AD 252

孫権の死
と呉の混乱

252年、三国の創業者で最後まで生き残った孫権が71歳で崩御した。幼い孫亮が即位し、託孤の大臣・諸葛恪が実権を掌握。呉の内部崩壊の種がまかれ、三国鼎立の均衡は静かに崩れ始めた。

252年4月、呉の初代皇帝・孫権(大帝)が建業(現在の南京)で崩御しました。享年71歳。曹操・劉備・孫権という三国の創業者の中で最も長命であり、最後まで生き残った英雄の退場でした。孫権の死は、三国鼎立の時代が最終局面に入ったことを象徴する出来事でした。

しかし孫権の晩年は、かつての英明な君主の姿とはかけ離れたものでした。後継者をめぐる「二宮の変」と呼ばれる骨肉の争いが朝廷を引き裂き、多くの重臣が連座して処刑・流罪となりました。孫権自身も猜疑心に駆られ、かつての名臣・陸遜を憤死させるなど、晩年の暴政は呉の国力を大きく損ないました。

孫権の死後、わずか10歳の孫亮が即位しましたが、実権は託孤の大臣・諸葛恪が掌握しました。諸葛恪は諸葛亮の兄・諸葛瑾の子であり、才知に溢れた人物でしたが、その急進的な政策と独断的な行動は、やがて呉の朝廷に新たな混乱をもたらすことになります。

このページでは、孫権の晩年の暗転、二宮の変の経緯、孫権の死とその影響、そして諸葛恪の台頭と呉の内部崩壊の過程を詳しく解説します。

孫権晩年の暗転 ── 英雄の老い

孫権は若き日には「英雄」の名に恥じない名君でした。赤壁の戦いで曹操の南征を阻止し、江東の地を守り抜き、荊州の関羽を滅ぼして領土を拡大しました。曹操にして「子を生むなら孫仲謀のごとくあるべし」と嘆息させた人物です。しかし240年代以降、70歳に近づいた孫権の統治は明らかに暗転していきます。

その最大の原因は後継者問題でした。孫権は長男の孫登を皇太子としていましたが、241年に孫登が33歳の若さで病没。孫登は温厚で臣下の信望も厚く、呉の将来を担うべき人物でしたが、その早逝は呉にとって取り返しのつかない損失となりました。孫登の死後、孫権は三男の孫和を皇太子に立てましたが、同時に四男の孫覇を魯王に封じて寵愛し、ここから宮廷を二分する争いが始まったのです。

孫権の晩年の暴政は、校事(秘密警察)の重用にも表れています。呂壱・呂据といった校事が権力を振るい、臣下を監視して密告を奨励しました。かつての名臣・顧雍や張昭が健在だった頃には考えられなかった恐怖政治が、呉の朝廷に蔓延していったのです。

人物像

孫権 ── 三国最後の創業者

孫権は182年に生まれ、兄・孫策の急死により19歳で江東の主となりました。以後50年以上にわたって江南を統治し、222年には呉王に、229年には皇帝に即位しています。若き日には周瑜・魯粛・呂蒙・陸遜といった名将を巧みに使いこなし、赤壁・夷陵など三国時代の重要な戦いで勝利を収めました。しかし晩年は猜疑心と優柔不断さが災いし、後継者問題で国を混乱させました。英雄の老いは、しばしば国家の衰退と直結するという歴史の法則を、孫権の生涯は痛切に示しています。

孫権呉の大帝江東の主英雄の老い後継者問題

二宮の変 ── 呉を引き裂いた骨肉の争い

「二宮の変」とは、皇太子・孫和と魯王・孫覇の後継者争いが宮廷を二分した政治闘争のことです。「二宮」とは東宮(皇太子の宮殿)と魯王の宮殿を指します。孫権が孫覇を過度に寵愛し、皇太子に匹敵する待遇を与えたことから、朝廷の臣下たちは皇太子派と魯王派に分裂しました。

