2001年12月11日、中華人民共和国は世界貿易機関(WTO: World Trade Organization)の143番目の加盟国となりました。この加盟は、1986年にGATT(関税及び貿易に関する一般協定)への復帰申請を行って以来、実に15年に及ぶ困難な交渉の末に実現したものです。世界最大の人口を擁する国が多角的貿易体制に参加したことは、中国経済のみならず、世界経済全体の構造を根本から変える歴史的な転換点となりました。
WTO加盟以前の中国は、1978年の改革開放以降、段階的に市場経済の要素を導入してきたものの、依然として高い関税障壁、国有企業の保護、外資への規制など、計画経済時代の残滓を色濃く残していました。WTO加盟は、こうした保護主義的な経済体制を根本的に改革し、国際的なルールに基づく自由貿易体制に本格的に参入するという中国政府の決断を意味していました。
加盟交渉を主導した朱鎔基首相は、WTO加盟を「改革開放の第二の出発点」と位置づけました。加盟に伴う市場開放と制度改革は、中国の国有企業や農業セクターに痛みを伴うものでしたが、朱鎔基はそれを承知のうえで、外圧を利用して国内改革を加速させるという戦略的判断を下したのです。この決断が功を奏し、WTO加盟後の中国は爆発的な経済成長を遂げ、わずか十数年で世界第二位の経済大国にまで躍進しました。
GATT時代の模索 ── 国際貿易体制への復帰
中国とGATTの関係は複雑な歴史を有しています。1947年のGATT発足時、中華民国(国民党政権)は原加盟国の一つでした。しかし1949年の中華人民共和国成立後、台湾に移った中華民国政府が1950年にGATTからの脱退を通告しました。中華人民共和国はこの脱退を無効と主張し、自らがGATTにおける中国の正統な代表であるとの立場を取りましたが、冷戦の文脈もあって長年にわたり国際貿易体制から離脱した状態が続きました。
転機が訪れたのは1978年の改革開放政策の開始です。鄧小平は中国経済を世界に開放する方針を打ち出し、対外貿易の拡大を国家戦略の柱に据えました。経済特区の設置、外資導入の促進、貿易体制の改革が進むなかで、GATTへの復帰は中国にとって避けて通れない課題となっていきました。
1986年7月、中国はGATTの締約国団に対し正式に復帰申請を提出しました。中国はこれを「新規加盟」ではなく「復帰」と位置づけ、原加盟国としての地位回復を主張しました。しかし、当時の中国経済は依然として計画経済の色彩が強く、関税率は平均43パーセントと極めて高水準であり、貿易に関する法制度も未整備でした。このため、加盟交渉は当初から難航が予想されていました。
1989年の天安門事件は、交渉に深刻な影響を及ぼしました。西側諸国は中国に対する経済制裁を実施し、GATT復帰交渉は事実上凍結されました。交渉が再び動き出したのは1990年代に入ってからであり、1995年のWTO設立に伴い、中国の交渉の場もGATTからWTOに移行しました。
GATTからWTOへ ── 国際貿易体制の進化
GATT(1947年設立)は、第二次世界大戦後の国際貿易秩序を規定する多国間協定でした。関税の段階的引き下げと無差別原則(最恵国待遇)を柱として、自由貿易の推進を目指しました。1995年にGATTを発展的に継承する形で設立されたWTOは、物品貿易だけでなくサービス貿易や知的財産権もカバーする包括的な国際機関であり、紛争解決メカニズムを備えた、より強力な組織です。中国の加盟交渉は、このGATTからWTOへの移行期に跨がって行われたため、交渉対象の範囲も大幅に拡大し、一層複雑なものとなりました。
15年の交渉 ── 最大の難関・米中二国間協議
WTO加盟交渉において、中国が最も困難な交渉を迫られたのは米国との二国間協議でした。WTO加盟には全加盟国の合意が必要ですが、なかでも米国は中国の市場開放について最も厳しい要求を突きつけました。農産物の関税引き下げ、サービス業(金融・通信・流通)の市場開放、知的財産権の保護強化、国有企業への補助金削減など、交渉項目は多岐にわたりました。
1999年4月、朱鎔基首相はワシントンを訪問し、クリントン大統領との間で最終的な合意を目指しました。朱鎔基は大幅な譲歩を含む提案を提示しましたが、米国議会の反対を懸念したクリントン政権はこの時点での合意を見送りました。この判断は後にクリントン政権内からも批判を受けることになりますが、交渉はさらに半年以上を要しました。
