭堡としていました。高宗の治世に入ると、西突厥内部の対立を利用して積極的な軍事介入を行い、657年の蘇定方の遠征で西突厥を最終的に滅ぼしたのです。西突厥の滅亡は、中央アジアにおける突厥系遊牧民の覇権の終焉と、唐によるシルクロード支配の確立を意味する歴史的転換点でした。

このページでは、西突厥の歴史と衰退の過程、蘇定方の遠征の経緯、唐の中央アジア支配の実態、そしてこの版図拡大が持つ歴史的意義について詳しく解説します。

西突厥の盛衰 ── 草原の覇者

突厥帝国は552年に柔然を滅ぼして北方草原の覇者となりましたが、583年に東突厥と西突厥に分裂しました。西突厥は天山山脈を中心に、東はアルタイ山脈から西はカスピ海東岸にまで及ぶ広大な領域を支配し、中央アジアの覇者として君臨しました。

西突厥の経済力の源泉は、シルクロード交易の支配にありました。タリム盆地周辺のオアシス都市群(カシュガル・ホータン・クチャなど)は絹・香辛料・宝石・金属器などの東西交易の中継地として繁栄しており、西突厥はこれらの都市から莫大な交易税を徴収していました。また、ソグド人商人との密接な関係を通じて、西突厥は国際商業ネットワークの要となっていたのです。

しかし、7世紀に入ると西突厥は深刻な内部抗争に陥りました。可汗位をめぐる弩失畢(ぬしひつ)五部と咄陸(とつりく)五部の対立が激化し、統一的な指導力が失われていきました。630年に唐が東突厥を滅ぼすと、唐の威勢は西域にも及び、西突厥の属国であったオアシス諸国は次々と唐に朝貢するようになりました。640年に唐が高昌国を滅ぼして安西都護府を設置したことは、西突厥の勢力圏に対する直接的な挑戦でした。

遊牧帝国

突厥帝国の分裂と東西の運命

突厥帝国の東西分裂は、北方遊牧国家に共通する構造的問題 ── 後継者争いと遠心力 ── の典型例でした。東突厥は630年に唐の太宗によって滅ぼされ、その残余勢力は682年に一時復興(後突厥)したものの、744年にウイグルに滅ぼされました。西突厥は東突厥よりも長く存続しましたが、内部抗争が致命的な弱点となり、657年に唐に滅ぼされました。突厥の遺産はウイグル・キルギス・オスマンなど後世のテュルク系諸民族に受け継がれ、ユーラシア大陸の歴史に深い痕跡を残しています。

突厥遊牧帝国東西分裂ウイグルテュルク系民族

蘇定方の遠征 ── 天山を越えて

蘇定方(592-667年)は、唐代屈指の名将として知られる人物です。若くして隋末の群雄に仕え、唐建国後は太宗の高句麗遠征にも参加し、その軍事的才能を認められていました。高宗の治世に入ると、蘇定方は唐の対外拡張の最前線に立ち、西突厥・百済・高句麗との戦いで次々と功績を挙げました。

655年、西突厥の阿史那賀魯(沙鉢羅可汗)が唐に反旗を翻し、西域のオアシス諸国を攻撃しました。阿史那賀魯はもともと唐に帰順していた西突厥の一族でしたが、唐から与えられた瑤池都督の地位を足がかりに勢力を拡大し、自ら可汗を称して西突厥の復興を試みたのです。高宗は蘇定方を伊麗道行軍大総管に任命し、西突厥討伐の大軍を発しました。

657年、蘇定方は精鋭の騎兵を率いて天山山脈を越え、イリ河流域で阿史那賀魯の主力軍と会戦しました。蘇定方は巧みな戦術で西突厥軍を撃破し、阿史那賀魯は西方に逃走しました。蘇定方は追撃を緩めることなく、大雪の中を西進してアム河方面にまで至り、ついに石国(タシケント付近)で阿史那賀魯を捕らえました。西突厥はここに完全に滅亡し、その領域は唐の支配下に入ったのです。

蘇定方は一たび軍を起こして万里を馳せ、三箭にして天山を定む。壮哉。 ── 蘇定方の戦功を讃える言葉の趣旨より

唐の版図拡大 ── 史上最大の中華帝国

西突厥の滅亡により、唐の版図は中華帝国の歴史上最大規模に達しました。東は朝鮮半島の平壌(安東都護府)から、北はバイカル湖方面(安北都護府)、西はアム河流域・カスピ海東岸(安西都護府・北庭都護府)、南は南詔(雲南)・安南(ベトナム北部)にまで及ぶ広大な領域です。

唐はこの広大な領域を「都護府」と「羈縻州」の制度によって統治しました。都護府は辺境地域を管轄する軍事・行政機関であり、安西・安北・安東・安南・単于・北庭の六大都護府が設置されました。羈縻州は征服した異民族の居住地域に設置された自治的な行政単位で、現地の首長を都督や刺史に任命し、唐の宗主権を認めさせつつ内部の自治を許す間接統治の方式です。