皇太子・孫和を支持したのは、陸遜・顧譚・吾粲・朱拠といった呉の名門貴族層でした。一方、魯王・孫覇を支持したのは全琮・歩騭の一族、孫弘らでした。両派の争いは激化の一途を辿り、讒言と密告が飛び交い、朝廷は機能不全に陥りました。

250年、孫権はこの争いに決着をつけるため、極端な措置に出ました。皇太子・孫和を廃嫡して庶人に落とし、魯王・孫覇には自殺を命じたのです。両方を排除するという前代未聞の決断でした。そして孫権は末子の孫亮(当時7歳)を新たな皇太子に立てました。この決断は、かえって呉の朝廷をさらに混乱させることになりました。二宮の変の過程で、陸遜が孫権の叱責を受けて憤死したことは、呉にとって計り知れない損失でした。陸遜は夷陵の戦いで劉備を破った名将であり、呉の軍事的支柱でした。

陸遜は皇太子・孫和の廃嫡に反対し、繰り返し上書して諫めた。しかし孫権は使者を遣わして陸遜を詰問し、その罪状を数え上げた。陸遜は憤慨のあまり病を発し、まもなく没した。享年六十三。 ── 『三国志』呉書・陸遜伝より

孫権の崩御 ── 大帝の最期

252年4月、孫権は建業の南殿で崩御しました。享年71歳、在位23年(皇帝として)でした。最期の日々、孫権は自らの晩年の過ちを悔いていたとも伝えられています。臨終に際して、孫権は大将軍・諸葛恪、中書令・孫弘、太常・滕胤、将軍・呂拠、侍中・孫峻の五人を託孤の大臣として幼い孫亮の補佐を託しました。

しかし孫権の人選は必ずしも適切ではありませんでした。五人の託孤大臣のうち、筆頭の諸葛恪は才気に走りすぎる嫌いがあり、孫弘は陰険な人物として知られ、孫峻は皇族ではあるものの野心家でした。孫権は曹叡が曹爽と司馬懿を輔政に任じて失敗した先例を知りながら、同様の過ちを犯してしまったのです。

孫権の死は、三国時代の一つの時代の終わりを告げるものでした。曹操は220年に、劉備は223年に世を去り、孫権だけが252年まで生き延びていました。三国の創業者のうち最後の一人が退場したことで、三国時代は完全に第二世代・第三世代の時代に入りました。しかし後継者たちには、創業者が持っていたカリスマ性も統率力もなく、三国はいずれも内部から崩壊していく道を歩むことになります。

比較分析

三国創業者の最期 ── 曹操・劉備・孫権

曹操は220年に66歳で病没し、その権力基盤は子の曹丕に安定的に引き継がれました。劉備は223年に63歳で崩御し、諸葛亮という稀代の忠臣に後事を託して蜀漢は安定しました。しかし孫権の場合、後継者問題で国を混乱させた末の死であり、幼帝即位と権臣の対立という最悪の状況を残してしまいました。三人の中で最も長く生きた孫権が、結果的に最も不安定な権力移譲を行ったことは、皮肉というほかありません。長命であることが必ずしも国家の安定に繋がらないことを、歴史は示しているのです。

曹操劉備孫権権力移譲創業者の退場

諸葛恪の台頭 ── 才子の権力掌握

孫権の崩御後、託孤大臣の筆頭として実権を握ったのは諸葛恪でした。諸葛恪は諸葛亮の兄・諸葛瑾の長子であり、幼少の頃から神童として名高い人物でした。孫権も諸葛恪の才智を高く評価しており、山越(江南の山岳民族)の討伐で功績を挙げた諸葛恪を託孤の筆頭に選んだのです。

諸葛恪は政権を掌握すると、まず託孤大臣の一人である孫弘を「孫権の遺詔を改竄しようとした」として誅殺しました。これにより諸葛恪は五人の託孤大臣の中で唯一の実力者となり、呉の国政を一手に握ることになりました。諸葛恪は就任後すぐに善政を布き、税を減免し、監視役の校事を廃止するなどの改革を行い、民衆の支持を得ました。

