AD 1860

円明園の焼き討ち
文明の破壊と屈辱

英仏連合軍が北京を占領し、清朝の至宝・円明園を略奪・焼き討ちした。中国近代史における最大の屈辱として、今日なお記憶される事件。

1860年10月、英仏連合軍は北京の北西郊外に位置する清朝の離宮・円明園に侵入し、園内に収蔵されていた膨大な文化財を略奪したうえで、園全体を焼き払いました。この事件は、アロー戦争(第二次アヘン戦争)の最終局面で起きた出来事であり、中国近代史における最も痛ましい屈辱の象徴として、今日に至るまで中国人の記憶に深く刻まれています。

円明園は、康熙帝の時代から約150年にわたって歴代皇帝が造営を重ねた壮大な離宮庭園であり、中国と西洋の建築様式を融合させた「万園の園」と讃えられていました。園内には歴代皇帝が収集した書画・陶磁器・典籍・宝石類など、中華文明の精華ともいうべき文化財が大量に保管されていました。その焼き討ちは、単なる軍事的破壊行為ではなく、一つの文明に対する暴虐として世界史上でも類例のない事件でした。

焼き討ちを命じたイギリス全権大使エルギン伯爵は、これを「清朝皇帝に対する懲罰」であると正当化しましたが、フランス軍のモンテバン将軍や、フランスの文豪ヴィクトル・ユゴーをはじめとする知識人たちはこの行為を痛烈に批判しました。円明園の破壊は、帝国主義がもたらす文明の破壊を象徴する出来事として、現代の国際社会においても文化財保護を考える際の重要な歴史的教訓となっています。

このページでは、アロー戦争の最終局面における英仏連合軍の北京進撃、円明園の歴史と文化的価値、略奪と焼き討ちの詳細な経緯、北京条約の内容、そしてこの事件が中国の近代史と国民意識に与えた深い影響を解説します。

再開戦の経緯 ── 大沽の戦いと交渉の決裂

1858年の天津条約によって一旦は停戦となったアロー戦争ですが、条約の批准書交換をめぐって英仏と清朝の間で再び紛争が生じました。咸豊帝は天津条約の内容、とりわけ外国公使の北京常駐を受け入れがたく思っており、条約の実施を遅延させようと画策しました。

1859年6月、批准書交換のために天津に向かったイギリス・フランスの使節団は、大沽砲台を通過しようとしたところ清朝軍の猛烈な砲撃を受けました。モンゴル族出身の将軍・僧格林沁(センゲリンチン)が指揮する清朝軍は、事前に砲台を大幅に増強しており、イギリス艦隊は甚大な損害を被って撤退を余儀なくされました。この大沽の戦い(第二次大沽砲台の戦い)は、アヘン戦争以来の清朝にとって数少ない軍事的勝利でした。

大沽での敗北に激怒したイギリスとフランスは、大規模な遠征軍を編成しました。1860年8月、約18,000人の英仏連合軍が北塘に上陸し、大沽砲台を背後から攻略して天津を占領しました。清朝は再び交渉を試みますが、連合軍は北京への進撃を続行しました。9月21日、北京近郊の八里橋で僧格林沁率いる清朝のモンゴル騎兵隊と英仏連合軍が激突しますが、近代兵器で武装した連合軍の前に、勇敢なモンゴル騎兵は壊滅的な敗北を喫しました。

八里橋の戦いに敗れた咸豊帝は、弟の恭親王奕訢(きょうしんのうえききん)に講和交渉を委ね、自らは熱河(現在の承徳)に逃亡しました。しかし、講和交渉中に清朝側がイギリスとフランスの使節団員約39名を拘束し、そのうち約20名が拷問により死亡するという事件が起きました。この使節虐待事件が、エルギン伯爵に円明園の焼き討ちを決断させる直接の契機となりました。

軍事

八里橋の戦い ── 伝統軍と近代軍の衝突

1860年9月21日の八里橋の戦いは、清朝の伝統的な軍事力が西洋の近代兵器の前に完全に無力であることを証明した戦闘でした。僧格林沁は約30,000のモンゴル騎兵と歩兵を率いて決戦に臨みましたが、アームストロング砲やエンフィールド銃で武装した英仏連合軍約8,000人に対して一方的な敗北を喫しました。モンゴル騎兵は勇猛果敢に突撃を繰り返しましたが、ライフル銃の一斉射撃と大砲の砲火の前に次々と倒れ、清朝側の死傷者は数千に上ったのに対し、連合軍の損害はわずかでした。この戦いは、清朝が軍事的な近代化を急がなければ国家存亡の危機に直面するという現実を突きつけました。