西突厥の旧領には昆陵都護府と濛池都護府が新設され、西突厥の諸部族はそれぞれ羈縻州として組織されました。安西都護府は亀茲(クチャ)に移され、亀茲・于闘(ホータン)・疏勒(カシュガル)・焉耆の「安西四鎮」が中央アジア支配の拠点として機能しました。この軍事・行政ネットワークにより、唐はシルクロードの全路線を事実上支配下に置いたのです。

統治システム

安西四鎮 ── シルクロードの軍事拠点

安西四鎮(亀茲・于闘・疏勒・焉耆)は、唐の中央アジア支配を支える軍事拠点でした。各鎮には唐軍の守備隊が駐屯し、シルクロードの交易路の安全を確保するとともに、周辺の遊牧民の動向を監視しました。これらの拠点は単なる軍事基地ではなく、唐の文化と制度を中央アジアに浸透させる文化的前哨でもありました。唐の貨幣・暦法・法制度がオアシス諸国に導入され、中華文明と西域文明の融合が進みました。安西四鎮は8世紀半ばの安史の乱により唐が中央アジアから後退するまで、約100年にわたって機能し続けました。

安西四鎮亀茲于闘疏勒都護府

シルクロードの支配 ── 東西交易の黄金時代

西突厥の滅亡と唐の中央アジア支配の確立は、シルクロード交易に空前の活況をもたらしました。唐の軍事力による治安の確保と、統一的な行政制度の導入により、長安からペルシアに至る交易路の安全が飛躍的に向上したのです。

この時代のシルクロード交易を支えていたのは、中央アジアの商業民族・ソグド人でした。ソグド人はサマルカンド・ブハラなどのオアシス都市を拠点に、東はの中国から西はビザンツ帝国に至る広大な商業ネットワークを構築していました。唐の中央アジア支配はソグド人にとっても好都合であり、多くのソグド人商人が長安をはじめとする中国の都市に居住し、東西交易に従事しました。

長安は人口100万を超える世界最大の都市として、シルクロード交易の東端のターミナルでした。西市(にしいち)にはペルシア・アラブ・ソグド・インドなど各地の商人が集まり、絹・陶磁器・茶が西方に送り出される一方、西方からは宝石・香料・ガラス器・音楽・舞踊が流入しました。この国際交流は唐の文化を豊かに彩り、唐代文化の世界主義的な性格を形成する原動力となりました。

宗教の伝播もシルクロードを通じて活発に行われました。仏教はもとより、ゾロアスター教(祆教)、マニ教(摩尼教)、景教(ネストリウス派キリスト教)が中国に伝来し、長安には各宗教の寺院が建立されました。唐は宗教的にも極めて寛容な帝国であり、この多元的な宗教環境はシルクロード交易が生み出した文化的産物でした。

歴史的意義 ── 帝国の頂点と限界

657年の西突厥滅亡は、唐帝国の版図拡大の頂点を象徴する出来事でした。この時期の唐は、東アジアから中央アジアにまたがる超大国として、ユーラシア大陸の東半分の秩序を主導していました。漢の武帝の時代と比較しても、唐の中央アジア支配はより直接的で組織的なものであり、都護府・羈縻州制度による統治は前例のない規模と精緻さを持っていました。

しかし、この広大な版図の維持には莫大なコストがかかりました。遠隔地の軍事基地への兵站の確保、多様な民族・文化を持つ地域の統治、そして周辺諸勢力(吐蕃・アラブ帝国)との恒常的な緊張関係は、唐の国力に重い負担を課しました。

751年のタラス河畔の戦いでアッバース朝アラブ軍に敗北し、さらに755年の安史の乱により唐の国力が決定的に衰退すると、中央アジアの支配は急速に崩壊しました。安西四鎮は孤立し、やがて吐蕃の侵攻によって失われました。唐の中央アジア支配は約100年で終焉を迎えましたが、この時期に形成された東西文明の交流は、ユーラシア大陸の歴史に消えることのない痕跡を残したのです。

657年の版図最大は、帝国の栄光であると同時に、過度の膨張がもたらす脆弱性をも内包していました。版図の維持に必要な軍事力を賄うために、唐は辺境に節度使を設置して軍事権を委譲せざるを得なくなり、この節度使の権限強大化が安史の乱の直接的原因となったのです。唐の中央アジア支配の歴史は、帝国の栄光と限界を同時に示す壮大な歴史的教訓であるといえるでしょう。

西突厥の滅亡 関連年表

年代出来事備考
583年突厥帝国が東西に分裂西突厥は中央アジアを支配
630年唐が東突厥を滅ぼす太宗が「天可汗」の称号を得る
640年唐が高昌国を滅ぼす安西都護府を設置
648年唐が亀茲を征服安西都護府を亀茲に移す
649年太宗崩御、高宗即位対外拡張路線を継承
651年ササン朝ペルシア滅亡アラブ帝国が中央アジアに迫る
655年阿史那賀魯が唐に叛く西突厥の復興を図る
657年蘇定方が西突厥を滅ぼす唐の版図が最大に達する
659年昆陵・濛池都護府の設置西突厥旧領を統治
751年タラス河畔の戦い唐の中央アジア支配の衰退が始まる