1275年は、東西文明の接触史における画期的な年です。この年、イタリアのヴェネツィア共和国から出発した若き商人マルコ・ポーロが、約3年半の陸路の旅を経て、モンゴル帝国・元の夏の都「上都」(現在の内モンゴル自治区正藍旗付近)に到着し、皇帝フビライ・ハンに謁見しました。当時マルコはまだ21歳の青年でしたが、フビライはこの聡明なヴェネツィア人を気に入り、以後17年にわたって元朝の官吏として重用することになります。
マルコ・ポーロの旅は、父ニッコロと叔父マフェオによる先行旅行に端を発しています。ニッコロとマフェオは1260年代に商用でモンゴル帝国を訪れ、フビライ・ハンに謁見していました。フビライはローマ教皇への親書を彼らに託し、キリスト教の学者100人の派遣を要請しました。1271年、ニッコロとマフェオは17歳のマルコを伴ってヴェネツィアを再出発し、シルクロードを経由して元の領土を目指しました。
この東西交流は、モンゴル帝国がユーラシア大陸を統一した「パクス・モンゴリカ」(モンゴルの平和)の時代だからこそ実現したものでした。モンゴル帝国の駅伝制(ジャムチ)が整備した交通網により、ヨーロッパからアジアへの陸路の旅が比較的安全に行えるようになっていたのです。
旅の背景 ── パクス・モンゴリカの時代
13世紀のユーラシア大陸は、モンゴル帝国という人類史上最大の連続領土帝国によって結ばれていました。チンギス・ハンの孫フビライは1271年に国号を「大元」と改め、中国を中心とする東アジアの支配者として君臨していました。モンゴル帝国は東は太平洋岸から西はポーランド・ハンガリー国境に至る広大な領域を支配し、帝国内の交通路は駅伝制(ジャムチ)によって体系的に整備されていました。
この「パクス・モンゴリカ」の恩恵を受けて、商人・宣教師・外交使節がユーラシア大陸を東西に行き来するようになりました。ヴェネツィアやジェノヴァの商人たちは、中央アジアの交易路を通じて中国の絹・陶磁器・香料といった高価な商品を入手し、莫大な利益を得ていました。マルコ・ポーロ一家の旅も、こうした商業的動機とモンゴル帝国による安全保障があってこそ可能となったのです。
一方、フビライ・ハンもまた西方世界に強い関心を抱いていました。元朝は色目人(ムスリム商人や中央アジアの人々)を財務官僚として積極的に登用しており、異文化に対して開放的な政策を取っていました。フビライがマルコ・ポーロを重用したのも、こうした多民族帝国の特質を反映するものでした。
パクス・モンゴリカ ── 史上最大の自由貿易圏
モンゴル帝国の支配下では、帝国全域にわたる通行証(パイザ)が発行され、商人は比較的安全に旅をすることができました。駅伝制は約30キロメートルごとに中継地を設け、馬の乗り換え・食事・宿泊を提供しました。この交通インフラにより、絹・香辛料・宝石・金属だけでなく、技術・宗教・学問もユーラシア大陸を横断して伝播しました。マルコ・ポーロの旅は、まさにこのモンゴルが創出したグローバルな交通ネットワークの産物でした。
大都への道 ── 3年半のシルクロード踏破
1271年、マルコ・ポーロは父ニッコロ、叔父マフェオとともにヴェネツィアを出発しました。一行はまずアッコン(現イスラエル)に立ち寄り、次いで小アジア(現トルコ)を横断してペルシアのホルムズに至りました。当初は海路で中国を目指す計画でしたが、船の不安全さを見て陸路に変更しました。
一行はペルシア高原を越え、アフガニスタンのバダフシャン地方を通過し、パミール高原を越えてカシュガルに至りました。パミール高原は標高4,000メートルを超える難所であり、高山病に苦しみながらの行軍でした。マルコ自身も途中で病に倒れ、バダフシャンで約1年間の療養を余儀なくされたと伝えられています。
カシュガルからはタクラマカン砂漠の南縁を進むシルクロード南道を辿り、ホータン・敦煌を経て甘粛回廊に入りました。そしてついに1275年の夏、一行はフビライが滞在していた上都に到着しました。ヴェネツィアを出発してから約3年半、走破した距離は約15,000キロメートルに及びました。
フビライとの邂逅 ── 皇帝に認められた青年
上都に到着したマルコ・ポーロ一行は、フビライ・ハンに温かく迎え入れられました。フビライは先にニッコロとマフェオから受け取った親書の返答と、エルサレムの聖墓教会の聖油を確認し、大いに喜んだと伝えられています。しかしフビライが特に関心を示したのは、ニッコロの息子である若きマルコでした。
マルコは語学の才能に恵まれ、旅の途中でモンゴル語・ペルシア語・トルコ語・中国語の4つの言語を習得していたとされます。さらに観察力に優れ、各地の風俗・産物・地理を詳細に記憶する能力を持っていました。フビライはこの聡明な青年を気に入り、元朝の官吏として登用することを決めました。
マルコが到着した1275年の元は、まさに全盛期を迎えていました。大都は人口100万を超える世界最大の都市の一つであり、絹・陶磁器・茶・香料の集散地として空前の繁栄を享受していました。フビライは北京に壮大な宮殿を築き、世界中から商人・学者・宗教者を招いて多文化的な宮廷を形成していました。マルコが目にした元の繁栄は、当時のヨーロッパの都市とは比較にならない規模と洗練を誇るものでした。
