219年は、三国時代の歴史において関羽という英雄が最も輝いた年であり、同時にその栄光が頂点から一気に転落する運命の年でもありました。この年の夏、荊州を守備する関羽は北上して曹操領の樊城を攻撃し、秋の大雨による漢水の増水を巧みに利用して曹操の救援軍を壊滅させました。世に言う「水淹七軍」の戦いです。
関羽は劉備の義弟にして蜀漢きっての猛将であり、荊州方面の全軍事権を委ねられていました。219年の初め、劉備が漢中を攻略して漢中王を称すると、関羽も呼応するように北伐を開始しました。その目的は曹操の南方拠点である樊城と襄陽を攻略し、隆中対に描かれた荊州方面からの北上という戦略を実現することにありました。
関羽の北伐は当初、目覚ましい成果を上げました。曹操が派遣した救援軍の総大将・于禁は降伏し、副将の龐徳は斬首され、樊城の守将・曹仁は城内に孤立しました。関羽の武威は中原全域を震撼させ、曹操は許都からの遷都を真剣に検討するほどでした。しかしこの華々しい勝利の陰で、呉の孫権と呂蒙が密かに荊州奪取の計画を進めていたのです。
北伐の背景 ── 漢中攻略と関羽の決断
219年の関羽の北伐を理解するためには、まず劉備陣営全体の戦略状況を把握する必要があります。この年の春、劉備は漢中をめぐる戦いで曹操軍の主力を撃破しました。定軍山の戦いで黄忠が曹操の重臣・夏侯淵を討ち取り、劉備はついに漢中の支配権を獲得しました。劉備は漢中王を名乗り、蜀漢政権の基盤を固めつつありました。
諸葛亮が隆中対で描いた天下三分の計では、天下に変動があったとき、一軍を荊州から宛・洛陽方面に北上させ、本軍は益州から関中に出撃するという二方面作戦が構想されていました。漢中攻略の成功は、この壮大な戦略を実行に移す好機でした。関羽が荊州から北伐を開始したのは、こうした全体戦略の一環として理解することができます。
ただし、関羽の北伐が劉備や諸葛亮からの明確な指令に基づくものであったかどうかは、歴史家の間で議論が分かれています。正史『三国志』には劉備から関羽への出撃命令の記録がなく、関羽が独自の判断で北伐を開始した可能性も指摘されています。関羽は勇猛果敢で自尊心が極めて高い武将であり、漢中での劉備の勝利に触発されて、荊州方面でも戦果を挙げようとしたのかもしれません。
いずれにせよ、219年の夏、関羽は荊州の兵力を率いて北上を開始しました。攻撃目標は曹操の南方最大の拠点である樊城と、その対岸に位置する襄陽でした。樊城は漢水の北岸に位置し、曹仁が守将として堅固な防御を固めていました。関羽は水軍の優位を活かし、まず漢水を利用して樊城を包囲する作戦に出ました。
隆中対と荊州北伐の位置づけ
諸葛亮の隆中対では、荊州と益州の二方面から同時に北伐を行うことが天下統一の鍵とされていました。関羽の樊城攻めは、まさにこの構想の荊州方面の実行にあたります。しかし劉備の漢中攻略軍は長期戦で疲弊しており、二方面の連携が十分でなかった可能性があります。荊州方面の関羽が単独で突出する形になったことが、後の悲劇の遠因ともなりました。戦略の理想と実行のタイミングの難しさを物語る事例です。
樊城の攻囲 ── 曹仁との攻防
関羽が率いた北伐軍の規模は正確には不明ですが、荊州方面の主力部隊数万の兵力であったと考えられています。関羽は漢水を渡って樊城を包囲し、同時に襄陽方面にも圧力をかけました。樊城を守る曹仁は曹操の一族であり、勇猛で知られた歴戦の将軍でした。曹仁は城門を固く閉ざして籠城戦の構えをとり、曹操に救援を要請しました。
関羽の攻撃は激烈でしたが、樊城は堅固な城郭であり、曹仁の守りも巧みでした。攻城戦は長期化の様相を呈し始めました。関羽は城の周囲に幾重もの包囲陣を敷き、樊城への補給路を遮断しようとしました。漢水に展開した関羽の水軍は、河川交通を完全に支配し、曹仁軍を陸上から孤立させることに成功しつつありました。
