1771年から1782年にかけて、清朝第6代皇帝・乾隆帝(けんりゅうてい、在位1735-1795年)の勅命により編纂された『四庫全書』(しこぜんしょ)は、中国の文化史における空前絶後の事業でした。古今の書籍を経・史・子・集の四部に分類して収録したこの叢書は、収録書籍約3,461種・約79,337巻、総文字数約8億字という驚異的な規模を誇り、人類史上最大の手書き叢書とされています。
四庫全書の編纂は、乾隆帝が中華文明の全知識体系を集大成し、清朝がその正統な守護者であることを天下に示そうとした壮大な文化事業でした。しかし同時に、この事業には、編纂の過程で清朝に不都合な書籍を選別・破棄するという思想統制の側面が濃厚に含まれていました。全国から書籍を収集する名目のもとに、反満洲的・反清的な内容を含む書籍は「禁書」として焚毀(焼却・廃棄)され、数千種にのぼる書籍が失われたとされています。
四庫全書は、文化の保存と破壊という相矛盾する二つの目的を同時に内包した事業であり、清朝の文化政策の光と影を象徴的に体現するものでした。編纂事業を主導したのは紀昀(きいん、字は暁嵐)をはじめとする当代一流の学者約360名で、延べ約3,800名の筆写者が動員されました。完成した四庫全書は7部が筆写され、全国7か所の蔵書閣に収蔵されました。
このページでは、四庫全書が編纂された時代背景と動機、編纂事業の具体的な経緯と組織、「経・史・子・集」四部の構成と収録内容、編纂に伴う禁書と思想統制の実態、完成後の保存と伝承の歴史、そしてこの事業が持つ文化史上の意義を解説します。
Background
編纂の背景 ── 乾隆帝と中華文明の集大成
四庫全書の編纂構想は、中国における書籍の集大成という長い伝統のなかに位置づけられます。歴代の中国王朝は、文化的権威を示すために大規模な編纂事業を行ってきました。唐代の『芸文類聚』、宋代の『太平御覧』『冊府元亀』、明代の『永楽大典』などがその代表です。特に明の永楽帝が編纂させた『永楽大典』は約22,877巻・約3億7千万字の巨大な類書でしたが、清代には大部分が散逸していました。
乾隆帝は祖父・康煕帝に深い尊敬を抱き、その文化事業を超えることを強く意識していました。康煕帝の時代に編纂された「康煕字典」「古今図書集成」「明史」などの事業は、清朝の文化的威信を大いに高めていました。乾隆帝はこれらを上回る規模の文化事業を企画することで、自らの治世を中華文明の黄金期として位置づけようとしたのです。
1771年(乾隆36年)、安徽の学者・朱筠(しゅきん)が、散逸しつつあった『永楽大典』の残存部分から稀覯書を抜き出して保存することを建議しました。乾隆帝はこの提案をきっかけとして、『永楽大典』の整理にとどまらず、全国の書籍を網羅的に収集・分類・筆写して一大叢書を編纂するという壮大な計画を打ち出しました。これが四庫全書編纂事業の始まりです。
乾隆帝の動機は純粋な学問的関心だけではありませんでした。全国から書籍を集めることは、民間に流通する書籍の内容を把握し、清朝にとって危険な思想を排除する絶好の機会でもあったのです。四庫全書の編纂は、最初から文化の保存と思想統制という二重の目的を持って構想されていました。
時代背景
乾隆帝 ── 文武兼備の「十全老人」
乾隆帝は自らを「十全老人」(十の完全な武功を成し遂げた老翁)と称し、武功と文治の両面で前代未聞の業績を誇りました。ジュンガル部の最終的な征服、ビルマ・ベトナム遠征、チベットの統合など軍事的拡張を進める一方で、四庫全書の編纂をはじめとする大規模な文化事業を推進しました。乾隆帝の治世は清朝の最盛期にあたり、人口は3億を超え、経済は空前の繁栄を謳歌していました。この豊かな国力が、四庫全書のような途方もない規模の事業を可能にしたのです。しかし乾隆帝の晩年には、和珅(わしん)に代表される官僚の腐敗が深刻化し、国力の陰りが見え始めていました。
乾隆帝十全老人清朝最盛期永楽大典文化事業
The Process
編纂の経緯 ── 空前の規模の知識事業
四庫全書の編纂にあたり、乾隆帝はまず全国の蔵書家に対して書籍の献納を命じました。500種以上の書籍を献納した家には皇帝自筆の題字を与え、100種以上の献納者にも賞を与えるという奨励策を講じました。江南の著名な蔵書家 ── 寧波の天一閣をはじめ、揚州の馬曰琯、杭州の鮑士恭、常熟の瞿紹基など ── が相次いで蔵書を提供し、数万種の書籍が北京に集められました。
