AD 279

六路の大軍
伐呉作戦の発動

279年、西晋の武帝・司馬炎はついに呉討伐の大号令を発した。20万の大軍を六つの進撃路に分け、長江上流から下流まで同時に攻め入る壮大な作戦。杜預と王濬が練り上げた三国統一の最終作戦が、いよいよ始動する。

279年は、三国時代の終幕へ向けた決定的な一年です。西晋の武帝・司馬炎は、十数年にわたる準備の末、ついに呉への総攻撃を命じました。総兵力20万余を六つの進撃路に分割し、長江の上流・中流・下流から同時に呉領へ雪崩れ込む空前の大作戦が発動されたのです。

この伐呉作戦の立案と推進において中心的な役割を果たしたのが、荊州方面軍を指揮する杜預と、益州で巨大な水軍を建造してきた王濬でした。杜預は「今こそ攻撃の好機」と繰り返し上奏し、朝廷の消極論を押し切って開戦に漕ぎつけました。王濬は蜀の地で密かに数千艘の戦船を建造し、長江を一気に東下して建業(現在の南京)を衝く大胆な作戦を温めていました。

三国時代の最後を飾る伐呉作戦は、単なる軍事行動にとどまらず、60年にわたる分裂の時代に終止符を打つ歴史的事業でした。曹操が赤壁で果たせなかった天下統一の夢を、晋が実現しようとしていたのです。この壮大な作戦の背景と全容を詳しく見ていきましょう。

このページでは、伐呉作戦が発動されるまでの政治的背景、朝廷における開戦論争、六路の軍の具体的な配置、そして杜預・王濬それぞれの戦略構想を詳しく解説します。

伐呉の背景 ── 三国最後の対決へ

263年に蜀漢が滅亡し、265年に司馬炎が魏の禅譲を受けて西晋を建国した後、天下統一の最後の障害として残されたのが江南の呉でした。呉は孫権以来、長江の天然の要害を利用して独立を保ってきましたが、270年代に入ると急速に国力が衰退していきました。

呉の末帝・孫皓は暴虐な君主として知られ、酒宴に明け暮れて政治を顧みず、諫言する臣下を次々と処刑しました。宮殿の増築や遷都の繰り返しは国庫を枯渇させ、民衆の怨嗟は頂点に達していました。かつて呉を支えた名将・陸遜の子である陸抗が西陵方面を守備していましたが、273年に陸抗が病没すると、呉の防衛体制は深刻な弱体化を免れませんでした。

一方の西晋は、蜀漢を併合した後に国力を急速に増大させていました。旧蜀の地を支配下に収めたことで、長江の上流域を掌握するという戦略的優位を獲得しました。これは赤壁の戦い当時の曹操にはなかった決定的な利点でした。長江上流から大軍を東下させれば、呉の長江防衛線を背後から突き崩すことができるのです。

人物像

呉の末帝・孫皓の暴政

孫皓は孫権の孫にあたり、264年に即位しました。即位当初は名君の兆しを見せましたが、やがて残忍な本性を現します。気に入らない臣下の顔の皮を剥がせ、宴席では臣下に無理やり酒を飲ませて泥酔させることを楽しみました。後宮には数千人の女性を囲い、民間から美女を徴発し続けました。陸抗が長江防衛の増援を求めても聞き入れず、国防よりも遊興を優先しました。呉の滅亡は外からの侵攻よりも内からの崩壊が先んじていたのです。

孫皓暴君呉の衰退陸抗内部崩壊

朝廷の論争 ── 開戦か慎重か

西晋の朝廷では、呉への攻撃を巡って激しい論争が繰り広げられていました。積極的に開戦を主張したのは、羊祜(ようこ)、杜預、張華らでした。羊祜は荊州に駐屯して呉との国境を守備しながら、長年にわたって伐呉の準備を進めてきた人物です。彼は呉の孫皓の暴政によって人心が離反している今こそ攻撃の好機であると力説しました。

これに対して、賈充や荀勖らは慎重論を唱えました。かつて曹操が赤壁で大敗したように、長江を渡る戦いには大きなリスクが伴うこと、西北方面で鮮卑族の脅威があること、国内の安定を優先すべきであることなどを理由に挙げました。賈充に至っては「呉を攻めれば必ず失敗する。失敗した場合、主戦論者は責任を取れるのか」と強硬に反対しました。

論争の転機となったのは、278年に羊祜が病没し、後任として杜預が荊州方面の総司令官に任命されたことでした。杜預は着任するや矢継ぎ早に上奏し、呉の防衛体制が日に日に弱体化していること、今を逃せば二度と好機は訪れないことを具体的な情報とともに武帝に訴えました。武帝はついに決断を下し、279年11月、伐呉の詔勅が発せられたのです。

今日は明日にも勝り、明日は明後日にも勝る。呉の衰退は日に日に進んでいる。今攻めずしていつ攻めるのか。 ── 杜預の上奏(伐呉を主張した際の趣旨)

六路の配置 ── 史上空前の包囲作戦

279年11月に発動された伐呉作戦は、20万の大軍を六つの進撃路に分けるという壮大な規模でした。これは中国軍事史上においても屈指の大規模な多方面同時作戦であり、呉の防衛線を全面的に圧倒することを目的としていました。

