AD 214

成都の陥落
蜀の確立

214年、劉備は約3年に及ぶ益州攻略戦を完遂し、成都を陥落させて劉璋を降伏させた。荊州と益州の二州を手にした劉備は、ついに三国の一角を占める基盤を完成させる。

214年は、劉備がついに益州全土を掌握し、三国鼎立の一角を確立した画期的な年です。211年に劉璋の招きで益州に入り、212年に劉璋と決裂して以降、劉備は約2年にわたる激戦を経て成都を攻略しました。この過程で劉備は、軍師・龐統を落鳳坡で失うという大きな犠牲を払いながらも、最終的には荊州から派遣された諸葛亮・張飛・趙雲の援軍と合流し、圧倒的な戦力で成都を包囲して劉璋の降伏を勝ち取りました。

成都の陥落は、諸葛亮が隆中対で描いた天下三分の計の根幹部分が実現したことを意味します。劉備は荊州と益州という二つの戦略的拠点を手に入れ、西の蜀と東の荊州から二方面作戦を展開できる態勢を整えました。これは曹操の魏、孫権の呉と並ぶ第三の勢力として、劉備が天下の覇を競う資格を得たことを示しています。

しかし成都の攻略は、劉備にとって新たな課題の始まりでもありました。益州の統治を安定させること、荊州との連携を維持すること、そして曹操と孫権という二大勢力との外交関係を適切に管理すること。これらの課題への対応が、以後の蜀漢の命運を左右することになるのです。

このページでは、劉璋との決裂後の軍事作戦、龐統の戦死、諸葛亮・張飛・趙雲の援軍派遣、成都包囲と劉璋の降伏、そして劉備による益州統治の開始までを詳しく解説します。

進撃開始 ── 劉璋軍との激闘

212年末、劉備と劉璋の決裂が決定的となると、劉備は葭萌関から南下を開始しました。劉備軍の第一の目標は、成都への進撃路上にある要衝・涪城の攻略でした。劉璋は涪城の防衛に劉璝・泠苞・張任・鄧賢らの将を派遣しましたが、劉備軍は涪城を攻略し、さらに南の綿竹へと進撃しました。

綿竹の戦いは、益州攻略戦の中でも重要な転換点となりました。劉璋は綿竹の守備に李厳を派遣しましたが、李厳は劉備の人物を見極めた上で、部下とともに劉備に降伏しました。李厳は後に蜀漢の重臣として劉備と諸葛亮に仕えることになる有能な人物であり、彼の降伏は益州の文官・武官の間で劉備への支持が広がっていることを示す象徴的な出来事でした。

しかし劉璋軍のすべてが容易に降伏したわけではありません。特に雒城(現在の四川省広漢市)の攻防戦は約一年にわたる長期戦となりました。雒城は成都の北方約40キロに位置する要衝であり、ここを突破しなければ成都への進撃は不可能でした。劉璋配下の張任は勇猛果敢な将であり、雒城の防衛に全力を注ぎました。

雒城の戦いでは、劉備軍は幾度も攻撃を仕掛けましたが、張任の頑強な抵抗に阻まれて容易には陥落させることができませんでした。攻城戦は消耗戦の様相を呈し、劉備軍にも少なくない損害が出ました。そしてこの雒城の攻防戦のさなかに、劉備は最も信頼する軍師の一人を失うことになるのです。

人物像

張任 ── 忠義を貫いた敗将

張任は蜀郡の人で、家柄は低かったものの勇猛さと志の高さで知られていました。劉備軍の猛攻に対して最も頑強に抵抗した将であり、雒城の防衛では卓越した指揮能力を発揮しました。雒城陥落後に捕らえられた張任は、劉備が降伏を勧めたにもかかわらず「老臣は二君に仕えず」と言い放ち、処刑を受け入れました。劉備はその忠義に感嘆し、深く嘆いたと伝えられています。敗れてなお気高さを失わなかった張任の姿は、三国時代の忠臣の鑑として語り継がれています。

張任忠義雒城防衛不屈蜀郡の人

龐統の戦死 ── 鳳雛、落鳳坡に散る

雒城の攻防戦の最中、劉備軍は取り返しのつかない損失を被りました。軍師中郎将・龐統が流れ矢に当たって戦死したのです。龐統は字を士元といい、諸葛亮と並んで「鳳雛」と称された天才軍師でした。入蜀において劉備の最も頼りとする参謀であった龐統の死は、劉備にとって計り知れない打撃でした。

龐統は諸葛亮とは異なるタイプの軍師でした。諸葛亮が慎重で緻密な戦略を好んだのに対し、龐統は大胆で機略に富んだ作戦を得意としていました。入蜀の開始時、龐統は劉備に対して上中下の三策を提示しました。上策は直ちに成都を急襲すること、中策は楊懐・高沛を誘い出して軍を奪い白水関を押さえること、下策は荊州に撤退することでした。劉備は中策を採用し、益州北部の制圧に成功しています。

