1234年は、東アジアの国際秩序が決定的に転換した年です。女真族が建てた金王朝が、南宋とモンゴルの連合軍によって滅ぼされました。1115年の建国から119年、かつて華北を支配した大国は、その最後の皇帝・哀宗が蔡州の城内で自殺するという悲劇的な最期を遂げました。
金の滅亡は、チンギス・ハーンの遺言の実現でもありました。チンギスは臨終に際し、金を滅ぼすために南宋と同盟して挟撃する戦略を後継者たちに託していました。オゴデイ・ハーンはこの戦略を忠実に実行し、南宋に共同作戦を提案して金を包囲殲滅したのです。
しかし金の滅亡は、南宋にとって決して喜ばしいことではありませんでした。北宋が遼を滅ぼすために金と同盟し、やがてその金に滅ぼされた「海上の盟」(1120年)の悲劇が、今度は宋とモンゴルの間で繰り返されようとしていたのです。共通の敵を失った宋蒙は直ちに対立し、南宋は滅亡に至る長い戦いの時代に突入します。
金の末路 ── 追い詰められた王朝
1211年のモンゴル侵攻以来、金は急速に衰退していきました。1215年に首都・中都を失い、開封に遷都した金は、もはや黄河以北の領土の大半を喪失していました。かつて華北全域を支配した大国は、河南省を中心とする狭い領域に縮小していたのです。
金の最後の名君として知られる哀宗(完顔守緒、在位1224-1234年)は、モンゴルとの戦いに全力を尽くしました。しかし領土の縮小による税収の減少、軍事力の低下、そして南宋との二正面作戦を強いられる苦境の中で、金の国力は急速に消耗していきました。
追い詰められた金は、南宋との同盟を模索しましたが、かつて北宋を滅ぼした金に対する南宋の不信感は深く、交渉は実を結びませんでした。むしろ南宋は、金への朝貢を停止して敵対姿勢を明確にし、モンゴルとの提携に傾いていきます。歴史は皮肉にも、120年前の「海上の盟」と同じ構図を再現しようとしていました。
「海上の盟」の再来 ── 繰り返される過ち
1120年、北宋は遼を滅ぼすために金と「海上の盟」を結びました。遼は滅亡しましたが、金は約束を反故にして北宋を攻め、1127年に靖康の変で北宋を滅ぼしました。今度は南宋がモンゴルと組んで金を滅ぼそうとしていたのです。当時の南宋の一部の官僚は「唇が滅べば歯が寒し(唇亡歯寒)」の故事を引いて、金との和平を主張しました。金という緩衝国が滅びれば、次はモンゴルが南宋に襲いかかると予見していたのです。しかしこの慎重論は退けられ、宋はモンゴルとの同盟に踏み切りました。
宋蒙連合 ── 金への最後の包囲
1230年代に入ると、オゴデイ・ハーンは金の完全征服に着手しました。1231年、オゴデイは三路からの同時侵攻を計画します。オゴデイ自身が中路を、弟のトルイが西路(陝西経由)を、別の軍団が東路(山東経由)を担当する壮大な作戦でした。
特にトルイの西路軍は、金の意表を突く大胆な作戦を実行しました。南宋の領域を無断で通過するという強引な手段で金の背後に回り込み、1232年に三峰山の戦いで金の最後の精鋭軍を壊滅させたのです。この戦いで金の軍事力は事実上消滅し、首都・開封も陥落は時間の問題となりました。
1233年、開封が危機に瀕する中、金の哀宗は開封を脱出して帰徳(現在の河南省商丘)に移り、さらに蔡州(現在の河南省汝南)に逃れました。この年、モンゴルは南宋に正式に共同作戦を提案し、宋蒙連合が成立します。南宋は2万の軍と食糧30万石を派遣し、モンゴル軍と合流して蔡州を包囲しました。
蔡州の陥落 ── 金の最後の日
1234年正月、蔡州はモンゴル軍と南宋軍に完全に包囲されていました。城内の食糧は底を尽き、金の兵士たちは飢餓に苦しみながらも必死の抵抗を続けました。しかし外部からの援軍の望みは完全に絶たれており、金の滅亡は目前でした。
1234年2月9日(旧暦正月10日)、最後の日が訪れました。金の哀宗は自ら戦う力がないことを悟り、帝位を族臣の完顔承麟に譲った後、城内で縊死しました。完顔承麟は最後の皇帝として即位しましたが、わずか半日で連合軍の総攻撃が始まり、蔡州は陥落しました。完顔承麟も戦死し、金王朝は完全に滅亡したのです。
