AD 253

諸葛恪の失脚
と誅殺

253年、諸葛亮の甥にして呉の実権者・諸葛恪が、合肥新城攻撃に大敗して威信を失墜。帰還後まもなく宮中でクーデターにより殺害され、一族は族滅された。才気に溺れた英傑の、栄光から破滅への転落劇である。

253年は、呉の政治史における最大の転換点の一つでした。前年末の東興の戦いで魏軍を大破し、絶大な威望を得ていた諸葛恪が、その勢いのまま20万の大軍を率いて魏の合肥新城を攻撃しましたが、数か月にわたる攻城戦の末に壊滅的な敗北を喫しました。

この大敗により諸葛恪の威信は地に落ちました。東興の勝利で得た信頼は一瞬で消え去り、将兵の不満と朝廷の反感が一気に噴出しました。諸葛恪は帰還後も権力への固執を見せ、反対派の粛清に乗り出しましたが、これがかえって敵を増やす結果となりました。

253年10月、皇族の孫峻が幼帝・孫亮と共謀して宮中の宴に諸葛恪を誘い出し、酒宴の席で暗殺しました。諸葛恪の一族は三族皆殺しに処され、諸葛瑾以来の呉における諸葛氏の血統は断絶しました。才能に恵まれながら傲慢さに足をすくわれた諸葛恪の短い栄光と破滅は、権力者の傲りがもたらす悲劇の典型として記憶されています。

このページでは、諸葛恪が合肥新城攻撃に踏み切った背景、戦闘の経緯と敗因、帰還後の政治状況、暗殺に至る経緯、そしてこの事件が呉の歴史に与えた影響を詳しく解説します。

北伐の野望 ── 東興の勝利がもたらした慢心

252年末の東興の戦いにおける勝利は、諸葛恪にとって決定的な成功体験となりました。魏の大軍を撃退し、多くの敵兵を殺傷・捕虜にしたこの勝利により、諸葛恪の威望は孫権存命中をも上回るほどに高まりました。しかしこの成功が、諸葛恪を致命的な判断ミスへと導くことになります。

253年春、諸葛恪は20万の大軍を動員して北伐を宣言しました。目標は魏の東方防衛の要衝・合肥新城でした。この計画に対して、朝廷の多くの臣下が反対しました。呉の国力では20万の遠征軍を長期間維持することは困難であり、前年の勝利は防衛戦であって攻城戦とは条件が根本的に異なるという指摘でした。

しかし諸葛恪は反対意見をすべて退けました。東興の勝利で自信を深めた諸葛恪は、自らの軍事的才能を過信し、さらに叔父・諸葛亮が果たせなかった北伐の大業を自らの手で成し遂げたいという野心もあったとされます。蜀漢の丞相・諸葛亮が生涯をかけて五度の北伐を行いながらも中原の回復を果たせなかった──その志を甥の自分が継ぐという使命感は、諸葛恪の判断を曇らせる要因の一つでした。

戦略分析

合肥 ── 呉にとっての「鬼門」

合肥は呉にとって常に攻略困難な要塞でした。孫権自身が215年に合肥を攻撃した際、張遼率いる魏の守備隊にわずか800騎で逆襲され、大敗を喫しています(合肥の戦い・逍遥津の戦い)。この時孫権は命からがら逃げ延び、張遼の武勇は「張遼の名を聞けば呉の子供も泣き止む」と言われるほど恐れられました。合肥新城は233年に満寵が旧合肥城から移転して築いた新要塞であり、攻城戦に不向きな地形に建てられていました。歴史的に呉が一度も攻略できなかった合肥を目標にしたこと自体が、諸葛恪の判断の甘さを物語っています。

合肥逍遥津張遼合肥新城呉の鬼門

合肥新城の惨敗 ── 二か月の徒労

253年5月、諸葛恪は20万の大軍を率いて合肥新城に到達しました。合肥新城の守備隊はわずか三千人程度でしたが、城は堅固に築かれており、諸葛恪の大軍をもってしても容易に攻略できませんでした。諸葛恪は城を包囲し、力攻めを繰り返しましたが、守備側の頑強な抵抗の前に犠牲ばかりが増えていきました。