『三国志演義』では、龐統の死は「落鳳坡」という地名と結びつけられ、より劇的に描かれています。龐統が劉備の白馬に乗っていたため、劉備と間違えられて集中的に矢を射かけられたという物語は、読者の涙を誘う名場面の一つです。正史では死因について詳細な記述はありませんが、雒城攻略戦で矢に当たって戦死したという基本的事実は一致しています。享年36歳でした。

龐統の死は、入蜀の作戦に深刻な影響を与えました。劉備は主力軍の指揮を取りながら戦略的判断も自ら下さなければならない状況に追い込まれました。この困難な状況が、荊州から諸葛亮・張飛・趙雲の援軍を呼び寄せるという大きな決断につながるのです。

統の死を聞くや、劉備は極めて痛惜した。言及するたびに涙を流したという。 ── 『三国志』蜀書・龐統伝の趣旨

援軍到着 ── 諸葛亮・張飛・趙雲の入蜀

龐統の戦死を受けて、劉備は荊州に駐屯する諸葛亮に援軍の派遣を要請しました。これは重大な決断でした。諸葛亮が益州に向かえば、荊州の防衛は関羽一人に委ねられることになるからです。しかし益州の攻略が停滞している以上、諸葛亮の参謀能力と追加兵力は不可欠でした。

諸葛亮は張飛・趙雲を率いて荊州を出発し、長江を遡って益州に入りました。諸葛亮軍は三路に分かれて進撃し、沿道の城を次々と攻略していきました。張飛は巴西郡(現在の四川省閬中市付近)を制圧する際に、劉璋配下の厳顔と対峙しました。厳顔は老将でありながら勇猛さで知られ、張飛の猛攻に対して頑強に抵抗しました。

張飛は計略を用いて厳顔を生け捕りにしましたが、厳顔は「我が州には首を斬られる将はいるが、降る将はいない」と堂々と言い放ちました。張飛はその気概に感服し、自ら縄を解いて厳顔を上賓として遇しました。厳顔は張飛の度量に感じ入り、以後は劉備軍に協力して益州の攻略に大きく貢献しました。この逸話は、張飛が単なる猛将ではなく、人心を掌握する能力も持った将であったことを示しています。

趙雲もまた別路から進撃し、江陽(現在の四川省瀘州市)方面を制圧しました。諸葛亮・張飛・趙雲の三軍は、それぞれ異なるルートから成都に向かって進撃し、沿道の城を次々と陥落させていきました。この三方向からの同時進撃は、劉璋軍の防衛体制を完全に崩壊させました。援軍の到着により、劉備軍の総兵力は大幅に増強され、成都攻略の態勢が整ったのです。

逸話

張飛と厳顔 ── 義釈厳顔

張飛が厳顔を捕らえた際のやり取りは、三国時代を代表する名場面の一つです。張飛が「大軍が来たのになぜ降伏せず、あえて戦ったのか」と問い詰めると、厳顔は怒気を込めて「お前たちこそ無礼にも我が州を侵した。我が州には首を斬られる将はいても、降伏する将はいない」と答えました。この毅然とした態度に張飛は大いに感服し、自ら縄を解いて厳顔を客人として遇しました。張飛といえば粗暴な猛将の印象が強いですが、この逸話は彼が敵将の忠義と勇気を認める器量を持っていたことを示しています。厳顔はその後、劉備軍の道案内として益州攻略に貢献しました。

張飛厳顔義釈巴西郡忠義と勇気

成都包囲 ── 劉璋の降伏

214年、劉備軍は雒城を陥落させた後、ついに成都の包囲に取りかかりました。諸葛亮・張飛・趙雲の援軍と合流した劉備軍は圧倒的な兵力を誇り、成都は四方を完全に包囲されました。城内の劉璋軍にはまだ精兵三万と食糧の備蓄がありましたが、援軍の見込みはなく、士気は著しく低下していました。

劉璋の配下からも降伏を勧める声が相次ぎました。馬超がこの時期に劉備のもとに投降してきたことも、劉璋にとっては大きな衝撃でした。馬超は涼州の豪族として武名を天下に轟かせた人物であり、かつて曹操をも追い詰めた猛将です。その馬超が劉備軍に加わって成都の北方に陣を敷いたことで、城内の動揺は一気に広がりました。

包囲が続く中で、劉璋は配下の意見を聞きました。主戦派は城内の兵力と食糧をもって籠城を主張しましたが、降伏派は無益な抵抗で民を苦しめるべきではないと訴えました。劉璋は優柔不断な人物でしたが、この場面では民の苦しみを慮る温情を見せました。