八里橋の戦い僧格林沁モンゴル騎兵近代兵器軍事格差

円明園とは ── 「万園の園」の壮麗

円明園は、北京の西北郊外(現在の海淀区)に位置する大規模な皇家庭園で、康熙帝が1709年に雍親王(のちの雍正帝)に下賜した庭園が起源です。その後、雍正帝・乾隆帝・嘉慶帝・道光帝と歴代の皇帝が150年以上にわたって拡張と美化を重ね、総面積約350ヘクタール(東京ドーム約75個分)に及ぶ壮大な庭園群へと発展しました。

円明園は三つの庭園 ── 円明園・長春園・綺春園(万春園)── から構成されていました。中国伝統の庭園建築に加え、乾隆帝の命によってイエズス会宣教師カスティリオーネ(中国名:郎世寧)らが設計した西洋楼と呼ばれるバロック様式の建築群も含まれており、東西文明の融合を体現する稀有な空間でした。園内には無数の殿閣・楼台・亭榭が配され、人工の湖や山、河川が巧みに配置されていました。

円明園の文化的価値は、その建築だけにとどまりません。園内には歴代皇帝が収集した膨大な文化財が収蔵されていました。古代の青銅器、宋・元・明・清の書画、希少な典籍・古文書、精緻な翡翠・玉器の細工、各国からの貢物など、中華文明の精華ともいうべき芸術品が集められていたのです。これらの文化財の総数は正確には不明ですが、数十万点に上ったと推定されています。

清朝の歴代皇帝にとって、円明園は紫禁城以上に重要な居所でした。特に雍正帝以降の皇帝は、夏季を中心に円明園で政務を執ることが多く、園内には政務を行うための施設も整備されていました。円明園は単なる遊興の場ではなく、清朝の政治的中心地としての機能も果たしていたのです。

想像のなかに、ある驚嘆すべき模範がある。それは建築の芸術が到達しうる最高峰である。それが円明園であった。 ── ヴィクトル・ユゴー(1861年の書簡における円明園の描写の趣旨)

略奪と焼き討ち ── 三日間の蛮行

1860年10月6日、フランス軍の先遣部隊が最初に円明園に到達しました。園を守っていた清朝の守備兵は少数であり、ほとんど抵抗なく園内に侵入が行われました。フランス軍兵士たちは園内の壮麗さに驚嘆するとともに、直ちに文化財の略奪を開始しました。翌日にはイギリス軍も到着し、略奪は組織的に行われるようになりました。

兵士たちは金銀財宝・翡翠・絹織物・時計・陶磁器など、持ち運べるものを手当たり次第に奪い取りました。運べないほど大きな美術品は破壊され、繊細な書画は踏みにじられました。フランス軍のモンテバン将軍は略奪を止めようとしましたが、兵士たちの暴走は制御不能でした。略奪品の一部は後にロンドンやパリのオークションにかけられ、ヨーロッパの博物館や個人コレクションに収まりました。これらの文化財の返還問題は、21世紀の現在も国際的な課題として残っています。

10月18日、イギリス全権大使エルギン伯爵は円明園の焼き討ちを命じました。エルギンがこの命令を下した理由は、講和交渉中に清朝側に拘束されたイギリス人・フランス人使節団員が拷問・殺害されたことに対する報復でした。エルギンは、北京市民への被害を避けつつ清朝皇帝個人に最大の打撃を与えるには、皇帝の私的な離宮を破壊するのが最も効果的だと判断したのです。

約3,500人のイギリス軍兵士が円明園に放火し、炎は三日三晩燃え続けました。園内の建築物のほとんどが灰燼に帰し、150年以上かけて築かれた「万園の園」は廃墟と化しました。焼き討ちの煙は北京市内からも確認でき、その光景は清朝の臣民たちに深い衝撃と屈辱の念を与えました。

文化財

失われた至宝 ── 円明園から流出した文化財

円明園から略奪された文化財の行方は、今日なお重要な国際問題です。十二支の獣首銅像(十二生肖獣首銅像)は乾隆帝の時代に海晏堂の噴水時計として製作されたもので、そのうちいくつかは国際オークションに出品されるたびに中国政府が返還を要求しています。2009年にはクリスティーズのオークションに鼠首と兎首が出品され、中国で激しい抗議運動が起きました。これらは最終的にフランスの実業家フランソワ=アンリ・ピノーが購入し、中国に返還しています。しかし、略奪品の大部分は今なお世界各地の博物館や個人コレクションに散在しており、全容の把握すら困難な状況です。

十二支獣首略奪文化財返還問題エルギン伯爵文化財保護

北京条約 ── さらなる譲歩と領土喪失

円明園の焼き討ちという衝撃的な報復を受けた清朝は、もはや抵抗する術を失っていました。1860年10月24日にイギリスと、10月25日にフランスとの間で北京条約が締結されました。咸豊帝は熱河に逃亡したままであり、交渉は恭親王奕訢が全権を担いました。