さらに252年末、魏が呉の東興に侵攻してきた際(東興の戦い)、諸葛恪は自ら軍を率いて迎撃し、魏軍を大破する見事な勝利を収めました。この勝利により諸葛恪の威望は頂点に達し、呉の内外からの信頼は絶大なものとなりました。しかし、この成功体験が諸葛恪の判断を狂わせ、翌年の破滅的な合肥新城攻撃へと彼を駆り立てることになるのです。

人物像

諸葛恪 ── 諸葛一族の才子

諸葛恪は諸葛瑾の子であり、蜀漢の丞相・諸葛亮の甥にあたります。幼少時より才気煥発で、孫権の宴席で即座に機知に富んだ返答をした逸話が多数残されています。ある宴席で孫権が諸葛瑾の顔が驢馬に似ていることを揶揄した際、幼い諸葛恪が驢馬の顔に「諸葛瑾の驢馬なり」と書き加えることを請い、孫権を感心させたという話は有名です。しかし父の諸葛瑾は息子の才気を心配し、「恪は我が家を興す者ではなく、滅ぼす者だ」と嘆いたと伝えられています。この予言は、翌年に現実のものとなりました。

諸葛恪諸葛瑾の子諸葛亮の甥神童東興の戦い

歴史的意義 ── 三国鼎立の均衡崩壊

孫権の死は、三国時代の力学を根本から変えました。三国鼎立は、曹操・劉備・孫権という三人の英雄のカリスマ性と政治的手腕によって維持されてきた側面が大きく、創業者の世代が完全に退場したことで、三国はそれぞれの内部矛盾に直面することになりました。

魏では司馬氏が曹氏を傀儡化し、蜀漢では姜維の無理な北伐が国力を消耗させ、呉では幼帝のもとで権臣たちが権力闘争を繰り広げる──252年以降の三国は、いずれも内部崩壊の過程にありました。最終的に三国を統一したのは、内部が最も安定していた(というより司馬氏が完全に権力を掌握していた)魏=西晋でした。

呉に限って言えば、孫権の死後わずか28年で滅亡を迎えます(280年)。その間、諸葛恪の失脚、孫峻・孫綝の専横、暴君・孫皓の即位と暴政が相次ぎ、呉の国力は急速に衰退していきました。孫権が晩年に犯した後継者選びの失敗は、呉の滅亡を加速させた最大の要因の一つと言えるでしょう。

教訓

後継者問題 ── 王朝衰退の普遍的パターン

孫権の晩年が示した教訓は、中国史において繰り返し現れる普遍的なパターンです。創業者が英明であればあるほど、その後継者の選定は困難を極めます。後継者が複数いる場合、寵愛や派閥が絡み合って宮廷は分裂し、国力は内部闘争に消耗されます。漢の武帝の巫蠱の禍、唐の太宗の皇太子廃嫡、明の永楽帝の後継問題など、中国史上の偉大な君主の多くが晩年に後継者問題で苦しんでいます。孫権の二宮の変は、その最も早い時期の典型例の一つです。

後継者問題二宮の変王朝衰退権力の継承歴史の教訓

孫権の死と呉の混乱 関連年表

年代出来事備考
229年孫権が皇帝に即位呉の建国
241年皇太子・孫登の病死呉の後継者問題の始まり
242年孫和を皇太子、孫覇を魯王に二宮の変の発端
245年陸遜の憤死孫権の叱責により病発
250年孫和を廃嫡、孫覇に自殺命令孫亮を皇太子に擁立
252年4月孫権の崩御享年71、諡号は大帝
252年孫亮(10歳)が即位諸葛恪が託孤大臣の筆頭に
252年諸葛恪が孫弘を誅殺権力を独占
252年末東興の戦い諸葛恪が魏軍を大破
253年諸葛恪の合肥新城攻撃失敗し威信失墜