最終的に劉璋は「父子ともに益州の民に20年余りの恩義を施してきたが、戦いのために民を三年にわたり苦しめた。これ以上は忍びない」と述べて降伏を決意しました。劉璋は城門を開いて劉備に降り、益州の支配権を明け渡しました。劉備は劉璋を荊州の南郡に移し、財物を安堵しました。こうして益州は劉備の手に落ち、三国鼎立の基盤が完成したのです。

人物像

馬超 ── 西涼の錦馬超

馬超は涼州の名家・馬騰の子であり、「錦馬超」の異名で知られた武勇の将でした。211年に曹操に反旗を翻し、潼関の戦いでは曹操を切羽詰まらせるほどの猛攻を見せましたが、最終的には曹操の離間策に敗れて敗走しました。各地を流浪した末に劉備のもとに身を寄せた馬超は、成都攻略の最終段階で大きな役割を果たしました。涼州の英雄として名声の高い馬超が劉備軍に加わったことは、劉璋の戦意を挫く決定的な要因の一つとなりました。馬超は後に蜀漢の五虎大将軍の一人として数えられますが、蜀における後半生は病を得て比較的静かなものだったと伝えられています。

馬超錦馬超西涼潼関の戦い五虎大将軍

益州統治の開始 ── 蜀漢の礎

成都を手に入れた劉備は、直ちに益州の統治体制の構築に着手しました。劉備は自らを益州牧と称し、法正を蜀郡太守兼揚武将軍に、諸葛亮を軍師将軍に、関羽を荊州の統括に任じるなど、文武百官の人事を整えました。特に注目すべきは、劉璋の旧臣を積極的に登用した点です。劉備は勝者の驕りを見せることなく、益州の地元勢力を取り込むことで統治の安定を図りました。

諸葛亮は益州の法制度の整備に取り組みました。劉璋の治世下では法の執行が緩やかで、地方の豪族が好き勝手に振る舞う風潮がありました。諸葛亮は厳格な法治主義を導入し、法を犯す者は地位の高低を問わず厳しく罰しました。これに対して「恩恵を施してから厳しくすべきだ」という反対意見もありましたが、諸葛亮は「劉璋が法を緩くしたからこそ益州は乱れた。今こそ法を正し、恩威を並び行うべきだ」と論じて改革を推し進めました。

経済面では、劉備は入蜀直後に深刻な財政難に直面しました。長年の戦費で府庫は枯渇しており、将兵への恩賞も十分に支払えない状態でした。このとき劉巴が「直百五銖銭」という大型銅銭の鋳造を提案し、市場の物価統制と組み合わせることで財政を立て直すことに成功しました。この貨幣政策は一種のインフレ政策でしたが、短期的には軍費の調達に大きく貢献しました。

こうして劉備は益州という豊かな大地を基盤として、蜀漢建国への道を歩み始めました。荊州と益州を領有する劉備の勢力は、曹操の魏と孫権の呉に匹敵する三国の一角として、その存在感を天下に示すことになります。214年の成都陥落は、三国時代の幕開けを告げる決定的な出来事であったのです。

政治分析

諸葛亮の法治主義 ── 蜀漢統治の原則

諸葛亮が益州で推し進めた厳格な法治主義は、蜀漢の統治理念の根幹となりました。諸葛亮は「法を執行するには公平無私でなければならない」という信念を持ち、自らの側近であっても法を犯せば容赦なく処罰しました。後に馬謖を泣いて斬った「泣いて馬謖を斬る」の故事は、この法治主義の極致を示すものです。諸葛亮の法治は厳しくも公平であったため、処罰された者さえもその公正さを認めて恨みを抱かなかったと伝えられています。この「厳而不残」(厳しくとも残酷ではない)という統治姿勢こそが、蜀漢という小国が大国・魏と半世紀にわたって対峙できた最大の要因でした。

法治主義諸葛亮蜀漢統治公平無私厳而不残

成都陥落 関連年表

年代出来事備考
212年劉備と劉璋が決裂張松の内通発覚が契機
212年劉備、涪城・綿竹を攻略李厳が劉備に降伏
213年雒城の攻防戦(約1年)張任が頑強に抵抗
213年龐統、雒城攻略中に戦死享年36歳、流れ矢に倒れる
213年諸葛亮・張飛・趙雲が荊州から出発関羽が荊州を単独で守備
214年張飛、厳顔を捕え義釈巴西郡を制圧
214年雒城陥落、張任処刑成都への道が開かれる
214年馬超が劉備に投降成都北方に陣を敷く
214年劉璋降伏、成都陥落劉備が益州牧を称す
214年諸葛亮、益州の法制度を整備厳格な法治主義を導入