攻城戦は二か月以上にわたって続きましたが、城は落ちませんでした。この間、呉軍には深刻な問題が山積していきます。夏の猛暑と疫病が軍中に蔓延し、多くの将兵が倒れました。兵糧の補給も困難になり、士気は急速に低下しました。諸将は撤退を進言しましたが、諸葛恪は聞き入れず、撤退を口にする者を処罰すると宣言して攻撃を続行しました。

さらに魏の援軍が接近しているとの報が入り、事態は決定的に悪化しました。ようやく撤退を決断した諸葛恪でしたが、すでに軍は疲弊しきっており、撤退の途中でも多数の落伍者と死者を出しました。この遠征での損害は甚大で、戦死・病死・脱落を合わせると数万人に達したとされます。20万の大軍を率いて出征しながら、一城すら落とせずに壊滅的な損害を受けたのです。

軍中に疫病が流行し、将士の半数以上が倒れた。諸将が撤退を請うたが、諸葛恪は怒って聞き入れず、撤退を言う者は斬ると宣言した。しかし城はついに落ちず、魏の援軍が近づくに及んで、やむなく退却した。 ── 『三国志』呉書・諸葛恪伝より

威信の失墜 ── 万民の怨嗟

合肥新城から帰還した諸葛恪に対する世論は、わずか半年前とは一変していました。東興の勝利で英雄と称えられた人物は、今や国力を浪費し将兵を無駄死にさせた暴君として非難の的となりました。出征に反対した臣下たちの正しさが証明され、諸葛恪の独断専行への怒りが朝廷中に充満していました。

しかし諸葛恪は失敗を認めず、むしろ反対派の粛清に乗り出しました。自分を批判した臣下を更迭し、自らの親派を要職に配置しようとしました。さらに再度の北伐を計画し始め、各地から兵を徴発する命令を出しました。これは民衆と軍の怒りをさらに増幅させる行為でした。

諸葛恪のこの態度は、かつての曹爽の行動と奇妙に重なります。権力を独占し、反対意見を封殺し、軍事的失敗にもかかわらず強硬路線を堅持する──歴史は繰り返すかのように、諸葛恪もまたクーデターによる排除という同じ運命を辿ることになるのです。

教訓

成功体験の罠 ── 一度の勝利が招く破滅

諸葛恪の転落は、成功体験がいかに人を盲目にするかを示す典型例です。東興の勝利という一度の成功に酔い、自らの能力を過大評価し、周囲の助言を退けた結果、取り返しのつかない失敗を犯しました。中国の兵法では「驕兵必敗」(驕る兵は必ず敗れる)という格言がありますが、諸葛恪はまさにこの戒めを体現してしまいました。東興の勝利は防衛戦における地の利を活かしたものであり、攻城戦とは本質的に異なる条件でしたが、勝利に酔った諸葛恪にはその違いが見えなくなっていたのです。

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宮中の暗殺 ── 孫峻のクーデター

253年10月、諸葛恪の排除を決意したのは、託孤大臣の一人であり孫権の従孫にあたる孫峻でした。孫峻は諸葛恪の専横に危機感を抱いただけでなく、諸葛恪が自分を排除しようとしているという情報を得て、先手を打つことを決めました。

孫峻は幼帝・孫亮(当時11歳)の了承を得た上で、宮中で酒宴を催すという名目で諸葛恪を招きました。諸葛恪のもとには事前に「宴に行くな」という警告が複数寄せられていましたが、諸葛恪はこれを無視しました。宴席に向かう朝、飼い犬が諸葛恪の衣を咥えて引き止めたという不吉な逸話も伝えられています。

宴が始まると、孫峻は酒を勧めながら機を窺い、合図とともに伏兵を呼び入れました。諸葛恪は驚いて逃げようとしましたが、孫峻自らが剣を抜いて斬りかかり、諸葛恪はその場で殺害されました。直後に諸葛恪の一族は捕縛され、三族皆殺しに処されました。弟の諸葛融も一家もろとも殺害され、呉における諸葛氏の血統は完全に断絶しました。