曹操はこの危機に対し、于禁を総大将、龐徳を先鋒として救援軍を派遣しました。于禁は曹操の古参の将であり、厳格な軍律で知られ、曹操軍の中でも最も信頼される将軍の一人でした。于禁に託された七軍は、曹操軍の精鋭部隊であり、兵力は三万とも言われています。龐徳は馬超の旧臣で武勇に優れ、関羽との一騎打ちも辞さない気概を持っていました。
于禁の救援軍が樊城の北方に到着すると、関羽は樊城の攻囲を維持しながら、于禁軍とも対峙する二正面の戦いを強いられることになりました。しかし関羽はこの状況を逆手に取り、天候と地形を最大限に利用する大胆な作戦を構想していました。それが漢水の増水を利用した水攻めでした。
于禁 ── 曹操軍の柱石
于禁は曹操に仕えて三十年、数々の戦功を挙げた歴戦の名将でした。厳格な軍律で知られ、曹操からは「于禁の統率力は古の名将にも劣らない」と評されたほどです。しかし樊城の戦いでの降伏は、于禁の名声を完全に失墜させました。後に呉から送還された于禁は、曹丕から屈辱的な扱いを受け、恥辱のうちに病没したと伝えられています。三十年の忠勤が一度の降伏で消え去るという、武人の名誉の厳しさを象徴する人物です。
水淹七軍 ── 天が関羽に味方した日
219年の秋、樊城一帯は連日の大雨に見舞われました。漢水は増水を続け、周辺の低地は次第に水没していきました。于禁は救援軍を樊城の北方、漢水沿いの低地に駐屯させていました。龐徳は于禁に対して高地への移動を進言しましたが、于禁はこれを退けたとされています。
関羽は長年の荊州での経験から、この地域の水文に精通していました。秋の長雨が続けば漢水が大増水を起こすことを熟知していた関羽は、あらかじめ水軍と船団を準備し、増水の機会を虎視眈々と狙っていました。そしてついにその時が訪れました。漢水が一気に氾濫し、于禁の七軍が駐屯する低地は濁流に飲み込まれたのです。
洪水は于禁軍を壊滅的に打ちのめしました。兵士たちは高い場所を求めて右往左往しましたが、水はとどまることなく増え続けました。関羽は準備していた船団を出撃させ、水上から于禁軍を攻撃しました。逃げ場を失った于禁軍の兵士たちは、溺死するか、関羽軍に降伏するかの二択を迫られました。于禁は数日間抵抗を試みましたが、最終的に全軍とともに関羽に降伏しました。三万の精鋭が一夜にして壊滅したのです。
一方、龐徳は降伏を拒否して最後まで戦い続けました。龐徳は堤の上で関羽軍と激闘を繰り広げ、弓矢が尽きると白兵戦で応じました。しかし水が堤をも越え、龐徳は小舟に乗って脱出を図りましたが、関羽軍に捕らえられました。関羽は龐徳の武勇を惜しんで降伏を勧めましたが、龐徳は「魏王の臣として死ぬことはできても、賊将に降ることはできない」と拒否し、斬首されました。この龐徳の忠義は後世に大いに称えられ、于禁の降伏との対比で語られることになります。
曹操の動揺 ── 遷都の検討
水淹七軍の報せは、曹操を深く動揺させました。于禁は曹操が最も信頼する将軍の一人であり、その于禁が全軍とともに降伏したという事実は、曹操にとって大きな衝撃でした。曹操は「于禁と三十年来の付き合いだが、まさか龐徳にも劣るとは」と嘆息したと伝えられています。
関羽の勝利の影響は、軍事的な側面にとどまりませんでした。曹操の支配領域内では、関羽の威名に呼応する形で各地に反乱の気運が高まりました。許都の南に位置する梁・郟・陸渾の群盗たちが関羽に呼応して蜂起し、関羽から将印を受けて曹操の後方を撹乱しました。曹操の支配体制が根底から揺らぎかねない危機的状況でした。
この事態を受けて、曹操は首都・許都から鄴城への遷都を真剣に検討しました。許都は関羽の北上路線上にあり、もし樊城が陥落すれば、許都は直接的な脅威にさらされるからです。しかし司馬懿と蒋済がこれに反対し、孫権を利用して関羽の背後を突かせることを献策しました。司馬懿は「孫権は必ずしも関羽に好意的ではない。関羽が勝てば孫権にとっても脅威になる。孫権に荊州を攻めさせれば、関羽は自ずと退くだろう」と進言したのです。