同年11月15日、ようやく米中二国間協議が妥結しました。中国は農産物の平均関税を15パーセントに引き下げること、金融・保険・通信などのサービス分野を段階的に開放すること、知的財産権保護法制を国際水準に引き上げることなどに合意しました。これは中国にとって極めて大きな譲歩であり、国内の保守派からは強い反発もありました。
米中合意に続いて、EUとの交渉も2000年5月に妥結し、残る加盟国との交渉も順次完了していきました。2001年9月17日、カタールのドーハで開催されたWTO閣僚会議において、中国の加盟が正式に承認されました。同年11月10日に加盟議定書への署名が行われ、30日の待機期間を経て12月11日に正式加盟が発効しました。
加盟の実現 ── 中国が受け入れた条件
中国がWTO加盟に際して受け入れた条件は、通常の途上国加盟と比較しても極めて広範かつ厳格なものでした。物品貿易においては、工業製品の平均関税を加盟時の約15パーセントから段階的に約9パーセントに引き下げること、農産物については平均15パーセントへの引き下げが求められました。数量制限や輸入割当の多くも撤廃対象とされました。
サービス貿易の開放はさらに踏み込んだものでした。銀行、保険、証券、通信、流通、法律サービスなど広範な分野で外資参入が認められることになりました。特に金融分野では、加盟から5年以内に外資銀行に人民元業務を全面的に開放するという約束が、中国の金融セクターに大きな衝撃を与えました。
知的財産権の保護についても、中国はTRIPS協定(知的所有権の貿易関連の側面に関する協定)の完全な遵守を約束しました。これに伴い、特許法、商標法、著作権法などの知的財産関連法制の大幅な改正が必要となりました。さらに中国は、司法による知的財産権の執行体制を整備し、海賊版や模倣品の取り締まりを強化することも約束しました。
特筆すべきは、中国が「非市場経済国」条項を受け入れたことです。これにより、他のWTO加盟国は中国からの輸入品に対して反ダンピング措置を適用する際に、中国の国内価格ではなく第三国の価格を基準として使用することが可能となりました。この条項は15年間の時限措置とされましたが、中国にとっては不利な条件であり、後に貿易紛争の火種となりました。
国内改革 ── 「外圧」による構造転換
WTO加盟は、中国の国内経済体制に根本的な変革を迫りました。加盟に先立ち、中国政府は約2300件の法律・行政法規を改正または新たに制定し、WTOの要求する制度的枠組みの整備を急ぎました。貿易に関する法律の透明性向上、行政手続きの簡素化、司法審査制度の導入など、法の支配を強化する方向での改革が進められました。
最も大きな影響を受けたのは国有企業セクターです。WTO加盟前から朱鎔基首相は国有企業改革を推進しており、「大をつかみ、小を放つ」(抓大放小)のスローガンのもと、大型国有企業の株式会社化と中小国有企業の民営化を進めていました。WTO加盟はこの改革に外圧という推進力を加え、非効率な国有企業の淘汰を加速させました。
農業セクターもまた大きな変革を求められました。関税引き下げにより安価な外国農産物が流入する可能性があり、中国の約9億人の農村人口にとっては死活的な問題でした。中国政府は農業の近代化、農村インフラの整備、農民所得の向上策を打ち出し、WTO加盟の衝撃を緩和しようとしました。しかし実際には、農業の競争力強化は長期的な課題として残り続けています。
一方で、WTO加盟は中国の製造業にとって巨大な機会をもたらしました。関税障壁の低下と投資環境の改善により、世界中の企業が中国に生産拠点を設立するようになり、中国は「世界の工場」としての地位を急速に確立していきました。沿海部の経済特区や開発区は外資系工場で埋め尽くされ、中国の輸出額は加盟後わずか数年で倍増しました。
朱鎔基の改革手法 ── 外圧を内改革に転換する
WTO加盟交渉を主導した朱鎔基首相の手法は、「借船出海」(他人の船を借りて海に出る)と表現されることがあります。WTOという国際的な枠組みへの参加を梃子として、国内の既得権益層の抵抗を乗り越え、改革を推進するという戦略です。国有企業の経営者や地方政府の官僚は、市場開放に反対する立場にありましたが、「WTO加盟の約束を果たさなければ国際的な信用を失う」という論理で反対派を説得することが可能になりました。この手法は、改革開放以降の中国が繰り返し用いてきた「外圧利用型改革」の最も成功した事例の一つと評価されています。
