「うらやましいなあ」とつぶやくだけで一日が終わってしまうこと、ありませんか。うまくいっている同業者を見て、SNSで活躍する人を見て、心の中でため息をつく。じつはその気持ち、2000年以上前の中国でもすでに言葉になっていました。それが今回ご紹介する「臨淵羨魚(りんえんせんぎょ)」という故事成語です。
「臨淵羨魚」の意味
「臨淵羨魚」は、「淵に臨みて魚を羨む」と読み下します。深い淵(ふち=水の深くたまった場所)のほとりに立って、泳いでいる魚を「いいなあ、欲しいなあ」とうらやましく眺めているだけ、という光景を表した言葉です。
そこから転じて、ただ結果をうらやんでいるだけで、それを手に入れるための行動を何も起こしていない状態をいましめる意味で使われます。ポイントは、この言葉には必ず「続き」があることです。原文では「淵に臨んで魚を羨むのは、退いて網を結ぶには及ばない」と続きます。うらやむ暇があったら家に帰って網を編みなさい、というわけですね。
- 読み方:りんえんせんぎょ
- 意味:結果だけを羨み、そのための準備・行動をしないこと
- 教訓:羨むより、まず「網を編む」=準備を始めよ
- 似た言葉:「隣の芝生は青い」「果報は寝て待て(※こちらは対照的)」
故事成語ができた経緯・歴史
この言葉のルーツは、前漢の時代(紀元前2世紀ごろ)にさかのぼります。淮南王(わいなんおう)の劉安(りゅうあん)が学者たちを集めて編ませた思想書『淮南子(えなんじ)』の中に登場します。『淮南子』は、政治・自然・処世術など幅広いテーマを扱った、いわば当時の「総合百科事典」のような書物です。
この一節が書かれた文脈は、実は政治論でした。「昔の良い時代を懐かしんで『あの頃はよかった』と嘆いているだけでは、国は良くならない。今の時代に合った制度を自分たちの手で作りなさい」——そう説くための、たとえ話として使われたのです。淵の魚を眺めている人になぞらえて、口先だけの理想論を戒めたわけですね。
なお同じ趣旨の言葉は、歴史書『漢書』の「董仲舒伝(とうちゅうじょでん)」にも引用されています。儒学者の董仲舒が皇帝に意見を述べる際、この一文を持ち出して「理想を語るなら、まず制度という網を編むべきです」と進言しました。時代を超えて引用され続けたことで、故事成語として定着していったのです。
ビジネスシーンでの使い方
この言葉は、自分自身への戒めとしても、チームへの前向きな声かけとしても使えます。相手を責めるのではなく「じゃあ網を編もうか」と行動につなげるのがコツです。例文を3つご紹介します。
- 例文1(自戒として)「競合他社のSNS運用がうらやましいと言い続けて半年経ってしまった。まさに臨淵羨魚だね。来月から自社でも投稿を始めよう。」
- 例文2(会議の場で)「補助金を活用した他社の成功事例を並べるだけでは臨淵羨魚です。まずは申請要件を洗い出して、必要な書類の準備から始めましょう。」
- 例文3(部下への助言として)「同期の昇進をうらやむ気持ちはわかるよ。でも臨淵羨魚のままでは変わらない。退いて網を結ぶ——今期はどのスキルを身につけるか、一緒に決めようか。」
ちなみに現代のビジネス書でよく言われる「インプットよりアウトプット」「完璧な計画より小さな一歩」といった考え方も、根っこは同じです。2000年前の中国人も、私たちと同じところでつまずいていたと思うと、少し親近感がわきませんか。
原文の出典
書名:『淮南子』説林訓(えなんじ ぜいりんくん)/前漢・劉安 編
原文
臨河而羨魚、不如帰家織網。
読み下し文:河に臨みて魚を羨むは、家に帰りて網を織るに如かず。
現代語訳:川べりに立って魚をうらやましがっているくらいなら、家に帰って網を編むほうがずっとよい。
また、同書の「説山訓(せつざんくん)」には「臨淵羨魚、不若帰家結網(淵に臨みて魚を羨むは、家に帰りて網を結ぶに若かず)」という形でも記されています。「臨淵」「臨河」、「織網」「結網」など、書物や引用によって少しずつ字が違うのですが、伝えたい教えはまったく同じです。
まとめ
「臨淵羨魚」は、うらやむ気持ちそのものを否定する言葉ではありません。その気持ちを「網を編む」という具体的な準備に変えなさい、という前向きな後押しの言葉です。
魚がいる場所がわかっているなら、それはもう大きな収穫です。あとは網を編むだけ。今日うらやましいと感じたことがあれば、そのために必要な「最初のひと編み」を、ぜひ書き出してみてください。

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