AD 1997

香港返還
と鄧小平の死

改革開放の総設計師・鄧小平が92歳で死去し、その5か月後に香港が中国に返還された。巨人の退場と百年の悲願の達成が交差した歴史的な年。

1997年は、現代中国史において二つの巨大な出来事が重なった年です。2月19日に「改革開放の総設計師」と称される鄧小平が92歳で死去し、その約5か月後の7月1日未明に香港が155年にわたるイギリスの統治を終えて中華人民共和国に返還されました。改革開放を設計し、一国二制度を構想した鄧小平自身は、その最大の成果である香港返還の瞬間を見届けることなくこの世を去ったのです。

鄧小平の死は一つの時代の終わりを意味しました。革命第一世代の最後の巨人が退場し、中国は江沢民を中心とする第三世代の指導部のもとで新たな時代に入っていきます。鄧小平が残した「改革開放」と「社会主義市場経済」という路線は、その後の中国の国家戦略の基本として継承され、中国を世界第二位の経済大国へと導く礎となりました。

香港返還は、アヘン戦争以来の「百年の屈辱」に対する歴史的な決着であると同時に、一国二制度という前例のない政治実験の始まりでもありました。1997年7月1日午前零時、香港コンベンション・アンド・エキシビション・センターで挙行された返還式典は、全世界にテレビ中継され、20世紀最後の大きな主権移譲として国際的な注目を集めました。中国にとっては国家の威信の回復を、香港にとっては不確実な未来の始まりを、イギリスにとっては帝国の最終章を意味する出来事でした。

このページでは、鄧小平の死去とその遺産の評価、香港返還の準備過程と返還式典、返還後の香港の歩み、そして1997年という年がもつ歴史的意義を詳しく解説します。

鄧小平の死 ── 巨人の退場

1997年2月19日午後9時8分、鄧小平はパーキンソン病と肺の感染症のため北京の中国人民解放軍総医院(三〇一病院)において92歳で死去しました。晩年の鄧小平は公の場に姿を現すことが少なくなっており、最後の公式の場での姿は1994年の春節の際のテレビ映像でした。1996年以降は健康状態が急速に悪化し、数度にわたって入院を繰り返していました。

鄧小平の死去を受けて、中国共産党中央委員会・全国人民代表大会常務委員会・国務院・中央軍事委員会は連名で追悼の告示を発表し、鄧小平を「偉大なマルクス主義者、偉大な無産階級革命家・政治家・軍事家・外交家、中国社会主義改革開放と現代化建設の総設計師」と称えました。6日間の国全体の服喪期間が宣言され、全国各地で半旗が掲げられました。

2月25日、北京の人民大会堂で追悼大会が開催され、江沢民総書記が追悼の辞を述べました。鄧小平は生前から「死後に遺体を保存する必要はない」との意思を示しており、遺言に従って角膜が提供された後、遺体は火葬され、遺灰は海に散布されました。毛沢東のように遺体が永久保存されることを拒否したこの決定は、鄧小平の個人崇拝に対する否定的な姿勢を象徴するものでした。

鄧小平の死去に際して、世界各国の指導者から哀悼の意が寄せられました。鄧小平は好悪のいずれの評価においても、20世紀後半の世界で最も影響力のあった政治指導者の一人であったことは疑いありません。

鄧小平の遺産 ── 中国を変えた男

鄧小平が現代中国に残した遺産は、あらゆる側面に及んでいます。最も明白なものは経済改革です。鄧小平が1978年に始動した改革開放路線は、中国を世界最貧国の一つから世界第二位の経済大国へと変貌させる道筋を開きました。人民公社の解体と農業改革、経済特区の設置、外資の導入、国有企業の改革、そして社会主義市場経済体制の確立に至る一連の改革は、いずれも鄧小平の決断と指導のもとで推進されたものでした。

外交面では、鄧小平は「韜光養晦」(能力を隠して時機を待つ)の方針を打ち出し、中国は国際社会において控えめな姿勢を保ちながら経済発展に集中すべきだと説きました。米中国交正常化(1979年)、中英共同声明(1984年)、中ソ関係正常化(1989年)など、鄧小平時代の外交はいずれもこの現実主義的な路線に基づいていました。