1773年(乾隆38年)、四庫全書館が正式に設置され、編纂作業が組織的に開始されました。総裁(責任者)には大学士の永瑢(えいよう、乾隆帝の第6子)と于敏中が就き、副総裁以下、纂修官・校勘官・分校官などの実務者約360名が任命されました。なかでも纂修官の紀昀(きいん、1724-1805年)は編纂の実質的な総指揮を担い、四庫全書の品質を決定づける中心人物でした。
編纂作業は以下の手順で進められました。まず収集された書籍を「採用」「不採用」に分類し、採用書籍をさらに「全文筆写して収録するもの」と「書名と解題のみを記録するもの」に選別しました。全文収録の書籍は専門の筆写者(謄録官)によって一字一句を忠実に筆写されました。筆写者は延べ約3,800名が動員され、美しい楷書で統一的に書写されました。
1782年(乾隆47年)、最初の四庫全書が完成し、紫禁城内の文淵閣に収蔵されました。その後、同じ内容をさらに6部筆写し、計7部が作られました。最初の4部(文淵閣・文溯閣・文源閣・文津閣本、いわゆる「北四閣本」)は宮中や離宮に置かれ、後の3部(文宗閣・文匯閣・文瀾閣本、いわゆる「南三閣本」)は江南の主要都市に設置されて士人の閲覧に供されました。
古今の書を集めて四庫に分かち、以て天下の学問を網羅せんとす。
── 四庫全書編纂の趣旨を示す乾隆帝の上諭の要旨より
Structure
四庫の構成 ── 経・史・子・集
「四庫」の名は、中国の伝統的な書籍分類法である四部分類に由来します。すべての書籍を「経」「史」「子」「集」の四部門に分類するこの体系は、隋代の『隋書経籍志』以来、約1,200年にわたって中国の図書分類の標準でした。四庫全書はこの伝統を受け継ぎ、以下のように構成されています。
第一の「経部」は、儒学の経典を収録する部門です。『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』などの五経をはじめ、『論語』『孟子』『孝経』『爾雅』などの儒教の根本文献と、歴代の注釈書を含みます。経部は四部のなかで最も権威ある部門とされ、儒学を国教とする中国王朝において知識体系の頂点に位置づけられていました。
第二の「史部」は、歴史書を収録する部門です。『史記』『漢書』などの正史をはじめ、編年体の歴史書、地理書、政書(制度史)、職官志、伝記などが含まれます。中国は世界でも最も厚い歴史記述の伝統を持つ文明であり、史部は四庫全書のなかでも最大の分量を占めています。
第三の「子部」は、儒学以外の諸子百家の著作と、天文・暦算・医学・農学・兵法などの専門書を収録する部門です。道家・法家・墨家・名家の著作から、仏教・道教の文献、さらには小説・随筆に至るまで、幅広い分野をカバーしています。
第四の「集部」は、文学作品を収録する部門です。個人の詩文集(別集)、複数の作者の作品を集めた総集、文学批評・詩論の書などが含まれます。中国の文学的伝統の厚みを示す膨大な量の詩文が、この部門に収録されています。
編纂内容
四庫全書総目提要 ── 書誌学の金字塔
四庫全書の編纂に際して作成された『四庫全書総目提要』(200巻)は、四庫全書本体に劣らぬ学術的価値を持つ著作です。四庫全書に収録された書籍と、収録はされなかったが書名を記録した書籍を合わせて約10,254種について、各書の著者・内容・版本・学術的価値を簡潔に解説した書誌解題集です。紀昀が中心となって執筆したこの総目提要は、中国の書誌学・目録学の最高峰として、現在に至るまで中国古典研究の基本的な参考書であり続けています。各書の解題は客観的かつ精緻であり、紀昀の博識と鋭い批評眼が遺憾なく発揮されています。
四部分類経部史部子部集部
Censorship
禁書と思想統制 ── 文化事業の暗部
四庫全書の編纂は、書籍の保存という光の側面と同時に、思想統制という暗い側面を持っていました。乾隆帝は全国から書籍を収集する過程で、清朝に対する批判的な内容や、満洲族を蔑視する表現を含む書籍を組織的に選別し、焼却・破棄することを命じました。これがいわゆる「禁書」政策です。
禁書の対象となったのは、主に以下のような書籍でした。第一に、明末清初の抗清運動に関わった人物の著作や、清朝の征服に対する批判を含む書籍。第二に、満洲族を「夷狄」(野蛮人)と蔑称する表現を含む書籍。第三に、金朝や元朝など過去の北方異民族王朝を批判する内容を含む書籍(清朝も北方民族の王朝であるため)。これらの基準は極めて広範であり、些細な表現でも禁書の対象とされることがありました。
禁書の規模については諸説ありますが、完全に焼却・破棄された書籍は約2,600種から3,100種以上に上るとされています。さらに、書籍全体は残したものの問題のある箇所を削除・改変した「抽毀」の対象は数百種に及びました。四庫全書に収録された書籍自体も、原文の一部が修正・削除されている場合があり、テキストの信頼性の問題を残しています。