金の最後の戦いは壮絶でした。哀宗は降伏を拒み、亡国の恥辱を受けることを選ばず自ら命を絶ちました。その姿は、かつて金が北宋の皇帝に加えた屈辱(靖康の変)を思い起こさせるものでもありました。征服者であった金が、今度は征服される側となって滅んだのです。
端平入洛と対立 ── 宋蒙戦争の始まり
金の滅亡後、南宋とモンゴルの間の緩衝地帯は消滅しました。南宋の朝廷では、この機会に旧北宋の故地を回復すべきだという主戦論が高まりました。1234年夏、南宋は大軍を派遣して旧都・開封と洛陽の回復を試みます。これが「端平入洛」と呼ばれる軍事行動です。
南宋軍は一時的に開封と洛陽を占領しましたが、荒廃した華北では食糧の補給が得られず、モンゴル軍の反撃を受けて惨敗しました。この「端平入洛」の失敗は、南宋の軍事的弱さを露呈するとともに、モンゴルに南宋侵攻の口実を与えることになりました。
モンゴルは南宋の「約束違反」を非難し、1235年からオゴデイ・ハーンの命で南宋への本格的な侵攻が始まりました。以後、南宋は約40年にわたってモンゴルの侵攻に抵抗し続けることになります。四川の山城防御体制、長江防衛線、そして襄陽の攻防戦など、南宋の防衛戦争は中国軍事史上最も長期にわたる抵抗の一つでした。
南宋の戦略的失敗 ── なぜ金を救わなかったのか
歴史家たちは、南宋が金と同盟してモンゴルに対抗する道を選ばなかったことを、南宋最大の戦略的失敗と評価しています。金が存在する間は、金がモンゴルの南下を阻む緩衝国として機能していました。しかし南宋の朝廷は、靖康の変以来の金への怨念が深く、「唇亡歯寒」の理をわかっていながらも復讐の誘惑に勝てなかったのです。さらに、モンゴルの軍事力を過小評価していたことも大きな判断ミスでした。結果として南宋は、自らの滅亡を早める選択をしてしまいました。
歴史的意義 ── 華北の統治者の交代
金の滅亡は、華北の統治者が女真族からモンゴル族に交代したことを意味します。916年の遼の建国から数えると、華北は約300年にわたって北方民族の支配下にありましたが、その支配者が入れ替わったのです。モンゴルは金の滅亡後、華北に対する本格的な統治を開始し、やがて耶律楚材の建言のもとで中国式の行政制度を導入していきます。
金の滅亡はまた、女真族の歴史にとっても重要な転機でした。金の支配層は壊滅しましたが、女真族自体が消滅したわけではありません。多くの女真人は華北に残ってモンゴルの統治下で生活を続け、やがて漢族と同化していきました。しかし満洲(東北地方)に残った女真族は、400年後に再び結集し、後金(清)を建国して中国最後の王朝を築くことになります。
国際秩序の観点からは、金の滅亡によって東アジアは南宋とモンゴル帝国の二大勢力に再編されました。しかしこの構図は長くは続かず、モンゴルの圧倒的な軍事力の前に南宋は守勢に立たされ、最終的には1279年に滅亡します。金を滅ぼすことで得たはずの利益は、南宋にとって何も残らなかったのです。
金の滅亡 関連年表
| 年代 | 出来事 | 備考 |
|---|---|---|
| 1115年 | 金の建国 | 完顔阿骨打が建国 |
| 1211年 | モンゴルの金侵攻開始 | 野狐嶺の戦い |
| 1215年 | 中都の陥落 | 金が開封に遷都 |
| 1224年 | 哀宗の即位 | 金最後の実質的皇帝 |
| 1227年 | チンギス・ハーンの崩御 | 金挟撃の遺言を残す |
| 1229年 | オゴデイが大ハーンに即位 | 金征服を再開 |
| 1232年 | 三峰山の戦い | 金の最後の精鋭軍が壊滅 |
| 1233年 | 宋蒙連合の成立 | 南宋が兵と食糧を派遣 |
| 1234年2月 | 蔡州陥落・金の滅亡 | 哀宗が自殺、金が滅亡 |
| 1234年夏 | 端平入洛の失敗 | 宋蒙対立の始まり |