一方で、鄧小平の遺産には深刻な負の側面もあります。天安門事件における武力鎮圧の決定は、鄧小平の最大の汚点として国際的に記憶されています。また政治改革を経済改革に比べて著しく立ち後れさせたことは、権力の腐敗、法の支配の不備、市民的自由の制約といった問題を構造的に温存することになりました。「経済は自由化するが政治は自由化しない」という鄧小平モデルの功罪は、今日の中国が直面する多くの課題の根源にあると言えます。

私が香港が中国に返る日を見届けられるかどうかは、それは分からない。しかしその日は必ず来る。 ── 鄧小平が香港返還について述べた趣旨(1980年代)
人物評価

鄧小平 ── 改革開放の総設計師

鄧小平の政治的生涯は1904年に四川省の地主の家に生まれたことに始まります。16歳でフランスに留学して共産主義に触れ、帰国後は中国共産党の革命運動に身を投じました。長征に参加し、抗日戦争と国共内戦を戦い、建国後は党の要職を歴任しました。文化大革命で二度失脚しながらもそのたびに復活し、1978年以降は改革開放の最高指導者として中国の運命を変えました。鄧小平の功績と過ちをどのように評価するかは、現代中国を理解するうえで最も重要な問いの一つです。経済的に豊かになった中国と、政治的自由が制約された中国は、いずれも鄧小平が残した遺産の二つの側面にほかなりません。

改革開放総設計師実用主義韜光養晦功罪

返還への道 ── 移行期の13年間

1984年の中英共同声明から1997年の返還まで、13年間にわたる移行期が設けられました。この期間は、返還後の香港の制度的枠組みを構築するとともに、スムーズな主権移譲を準備するための重要な時期でした。しかし実際には、移行期は中英間の対立と緊張に満ちたものとなります。

最大の争点となったのは、香港の政治制度改革をめぐる問題です。1992年にイギリスの最後の香港総督として着任したクリス・パッテンは、返還前に香港の民主化を推進する方針を打ち出しました。1994年から1995年の立法局選挙において、パッテンは選挙制度を大幅に改革し、直接選挙の議席を拡大しました。中国側はこれを中英共同声明と基本法の精神に反するものとして激しく非難し、返還後にパッテン改革で選出された立法局を廃止して「臨時立法会」に置き換えると宣言しました。

1990年4月には、全国人民代表大会が「中華人民共和国香港特別行政区基本法」を採択しました。全160条からなるこの基本法は、一国二制度の具体的な内容を法的に定めたものであり、香港の「ミニ憲法」と呼ばれます。行政長官の選出方法、立法会の構成、司法の独立、住民の権利と自由など、返還後の香港の統治の基本原則がここに規定されました。

返還を前にして、香港市民の間には期待と不安が交錯していました。移行期の13年間で推計50万人以上が海外に移住しましたが、1990年代半ば以降は経済の好調さと返還への慣れから移住の流れはやや落ち着いていました。一方で不動産市場はバブル的な高騰を見せ、返還を前にした「最後の好景気」の様相を呈していました。

返還式典 ── 歴史的瞬間

1997年6月30日から7月1日にかけての夜、香港コンベンション・アンド・エキシビション・センターにおいて主権移譲式典が挙行されました。式典には中国側から江沢民国家主席・李鵬国務院総理、イギリス側からチャールズ皇太子(当時)・トニー・ブレア首相が出席し、世界各国から要人や報道陣が集まりました。

6月30日午後11時59分、ユニオンジャック(英国旗)と香港の植民地旗が降ろされ、7月1日午前零時ちょうどに中華人民共和国の五星紅旗と香港特別行政区の区旗が掲揚されました。この数秒間の旗の交換が、155年にわたるイギリスの香港統治に終止符を打ち、香港が中華人民共和国の特別行政区として新たな歴史を歩み始める瞬間でした。

江沢民国家主席は式典で演説を行い、香港返還が中華民族の長年の悲願の達成であることを強調しました。チャールズ皇太子はスピーチのなかでイギリスと香港の歴史的なつながりに言及し、返還後の香港の繁栄と安定を祈念する言葉を述べました。式典後、チャールズ皇太子とパッテン最後の総督は王室ヨット・ブリタニア号に乗り込み、香港を後にしました。