禁書政策は、乾隆帝の治世を通じて断続的に強化されました。各地の官僚は禁書の摘発に競い合い、なかには過剰な忖度から無害な書籍まで禁書として報告する者もいました。文字の獄(思想弾圧事件)も頻発し、著作の中の文字表現を理由に投獄・処刑される知識人が相次ぎました。乾隆帝の治世において、文字の獄は康煕帝・雍正帝の時代をはるかに上回る規模で行われました。
思想統制
保存と破壊の矛盾 ── 四庫全書の二面性
四庫全書の編纂が文化の保存と破壊を同時に行った事業であったという矛盾は、後世の歴史家に深い議論を呼び起こしています。四庫全書には約3,500種の書籍が全文収録され、さらに総目提要によって約10,000種の書籍が書誌的に記録されました。これにより、多くの稀覯書が散逸から救われたことは疑いありません。しかし同時に、数千種の書籍が焼却・破棄されたことで、中国の知的遺産の一部は永久に失われました。特に明末清初の歴史に関する史料の損失は深刻であり、この時代の研究に大きな空白を生じさせています。四庫全書は、専制権力が文化に対して持つ二面的な関係 ── 保護者であると同時に抑圧者でもある ── を象徴する事業として、歴史の教訓を今日に伝えています。
禁書文字の獄思想統制焚書テキスト改変
Preservation
保存と伝承 ── 七閣の運命
完成した四庫全書7部は、全国7か所の蔵書閣に収蔵されました。北方の4部は紫禁城の文淵閣、円明園の文源閣、承徳避暑山荘の文津閣、瀋陽故宮の文溯閣に置かれ、南方の3部は揚州の文匯閣、鎮江の文宗閣、杭州の文瀾閣に収蔵されました。
しかし、これら7部の四庫全書はその後の歴史の荒波のなかで、多くが損傷を受けました。1860年の第二次アヘン戦争(アロー戦争)の際、英仏連合軍が円明園を略奪・焼き払った際に、文源閣本は園とともに灰燼に帰しました。太平天国の乱(1850-1864年)の際には、文宗閣本と文匯閣本が戦火で焼失しました。文瀾閣本も大きな被害を受けましたが、後に部分的に修復・補完されました。
現存する四庫全書は、文淵閣本(現在、台北の国立故宮博物院に所蔵)、文津閣本(北京の国家図書館に所蔵)、文溯閣本(甘粛省蘭州に移送され保存)、そして修復された文瀾閣本(浙江省図書館に所蔵)の4部です。なかでも文淵閣本は保存状態が最も良好とされ、四庫全書の代表的なテキストとして利用されています。
20世紀以降、四庫全書の影印出版(写真複製)やデジタル化が進められ、かつては限られた学者しかアクセスできなかった四庫全書が、より広い研究者に利用可能になっています。台湾の商務印書館による文淵閣本の影印出版(1983-1986年)は、四庫全書の普及に画期的な貢献をしました。
Significance
歴史的意義 ── 知の集大成と権力の刻印
四庫全書の歴史的意義は、多層的で複雑なものです。第一に、これは中国の伝統的な知識体系の最大にして最後の集大成でした。古代から清代中期までの約2,000年以上にわたる中国の知的蓄積が、一つの叢書に体系的にまとめられたことは、人類の知識史上でも類を見ない偉業です。西洋においてディドロとダランベールの『百科全書』(1751-1772年)がフランス啓蒙思想の集大成であったのと同様に、四庫全書は中華文明の知的伝統の集大成でした。
第二に、四庫全書の編纂は、中国の考証学(実証的な文献学)の発展に大きな刺激を与えました。膨大な書籍を校訂・分類する過程で、テキストの精密な考証や版本の比較研究が盛んに行われ、清代の学問の主流となった考証学は一層の発展を遂げました。紀昀をはじめとする編纂者たちの学識は、四庫全書総目提要という形で結実し、中国の書誌学・目録学の金字塔となりました。
第三に、四庫全書は中国の古典籍の保存に大きな貢献をしました。四庫全書に収録されたことで散逸を免れた書籍は少なくなく、特に宋代・元代の稀覯書の一部は四庫全書本のみが現存する唯一のテキストとなっています。永楽大典からの抜き出しによって復元された書籍も約500種に上り、これらは四庫全書の編纂なくしては完全に失われていたでしょう。
しかし第四に、四庫全書は専制権力による知識の管理と思想統制の象徴でもあります。何を残し何を滅ぼすかを皇帝が決定するという構造は、知識と権力の関係における本質的な問題を提起しています。四庫全書に収録された書籍は清朝の正統な知の体系として認証を受けましたが、収録されなかった書籍は正統性を否定されたに等しく、禁書として焼却されたものは存在そのものを抹消されました。四庫全書は、中華文明の壮大な遺産であると同時に、権力による知識の選別と統制の記録でもあるのです。