諸葛恪の遺体は蓆に包まれて城外に棄てられたと伝えられています。わずか一年前には呉の救国の英雄として万人から崇められていた人物が、犬や烏に食われる遺体として野に晒される──その落差の凄まじさは、権力闘争の無情さを象徴するものでした。

諸葛恪の飼い犬が衣を咥えて離さなかった。諸葛恪は「犬ですら私を惜しむか」と笑って犬を振り払い、宮中へ向かった。それが最後の外出となった。 ── 『三国志』呉書・諸葛恪伝の逸話より
人物比較

諸葛恪と曹爽 ── 権臣の末路

諸葛恪の最期は、4年前に魏で起きた曹爽の末路と驚くほど類似しています。両者とも託孤の大臣として幼帝を補佐する立場にありながら権力を独占し、軍事的な失敗で威信を失い、最終的にクーデターで排除されて族滅されました。しかし両者には決定的な違いもあります。曹爽は優柔不断で反撃する勇気がなかったのに対し、諸葛恪は傲慢さゆえに危険の兆候を無視しました。弱さと傲慢さ──異なる欠点が同じ結末を招いたことは、権力者にとっての普遍的な警告です。

諸葛恪曹爽権臣の末路クーデター族滅

歴史的意義 ── 呉の政治的不安定の固定化

諸葛恪の誅殺は、呉の政治を決定的に不安定化させました。孫峻は諸葛恪に代わって権力を掌握しましたが、その統治は諸葛恪以上に暴虐でした。孫峻は256年に病死し、権力は従弟の孫綝に移りましたが、孫綝もまた専横を極め、258年に皇帝・孫亮を廃位するという暴挙に出ました。

諸葛恪の時代から呉の滅亡までの約27年間、呉の朝廷では権臣の台頭と排除が繰り返され、安定した統治が一度も実現しませんでした。孫峻、孫綝、そして暴君・孫皓と、権力者が次々と登場しては暴政を行い、排除されるという悪循環が続いたのです。

諸葛恪の失脚は、呉という国家の構造的な弱点も浮き彫りにしました。呉は江南の豪族連合体としての性格が強く、中央集権が十分に機能していませんでした。強力な君主(孫権)が健在な間は豪族間のバランスが保たれていましたが、幼帝の即位によりそのバランスが崩れると、各派閥が権力を争う血みどろの抗争が始まりました。諸葛恪の栄光と破滅は、その最初の、そして最も劇的な一幕でした。

諸葛一族の運命

三国に分かれた諸葛氏 ── その結末

琅琊の名族・諸葛氏は、三国時代においてそれぞれの国で重要な役割を果たしました。諸葛亮は蜀漢の丞相として五度の北伐を行い、諸葛瑾は呉の重臣として孫権を支え、諸葛誕は魏に仕えました。しかしその結末はいずれも悲劇的でした。諸葛亮は234年に五丈原で病没し、諸葛瑾の子・諸葛恪は253年に族滅され、諸葛誕は258年に司馬昭に反乱を起こして敗死しています。三国に分かれて仕えた一族が、ほぼ同時期にすべて滅亡するという運命は、三国時代の過酷さを象徴する物語です。

諸葛一族諸葛亮諸葛瑾諸葛誕一族の運命

諸葛恪の失脚と誅殺 関連年表

年代出来事備考
203年諸葛恪の誕生諸葛瑾の長子として生まれる
234年山越の討伐諸葛恪が軍功を挙げる
252年4月孫権の崩御諸葛恪が託孤大臣の筆頭に
252年孫弘の誅殺諸葛恪が権力を独占
252年末東興の戦い魏軍を大破、威望が頂点に
253年春北伐(合肥新城攻撃)を決定朝廷の反対を押し切る
253年5月合肥新城を包囲20万の大軍で攻撃開始
253年7月攻城戦の失敗・撤退疫病蔓延、数万の損害
253年10月孫峻のクーデター諸葛恪が宮中で暗殺される
253年諸葛恪の一族が族滅呉の諸葛氏が断絶