曹操はこの策を採用し、孫権に密使を送って荊州攻撃を促しました。同時に徐晃を新たな救援軍の指揮官として樊城方面に派遣しました。曹操自らも洛陽に進出して前線の指揮に当たる構えを見せ、関羽に対する包囲網が徐々に形成されていきました。関羽の最大の勝利が、同時に最大の危機の始まりとなったのです。
司馬懿 ── 三国を終わらせる男の初手
関羽の北伐に際して孫権との連携を献策した司馬懿は、この時まだ曹操の幕僚の一人に過ぎませんでした。しかしこの的確な献策は、司馬懿の卓越した戦略眼を示す初期の事例として注目されます。関羽という当面の脅威を、自軍の兵力を消耗させることなく排除するという発想は、後に司馬懿が蜀漢の諸葛亮に対して採用する持久戦略にも通じるものがあります。三国時代を最終的に終わらせる司馬氏の台頭は、この219年の献策から既に始まっていたとも言えるでしょう。
栄光の頂点と破滅の予兆
水淹七軍の直後、関羽の勢力は最大に達しました。于禁の降兵三万を加えた関羽軍は、樊城の包囲をさらに強固にし、曹仁は絶体絶命の危機に陥りました。曹仁の部下の中には降伏を勧める者もいましたが、満寵が「関羽が全力を傾注しているのは一時的なもの。援軍が来るまで持ちこたえるべきだ」と進言し、曹仁は籠城を続けました。
しかし関羽の栄光の裏には、いくつかの深刻な問題が潜んでいました。第一に、于禁の降兵三万を養うための食糧が不足していました。関羽は呉との国境地帯に設置された食糧貯蔵庫を独断で接収し、これが孫権を激怒させる直接的な原因となりました。第二に、荊州の守備を手薄にして北伐に全力を傾けたため、背後が無防備な状態になっていました。
第三に、関羽の高慢な態度が外交的な孤立を招いていました。孫権が息子と関羽の娘の婚姻を提案した際、関羽は「虎の娘を犬の子に嫁がせるわけにはいかぬ」と使者を罵倒して追い返しました。この侮辱が孫権の怒りを決定的なものにし、呉が荊州を奪取する決断を促したのです。
また、荊州に残した留守部隊の将である糜芳と傅士仁に対しても、関羽は日頃から冷淡な態度をとっていました。関羽は前線への兵站支援が不十分だと二人を叱責し、「帰還後に処罰する」と脅しました。これが二人を呉への投降に走らせる遠因となりました。軍事的な天才であった関羽でしたが、外交と人間関係における致命的な欠陥が、その破滅を招くことになります。
勝利の中に潜む敗因 ── 関羽の限界
関羽の樊城攻めは、軍事的な勝利が必ずしも戦略的な成功に繋がらないことを示す典型的な事例です。水淹七軍は戦術的な大勝利でしたが、兵站の問題、外交の失敗、背後の無防備という戦略的な欠陥を補うことはできませんでした。関羽は戦場の英雄でしたが、政治家としての器量を持ち合わせていなかったのです。曹操が于禁に七軍を託したのと同様、劉備が荊州方面の全権を関羽一人に委ねたことも、組織論的な問題を含んでいました。
関羽の樊城攻め 関連年表
| 年代 | 出来事 | 備考 |
|---|---|---|
| 219年春 | 劉備、漢中を攻略 | 定軍山で夏侯淵を討つ |
| 219年夏 | 劉備、漢中王を称する | 関羽を前将軍に任命 |
| 219年夏 | 関羽、樊城攻めを開始 | 曹仁が樊城で籠城 |
| 219年秋 | 于禁・龐徳の救援軍到着 | 七軍を率いて樊城へ |
| 219年秋 | 大雨による漢水の増水 | 于禁軍の駐屯地が水没 |
| 219年秋 | 水淹七軍 ── 于禁降伏・龐徳斬首 | 関羽の威、華夏を震わす |
| 219年秋 | 曹操、遷都を検討 | 司馬懿・蒋済が反対 |
| 219年秋 | 曹操、孫権に荊州攻撃を促す | 徐晃を救援軍として派遣 |
| 219年冬 | 徐晃、関羽軍を撃破 | 樊城の包囲が解かれる |