北京条約は天津条約の内容を追認したうえで、さらに過酷な条件を清朝に課すものでした。イギリスには九龍半島南部(現在の九龍地区)が割譲され、香港島に続いてイギリスの植民地が拡大しました。フランスにはカトリック教会が中国各地で土地を購入・所有する権利が認められました。賠償金は英仏それぞれに800万両に増額されました。さらに天津が通商港として開港され、外国軍艦の長江航行権も認められました。

ロシアもまた、この機に乗じて大きな利益を得ました。清朝とイギリス・フランスの間を仲介した見返りとして、北京条約と同日に締結された中露北京条約によって、ウスリー川以東の沿海州(現在のロシア極東地域)約40万平方キロメートルを獲得したのです。ロシアはこの地にウラジオストクを建設し、太平洋への出口を確保しました。一発の銃弾も撃つことなく広大な領土を手に入れたロシアの外交手腕は、列強間の権力政治の冷酷さを如実に示しています。

北京条約の締結により、アロー戦争は正式に終結しました。この戦争を通じて、清朝は主権の多くを失い、中国は列強の勢力圏分割の対象へと転落していきます。咸豊帝は熱河から北京に戻ることなく、1861年8月に崩御しました。

その後の影響 ── 洋務運動と自強の始まり

円明園の焼き討ちと北京条約の屈辱は、清朝内部に深刻な危機感をもたらしました。咸豊帝の死後、恭親王奕訢と西太后(慈禧太后)がクーデターによって政権を掌握すると、西洋の軍事技術を導入して国力を強化する「洋務運動」(自強運動)が本格的に始動します。

洋務運動の中心人物となったのは、曽国藩・李鴻章・左宗棠・張之洞らの漢人官僚でした。彼らは「中体西用」(中国の伝統的な体制を維持しつつ、西洋の技術を取り入れる)をスローガンに、近代的な兵器工場(江南製造局など)の設立、海軍の創設(北洋艦隊など)、外国語学校(同文館)の開設、留学生の派遣などを推進しました。

また、外交面では総理各国事務衙門(総理衙門)が設立され、西洋式の外交制度が導入されました。従来の礼部を通じた朝貢外交から、近代的な国際法に基づく外交への転換が始まったのです。恭親王奕訢は、総理衙門の責任者として列強との交渉を担当し、清朝の近代外交の基礎を築きました。

しかし洋務運動は、体制そのものの改革には踏み込みませんでした。儒教的な価値観と科挙制度を維持したまま西洋の技術だけを導入しようとする「中体西用」の限界は、1894年の日清戦争での惨敗によって露呈することになります。円明園の廃墟は修復されることなく放置され、「国恥を忘れるな」という教訓の場として現在も保存されています。

歴史的意義 ── 屈辱の記憶と民族意識の覚醒

円明園の焼き討ちは、中国近代史における屈辱の象徴として特別な位置を占めています。中国共産党政権のもとでは「百年国恥」(1840年のアヘン戦争から1949年の中華人民共和国成立まで)の最も痛ましいエピソードの一つとして教育・宣伝に用いられ、民族意識の形成に大きな役割を果たしてきました。

円明園の破壊は、帝国主義による文化的暴力の典型として、国際社会においても重要な教訓を残しています。この事件は、戦時における文化財保護の必要性を訴える際にしばしば言及され、1954年のハーグ条約(武力紛争の際の文化財保護に関する条約)の精神的な背景の一部を成しています。

同時に、円明園事件は東西間の歴史認識の相違を浮き彫りにもしています。西洋諸国ではこの事件は長らく忘却されてきましたが、中国では学校教育の必修事項として教えられ、円明園遺址公園は年間数百万人が訪れる「愛国主義教育基地」に指定されています。歴史の記憶がいかに政治的に構築され、利用されるかという問題を考えるうえでも、円明園は重要な事例です。

歴史的には、この事件が清朝に洋務運動という近代化への第一歩を踏み出させた点も見逃せません。屈辱を原動力として自強を目指すという構図は、その後の戊戌の変法、清末新政、辛亥革命と続く近代中国の改革・革命運動の原型となりました。円明園の焼け跡は、古い中国の終焉と新しい中国の苦難に満ちた誕生の両方を象徴しているのです。

円明園の焼き討ち 関連年表

年代出来事備考
1709年円明園の起源康熙帝が雍親王に下賜
1858年6月天津条約の締結アロー戦争の一旦の休戦
1859年6月第二次大沽砲台の戦い清朝軍が英仏艦隊を撃退
1860年8月英仏連合軍が北塘に上陸約18,000人の遠征軍
1860年9月八里橋の戦い清朝のモンゴル騎兵が壊滅
1860年10月6日英仏連合軍が円明園に侵入略奪の開始
1860年10月18日円明園の焼き討ち三日三晩炎上
1860年10月24-25日北京条約の締結九龍半島割譲、賠償金増額
1861年洋務運動の開始「中体西用」による近代化
1861年8月咸豊帝の崩御熱河にて客死