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第47番
八重むぐら しげれる宿の さびしきに
人こそ見えね 秋は来にけり
恵慶法師

現代語訳

葎(むぐら)が幾重にも生い茂っている荒れた家は寂しいことだが、人は誰も訪ねて来ないけれど、秋だけはちゃんとやって来たのだなあ。

語句の意味

八重むぐら ――「八重」は幾重にも重なること。「むぐら(葎)」はカナムグラやヤエムグラなどの雑草の総称で、荒れ果てた場所に生い茂る蔓性の植物。

しげれる宿の ――「しげれる」は「茂る」の已然形+完了の助動詞「り」の連体形。「宿」は住居。雑草が生い茂った荒れた家の意。

さびしきに ――「寂しいことであるが」の意。「に」は逆接的なニュアンスを持つ接続助詞。

人こそ見えね ――「人」は訪問者。「こそ〜ね」は係り結びで、「人は誰も見えないけれど」の意。「見えね」は「見ゆ」の未然形+打消の助動詞「ず」の已然形。

秋は来にけり ――「来(き)にけり」は完了の助動詞「ぬ」の連用形+詠嘆の助動詞「けり」。「秋はやって来たのだなあ」の意。

歌の解説

この歌は、荒れ果てた家の秋の風情を詠んだ叙景歌です。41番から46番までの恋の歌が続いた後に、この秋の歌が配置されているのは、百人一首の構成上の妙と言えるでしょう。葎が幾重にも茂った荒れた庭には誰も訪ねて来ないけれど、季節の秋だけは忘れずにやって来た、という内容です。

この歌の舞台は、かつては人が住んでいたであろう家が今は荒れ果てて、雑草に覆われているという場所です。詞書によれば、「荒れたる宿にて秋の暮ごろ詠める」とあり、実際に荒廃した家を訪れた際に詠まれたものとされています。

「人こそ見えね 秋は来にけり」の下の句に、この歌の核心があります。人は来ないけれど秋は来る、という対比が絶妙です。「人」は人間の意思で動くものですから、荒れた家に来ないのは当然のこと。しかし「秋」は自然の摂理として、どんな場所にも等しく訪れます。人の世の無常と、自然の悠久の営みの対照が、静かな感動を呼び起こします。

また、「秋は来にけり」には、単に季節が巡ってきたという事実だけでなく、荒れた家にも秋の気配が漂い始めたことへの気づきと感慨が込められています。虫の声、風の冷たさ、木の葉の色づきなど、秋の到来を告げるさまざまな兆しが、荒廃の中にも確かに感じられたのでしょう。

この歌には、寂寥感の中にある一種の安らぎも感じられます。人に忘れられた場所であっても、自然は変わらずその恵みを与えてくれる。そこに、世俗を離れた僧侶としての恵慶法師の達観が表れているとも読めます。荒廃と秋の美しさという一見矛盾する要素が調和した、味わい深い一首です。

作者について

恵慶法師(えぎょうほうし、生没年不詳、10世紀後半に活動)は、平安時代中期の僧侶・歌人です。播磨国の講師を務めたとされていますが、詳しい経歴は不明です。花山天皇の時代に活躍し、多くの歌合に参加しました。穏やかで叙情的な歌風が特徴で、自然の風景を繊細に描写する作品に優れています。『拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に約30首が入集しています。曾禰好忠や源順など、当時の有力歌人たちと交流がありました。

修辞・表現技法

係り結び ――「人こそ見えね」は「こそ〜ね(已然形)」の係り結びです。係助詞「こそ」が強調と逆接を兼ね、「人は来ないけれど(秋は来た)」という意味のつながりを生み出しています。

対比 ――「人こそ見えね」と「秋は来にけり」の対比がこの歌の核心です。人(人為的なもの)と秋(自然の営み)、来ないものと来るもの、という二項対立が鮮やかに描かれています。

体言止め的効果 ――「さびしきに」で上の句を区切ることで、荒れた家の寂しさを一度読者に印象づけてから、下の句で秋の到来という転換を行っています。

鑑賞のポイント

この歌は、百人一首の中でも秋の寂寥感を最も静かに、そして深く表現した一首です。華やかな恋の歌が続いた後にこの歌が置かれることで、まるで喧騒から離れた静寂の中に身を置いたような感覚が得られます。「八重むぐら」の生い茂る荒れた庭の映像を頭に浮かべながら、そこに秋風が吹き込む瞬間を想像してみてください。人の世の儚さと、自然の変わらぬ営みとの対比に、深い余韻を感じることができるでしょう。