1227年は、世界史の巨人が舞台を去った年です。モンゴル帝国の創建者チンギス・ハーンが、西夏への最後の遠征の最中に崩御しました。享年65歳(推定)。一人の遊牧民の族長から身を起こし、中央アジアから華北に至る広大な領域を征服した稀代の英雄の最期でした。
チンギス・ハーンの死と同時期に、西夏(大夏・タングート国)もまた歴史から姿を消しました。1038年にタングート族の李元昊が建国した西夏は、中国の西北部にあって約190年間存続し、独自の文字と文化を持つ国家でした。しかしモンゴル帝国の圧倒的な軍事力の前に屈し、チンギス・ハーンの遺言によって徹底的に破壊されました。西夏の滅亡は、その文化遺産の大部分が失われるほど完全なものでした。
チンギス・ハーンの死後、モンゴル帝国は彼が定めた後継者オゴデイのもとで発展を続け、さらなる征服を推し進めていきます。チンギス・ハーンの生涯は終わりましたが、彼が築いた帝国の拡大はまだ始まったばかりでした。
西夏との確執 ── 裏切りの代償
西夏はもともと1038年にタングート族の李元昊が建国した王朝で、現在の寧夏回族自治区・甘粛省西部を中心に勢力を持っていました。シルクロードの要衝を押さえ、独自の西夏文字を持ち、仏教を中心とした豊かな文化を誇る国でした。宋・遼(後に金)と並立し、巧みな外交で約200年にわたって独立を維持していました。
チンギス・ハーンは1209年に西夏に侵攻し、首都・興慶府(現在の銀川)を包囲して臣従を認めさせていました。西夏はモンゴルの属国となり、求めに応じて軍を派遣する義務を負いました。しかし1219年、チンギス・ハーンがホラズム遠征のために西夏に援軍を要請したとき、西夏は拒否しました。この拒否はチンギス・ハーンの怒りを買い、西夏は完全な破壊の対象として運命づけられたのです。
ホラズム遠征(1219-1225年)を終えたチンギス・ハーンは、帰途につく途中で西夏への報復を決意しました。1226年、すでに高齢で体調の衰えが目立ち始めていたチンギスは、それでも自ら大軍を率いて西夏に向かいます。これが彼の最後の遠征となりました。
ホラズム遠征 ── チンギスの最大の征服
1219年から1225年にかけてのホラズム遠征は、チンギス・ハーンの生涯で最大規模の征服戦争でした。中央アジアのホラズム・シャー朝がモンゴルの商隊を虐殺したことが発端となり、チンギスは約20万の大軍を率いて西征しました。ブハラ、サマルカンド、ウルゲンチなど中央アジアの主要都市は次々と陥落し、ホラズム帝国は壊滅しました。この遠征でモンゴル帝国の版図は中央アジアからペルシアに及び、東西を結ぶ巨大な帝国の骨格が形成されました。しかし長期の遠征はチンギスの健康を蝕み、帰国後の西夏遠征で最期を迎えることになります。
最後の遠征 ── 西夏への懲罰
1226年春、チンギス・ハーンは大軍を率いて西夏に侵入しました。モンゴル軍は圧倒的な兵力で西夏の各都市を次々と攻略していきます。西夏軍は勇敢に抵抗しましたが、ホラズム遠征で攻城戦の技術を磨いたモンゴル軍の前に、堅固な城壁も長くは持ちこたえられませんでした。
モンゴル軍は黄河沿いに進軍し、西夏の軍事拠点を一つ一つ壊滅させていきました。賀蘭山の麓での戦いでは西夏の主力軍が大敗し、もはや組織的な抵抗は不可能となりました。チンギス・ハーンは西夏の首都・興慶府を包囲し、降伏を要求しました。
しかし西夏の最後の皇帝・李睍(りけん)は粘り強く抵抗し、包囲は長期化しました。この間にチンギス・ハーンの体調は急速に悪化していきます。落馬による負傷や病気が重なり、征服者の体は限界に近づいていました。それでもチンギスは退却を拒み、西夏の完全な降伏を待ち続けました。
チンギス・ハーンの死 ── 征服者の最期
1227年8月18日(旧暦7月12日)、チンギス・ハーンは六盤山(現在の寧夏固原付近)の陣営で崩御しました。死因については諸説あり、落馬による負傷の悪化、マラリアなどの疫病、あるいは長年の遠征による体力の消耗などが挙げられています。正確な死因は今日に至るまで謎に包まれています。