第一路は鎮南大将軍・杜預が率いる荊州方面軍で、江陵を目標に南下しました。第二路は安東将軍・王渾が率いる揚州方面軍で、横江(現在の安徽省和県付近)から長江北岸を進みました。第三路は建威将軍・王戎が率い、武昌方面へ進撃しました。第四路は平南将軍・胡奮が率い、夏口方面を攻撃しました。第五路は都督・司馬伷が率い、涂中から建業への直接攻撃を狙いました。そして最も重要な第六路が、龍驤将軍・王濬が率いる水軍で、益州から長江を東下して建業を目指しました。

この六路の配置の要諦は、呉の長江防衛線を正面と側面から同時に攻撃しつつ、王濬の水軍が上流から長江を下って防衛線を内側から崩すという挟撃にありました。呉の兵力は分散を余儀なくされ、いずれか一点でも突破されれば全線が瓦解する構図が作られたのです。

戦略分析

赤壁の教訓を生かした作戦設計

伐呉作戦の設計には、71年前の赤壁の戦いにおける曹操の敗因が明確に反映されていました。曹操は単一の進撃路で長江を渡ろうとし、火攻めの一撃で大敗しました。これに対し西晋は六路に兵力を分散し、一方面が阻止されても他方面から突破できる態勢を整えました。さらに決定的な差異は、長江上流からの水軍による東下作戦です。曹操が持ち得なかった益州という戦略拠点を活用し、呉の長江防衛線を上流から破る構想は、羊祜と杜預が長年温めてきた秘策でした。

六路進撃赤壁の教訓多方面作戦長江防衛線挟撃戦略

杜預の戦略 ── 「破竹の勢い」の名将

杜預は西晋屈指の知将であり、文武両道の才人として知られていました。京兆杜氏の名門に生まれ、『春秋左氏伝』の研究者としても著名で、「左伝癖」と呼ばれるほどの学者でもありました。その一方で軍略にも長じ、羊祜亡き後の荊州方面軍を統率する大任を託されたのです。

杜預の作戦構想は、まず江陵(現在の湖北省荊州市)を攻略して呉の中流域の拠点を制圧し、それによって王濬の水軍が安全に長江を東下できる航路を確保するというものでした。江陵は呉の西方防衛の要であり、ここを落とすことで呉の防衛線に致命的な穴が開くことになります。

杜預は自軍を率いて江陵に迫ると、まず周辺の小城を次々と攻略して呉軍の連携を断ち切りました。呉の将兵の多くは戦意を喪失しており、降伏が相次ぎました。杜預は降伏者を手厚く遇し、その噂が広まることでさらに降伏者が増えるという好循環を生み出しました。まさに知略と仁政を兼ね備えた名将ぶりでした。

故事成語

「破竹の勢い」── 杜預が生んだ名言

江陵攻略後、一部の将領が「春になると疫病が流行するので一旦退却すべき」と進言しました。これに対して杜預は「今や我が軍の勢いは竹を割るが如し。最初の数節を割れば、あとは刃を当てるだけで自然に裂けていく。もはや停止する理由はない」と述べ、追撃を命じました。この言葉が「破竹の勢い」の語源となりました。勢いに乗った時に立ち止まることなく一気に目標を達成すべきだという教訓は、2000年を経た現代でもビジネスや日常で広く使われています。

破竹の勢い杜預故事成語江陵攻略追撃の決断

王濬の準備 ── 益州に眠る巨大水軍

伐呉作戦の最大の切り札は、益州で密かに建造されていた王濬の大水軍でした。王濬は早くから「蜀の地から長江を下って呉を滅ぼす」という構想を持ち、270年頃から益州で大規模な造船を開始していました。その準備期間は実に10年近くに及びます。

王濬が建造した戦船の中でも特に巨大だったのが「楼船」と呼ばれる大型艦です。最大のものは甲板に木造の城郭を載せ、一隻で2000人以上を収容できたと伝えられます。船体は頑丈な木材で造られ、長江の激流にも耐える堅牢さを誇りました。こうした楼船を含む艦隊は数千隻に達し、水兵と搭乗する歩兵を合わせた兵力は数万に上りました。

王濬の造船事業は秘密裏に進められましたが、完全に秘匿することは不可能でした。長江に流れ出た木屑が下流で発見され、呉の将領・吾彦は「上流で大規模な造船が行われている。呉に対する攻撃準備に違いない」と孫皓に警告しました。しかし孫皓はこの警告を無視し、何の対策も講じませんでした。呉の命運は、この時すでに決していたとも言えるでしょう。

軍事技術

楼船 ── 古代中国の巨大戦艦

楼船は中国古代における最大級の水上兵器でした。船上に数層の楼閣を築き、弩砲や投石機を備え、まさに水上の城塞でした。王濬の楼船は特に巨大で、四方に木造の城壁を巡らせ、城門まで設けられていたといいます。こうした楼船が数十隻連なって長江を東下する光景は、呉の将兵を恐怖に陥れるに十分な威容でした。楼船は長江における制水権を確保するための決戦兵器であり、王濬が10年の歳月をかけて準備した伐呉作戦の核心をなすものでした。

楼船王濬水軍益州造船古代水上戦

伐呉作戦 関連年表

年代出来事備考
263年蜀漢の滅亡西晋が益州を獲得
265年西晋の建国司馬炎が魏から禅譲を受ける
269年頃羊祜が伐呉を建議荊州方面から開戦を主張
270年頃王濬が益州で造船開始大規模な楼船の建造
272年西陵の戦い陸抗が呉の内乱を鎮圧
273年陸抗の病没呉の名将が世を去る
278年羊祜の病没・杜預が後任に伐呉推進派が指揮権を継承
279年11月伐呉の詔勅が発せられる六路20万の大軍が出撃