世界経済への影響 ── 「チャイナ・ショック」
中国のWTO加盟は、世界経済に計り知れない影響を及ぼしました。加盟後の中国の貿易額は爆発的に増大し、2001年に約5100億ドルだった貿易総額は、2008年には約2兆5600億ドルに達しました。中国は2009年にドイツを抜いて世界最大の輸出国となり、国際貿易の主役へと躍り出ました。
先進国の製造業にとって、中国のWTO加盟は「チャイナ・ショック」とも呼ばれる構造的な衝撃をもたらしました。安価で豊富な労働力を武器にした中国製品の大量流入は、米国や欧州の製造業の空洞化を加速させ、工場の閉鎖や雇用の喪失を引き起こしました。経済学者デヴィッド・オーターらの研究によれば、中国からの輸入増加は米国で約200万人の製造業雇用に影響を与えたとされています。
他方で、消費者にとっては恩恵の方が大きいものでした。中国からの安価な工業製品の流入は、先進国の物価上昇を抑制し、実質的な購買力の向上に貢献しました。また、中国の経済成長は原材料や資源の巨大な需要を生み出し、オーストラリア、ブラジル、中東産油国などの資源輸出国に空前の好景気をもたらしました。
日本経済にとっても、中国のWTO加盟は大きな転換点でした。日本企業は中国を「コスト削減のための生産拠点」から「巨大な消費市場」として再評価するようになり、対中直接投資が急増しました。自動車、電機、機械などの日本の主力産業は中国との間でサプライチェーンを深く統合し、日中経済の相互依存関係は飛躍的に深まりました。
歴史的意義 ── グローバル経済秩序の転換
中国のWTO加盟がもつ歴史的意義は、まず何よりも、世界人口の約5分の1を占める国が国際自由貿易体制に完全に統合されたことにあります。冷戦終結後の世界経済は、グローバリゼーションの加速という大きな潮流のなかにありましたが、中国のWTO加盟はその潮流を決定的に増幅させました。地球規模でのサプライチェーンの構築、国際分業体制の深化、そして数億人規模の人々が貧困から脱却する契機となったのです。
第二に、WTO加盟は中国自身の経済体制の近代化を不可逆的に推進しました。計画経済から市場経済への移行は改革開放以降の一貫したテーマでしたが、WTO加盟によって中国は国際的なルールと規範に自らを拘束することを選択しました。法の支配の強化、行政の透明性向上、知的財産権の保護など、WTO加盟に伴う制度改革は、中国社会の近代化に深く寄与するものでした。
第三に、WTO加盟後の中国の急速な経済成長は、戦後の国際経済秩序そのものに構造的な変動をもたらしました。新興国の発言力が増大し、G7に代わってG20が国際経済協調の主要フォーラムとなりました。中国は世界銀行やIMFにおけるシェアの拡大を求め、さらにはAIIB(アジアインフラ投資銀行)の設立を主導するなど、既存の国際経済秩序を内側から変容させる力を持つに至りました。
WTO加盟から四半世紀を経た現在、米中貿易摩擦の激化やサプライチェーンの再編が進むなかで、WTO加盟時の楽観論は大きく後退しています。しかし2001年のWTO加盟が、21世紀の世界経済の構図を決定的に書き換えた歴史的転換点であったことに疑いはありません。
WTO加盟 関連年表
| 年代 | 出来事 | 備考 |
|---|---|---|
| 1947年 | GATT発足 | 中華民国が原加盟国 |
| 1950年 | 中華民国がGATT脱退 | 台湾移転後に通告 |
| 1978年 | 改革開放政策開始 | 鄧小平が市場経済の要素を導入 |
| 1986年 | GATT復帰申請 | 15年の交渉の開始 |
| 1989年 | 天安門事件 | 交渉が事実上凍結 |
| 1995年 | WTO設立 | GATTを発展的に継承 |
| 1999年 | 米中二国間協議妥結 | 最大の難関を突破 |
| 2000年 | EU・中国間協議妥結 | 残る主要加盟国との合意完了 |
| 2001年11月 | ドーハ閣僚会議で加盟承認 | 加盟議定書に署名 |
| 2001年12月11日 | WTO正式加盟 | 143番目の加盟国 |