元朝での17年 ── 皇帝の耳目として
マルコ・ポーロは元朝で約17年間にわたって活動しました。フビライはマルコを各地への視察官として派遣し、地方の情勢を報告させました。マルコは揚州の行政官を務めたとも伝えられていますが、この点については歴史家の間で議論があります。しかし彼が元朝の行政機構に何らかの役割で関与していたことは、多くの研究者が認めています。
マルコの視察旅行は中国全土に及びました。杭州(南宋の旧都・臨安)を訪れたマルコは、その繁栄ぶりに圧倒され、「世界で最も美しく高貴な都市」と評したと伝えられています。杭州は南宋滅亡後も商業都市として栄えており、人口150万とも言われる巨大都市でした。マルコはまた、中国の紙幣制度・石炭の使用・郵便制度といった、当時のヨーロッパにはない先進的な制度や技術に驚嘆しました。
特にマルコが注目したのは、元朝の紙幣(交鈔)制度でした。桑の木の樹皮から作った紙に皇帝の印章を捺して通貨とするこの制度は、ヨーロッパ人には信じがたいものでした。しかし元朝では紙幣が広く流通し、金銀との兌換も行われていました。この報告は後にヨーロッパの通貨制度にも影響を与えることになります。
さらにマルコは、雲南・ミャンマー方面への軍事遠征にも同行した可能性が指摘されています。フビライの帝国が中国本土にとどまらず、東南アジアにまで影響力を及ぼしていた実態を、マルコは直接目撃していたのです。
マルコが驚嘆した元の先進技術
マルコ・ポーロが記録した元朝の技術・制度は、当時のヨーロッパをはるかに凌ぐものでした。紙幣の流通、石炭(「燃える黒い石」と表現)による暖房と製鉄、郵便制度と駅伝網、運河を利用した大規模な内陸水運、そして火薬を用いた花火や武器など、いずれもヨーロッパでは数世紀後にようやく普及する技術でした。これらの記録は、東洋と西洋の技術格差がいかに大きかったかを如実に示しています。
『東方見聞録』── 西洋世界を変えた一冊
1292年、マルコ・ポーロ一行はフビライの許可を得て帰国の途に就きました。海路でペルシアに向かい、1295年にヴェネツィアに帰着しました。帰国後、ジェノヴァとの戦争で捕虜となったマルコは、獄中で物語作家のルスティケロに自らの体験を口述しました。これが『東方見聞録』(原題『世界の記述』)として知られる書物です。
『東方見聞録』は中国・モンゴル帝国・東南アジア・インド・ペルシアの地理・文化・経済を詳細に記録した画期的な著作でした。特に「ジパング」(日本)を「黄金の国」として紹介した記述は、後のヨーロッパ人に強烈な印象を与えました。マルコ自身は日本を訪れていませんが、元朝で聞いた日本遠征の情報をもとに、日本の豊かさを誇張して伝えたのです。
この書物は当初「百万のウソ」とも呼ばれ、多くの人々に信じてもらえませんでした。しかし15世紀に入ると、クリストファー・コロンブスが『東方見聞録』を愛読し、アジアへの西回り航路の開拓を志すきっかけとなりました。コロンブスが所有していた『東方見聞録』の写本には、多数の書き込みが残されています。こうしてマルコ・ポーロの記録は、大航海時代の幕開けに直接的な影響を及ぼしたのです。
現代の歴史学では、マルコ・ポーロが本当に中国を訪れたのかという疑問も提起されています。中国側の史料にマルコ・ポーロの名前が見当たらないこと、万里の長城や纏足・茶の飲用といった中国の特徴的な文化への言及がないことが根拠として挙げられます。しかし多くの研究者は、彼の記述の正確さ(特に地理・通貨制度・行政制度に関する詳細な記録)から、実際に中国を訪れた可能性が高いと判断しています。
「ジパング」── 黄金の国の伝説
マルコ・ポーロの『東方見聞録』において、日本は「ジパング」として紹介されました。宮殿の屋根が黄金で覆われ、宝石が豊富にあるという誇張された記述は、ヨーロッパ人の東方への憧れを掻き立てました。この「ジパング」の伝説は、2世紀後のコロンブスの航海動機となり、結果的にアメリカ大陸の「発見」につながりました。一人のヴェネツィア商人の体験記が、世界史の流れを大きく変えたのです。日本という国名の西洋での読み方「Japan」は、マルコが記した「ジパング」に由来するとされています。
マルコ・ポーロの来訪 関連年表
| 年代 | 出来事 | 備考 |
|---|---|---|
| 1254年 | マルコ・ポーロ誕生 | ヴェネツィア共和国 |
| 1260年代 | 父ニッコロ・叔父マフェオが元を訪問 | フビライとの最初の接触 |
| 1271年 | マルコを含む一行がヴェネツィアを出発 | フビライの元へ再訪 |
| 1271年 | フビライが国号を「大元」に改める | モンゴル帝国の中国化 |
| 1275年 | マルコ・ポーロが上都に到着 | フビライに謁見 |
| 1275-1292年 | 元朝での17年間の活動 | 各地を視察、官吏として活躍 |
| 1279年 | 崖山の戦いで南宋滅亡 | 元による中国統一完成 |
| 1292年 | 海路で帰国の途に就く | ペルシア経由でヴェネツィアへ |
| 1295年 | ヴェネツィアに帰着 | 約24年ぶりの帰国 |
| 1298年頃 | 獄中で『東方見聞録』を口述 | ルスティケロが筆記 |
| 1324年 | マルコ・ポーロ死去 | 享年70歳 |