チンギス・ハーンは臨終に際して重要な遺言を残しました。一つは、自分の死を秘密にして西夏が降伏するまで喪を発しないこと。もう一つは、金を滅ぼすための戦略として、宋に同盟を申し入れて金を挟み撃ちにすることでした。この戦略的遺言は、後に実行に移され、1234年の金の滅亡につながります。
チンギス・ハーンの埋葬地は極秘とされ、現在に至るまで正確な場所は不明です。伝承によれば、埋葬に関わった者はすべて処刑され、墓の上を馬の群れに踏ませて痕跡を消したとされています。こうした秘密主義は、モンゴルの伝統的な霊魂観に基づくものであり、死者の安寧を守るための措置でした。
チンギス・ハーンの征服の規模
チンギス・ハーンが生涯で征服した領土は、推定で約2400万平方キロメートルに達し、これは人類史上一人の人物が征服した面積としては最大です。モンゴル高原から中国北部、中央アジア、ペルシア、アフガニスタンに至る広大な領域を、わずか20年余りで手中に収めました。しかしチンギス・ハーンの真の偉大さは、征服の規模以上に、彼が構築した制度と秩序にあります。千戸制・駅伝制・大ジャサに基づく統治システムは、彼の死後も帝国を支え、ユーラシア規模の交流圏「パクス・モンゴリカ」を実現する基盤となりました。
西夏の滅亡 ── 消された王朝
チンギス・ハーンの死の直前、あるいは直後に、西夏の最後の皇帝・李睍はついに降伏しました。しかしチンギスの遺言に従い、モンゴル軍は降伏した西夏の皇帝を処刑し、首都・興慶府を徹底的に破壊しました。「西夏の民を殺し尽くせ」という苛烈な命令により、西夏の人民は大規模な虐殺に遭い、王朝は完全に消滅しました。
西夏の滅亡は、他の王朝の滅亡とは質的に異なるものでした。通常、中国の王朝が交代する際には、旧王朝の歴史書が新王朝によって編纂されます。しかし西夏についてはそのような正史が作られず、西夏独自の文字で書かれた文書の多くも失われました。西夏文字の解読が進んだのは20世紀に入ってからであり、西夏の歴史の多くは長い間、謎に包まれていました。
約190年にわたって中国西北部に存在した西夏は、こうしてモンゴルの報復によって歴史の表舞台から姿を消しました。シルクロードの要衝を押さえ、独自の文字と仏教文化を誇った王朝が、一度の裏切りの代償として完全に抹消されたことは、モンゴル帝国の報復の苛烈さを象徴する出来事でした。
遺産と後継 ── 帝国のゆくえ
チンギス・ハーンの死後、モンゴル帝国の統治はクリルタイによる合議制で進められました。チンギスの遺言により、三男のオゴデイが第二代大ハーンに指名されていましたが、正式な即位は2年後の1229年のクリルタイを待つことになります。その間、末子トルイが帝国の監国(摂政)を務めました。
チンギス・ハーンの帝国は、四人の息子に分封されました。長子ジョチの家系はキプチャク草原(南ロシア)を、二男チャガタイは中央アジアを、三男オゴデイはジュンガリア方面を、末子トルイはモンゴル本土を継承しました。大ハーンの位はオゴデイが受け継ぎ、帝国全体の統率者となりました。
オゴデイのもとで帝国はさらに拡大し、金の完全征服(1234年)、東ヨーロッパへの遠征(1236-1242年)が実行されました。チンギス・ハーンの遺志は忠実に実行され、金を滅ぼすための宋との連携戦略もまた実現されました。チンギス・ハーンは死してなお、その戦略構想によって世界史を動かし続けたのです。
チンギス・ハーンの死と西夏の滅亡 関連年表
| 年代 | 出来事 | 備考 |
|---|---|---|
| 1038年 | 西夏の建国 | タングート族の李元昊が建国 |
| 1209年 | チンギスが西夏を臣従させる | 第一次西夏遠征 |
| 1219年 | 西夏がモンゴルへの援軍を拒否 | チンギスの怒りを買う |
| 1219-1225年 | ホラズム遠征 | 中央アジアを征服 |
| 1226年春 | チンギス、西夏に最後の遠征 | 大軍を率いて侵入 |
| 1226年 | 西夏の主力軍が壊滅 | 賀蘭山の戦いなど |
| 1227年 | 興慶府の包囲 | 西夏の首都を包囲 |
| 1227年8月 | チンギス・ハーンの崩御 | 六盤山の陣営で死去 |
| 1227年 | 西夏の滅亡 | 最後の皇帝・李睍が処刑される |
| 1229年 | オゴデイが第二代大ハーンに即位 | クリルタイで選出 |