7月1日、初代行政長官の董建華(とうけんか)が就任式を行い、香港特別行政区政府が正式に発足しました。同時に中国人民解放軍の駐香港部隊が香港に進駐し、それまでイギリス軍が担っていた香港の防衛任務を引き継ぎました。香港の新たな時代が幕を開けたのです。

式典の記録

雨のなかの返還 ── 1997年7月1日

返還式典の夜、香港は土砂降りの雨に見舞われました。この雨は、さまざまな象徴的解釈を呼び起こしました。中国の伝統では雨は「龍の涙」であり吉兆とされる一方、香港市民のなかには植民地時代の終わりを惜しむ天の涙と受け取る人もいました。式典会場では各国の国歌が演奏され、旗の掲揚と降納が行われる数秒間、会場は厳粛な沈黙に包まれました。式典の模様は世界中に生中継され、推計20億人以上の視聴者が見守ったとされています。鄧小平が構想し、交渉によって実現にこぎつけた香港返還の瞬間は、設計者自身が見届けることのない形で、歴史のページに刻まれることとなりました。

返還式典チャールズ皇太子江沢民董建華主権移譲

返還後の香港 ── 一国二制度の実験

返還直後の香港を待ち受けていたのは、アジア通貨危機という経済的試練でした。1997年7月にタイで始まった通貨危機は東アジア全域に波及し、香港の株式市場と不動産市場は大暴落しました。香港政庁は香港ドルの米ドルペッグ制を死守するために大規模な市場介入を行い、通貨投機家との攻防を繰り広げました。この危機は返還後の香港経済に深刻な打撃を与え、不動産価格の下落は多くの住宅所有者を「負の資産」(住宅の価値がローン残高を下回る状態)に陥れました。

政治面では、一国二制度の枠組みのもとで香港は独自の法制度・司法制度を維持し、言論・報道・集会の自由も返還当初は概ね保障されていました。毎年6月4日には天安門事件の追悼集会が香港で合法的に開催され、中国大陸では許されない政治的表現の自由が香港では守られていました。

しかし基本法第23条に基づく国家安全条例の立法をめぐって、2003年には50万人規模のデモが発生し、政府は法案の撤回を余儀なくされました。この出来事は、香港市民の政治的意識と自由を守る意志の強さを示すものでしたが、同時に北京と香港の間の緊張関係が今後も続くことを予感させるものでもありました。

返還から年月を経るにつれ、香港の政治的自治と自由をめぐる議論はますます先鋭化していきます。中国本土と香港の経済的統合が進む一方で、政治制度をめぐる両者の溝は深まる傾向にありました。一国二制度が約束した「五十年不変」の期限は2047年であり、その後の香港がどのような体制に移行するのかという問いは、返還時から現在に至るまで解かれていない宿題として残されています。

歴史的意義 ── 二つの時代の交差点

1997年は、現代中国史における一つの時代の終わりと新たな時代の始まりが交差した年として記憶されます。鄧小平の死は、革命と建設の時代を生き抜いた巨人の退場であり、中国が集団指導体制と制度化の時代に本格的に移行することを意味しました。個人のカリスマと権威に依存した政治から、制度的な権力移行のメカニズムを備えた政治への転換は、鄧小平自身が晩年に意図したものでもありました。

香港返還は、複数の歴史的な意味を持っています。第一に、アヘン戦争以来の「百年の屈辱」の清算です。不平等条約によって奪われた領土の回復は、中国のナショナリズムにとって象徴的な勝利でした。第二に、脱植民地化の最終段階です。香港返還は大英帝国の最後の主要な植民地の喪失であり、帝国主義時代の完全な終焉を象徴する出来事でした。

第三に、一国二制度の実践的な開始です。社会主義と資本主義を一つの国家のなかで共存させるという前例のない実験が始まりました。この実験の成否は、香港住民のみならず台湾との将来的な関係、さらには国際社会における中国の信用にも直結する重大な問題でした。

鄧小平は生前、香港返還の日を自らの目で見届けたいと繰り返し語っていたとされます。しかし運命は鄧小平にその機会を与えませんでした。改革開放と一国二制度という鄧小平が描いた二つの壮大な構想は、その設計者の死後に、それぞれの実験と試練の段階に入っていくことになります。1997年という年は、鄧小平時代の終幕と、ポスト鄧小平時代の中国の幕開けを同時に告げるものでした。

香港返還と鄧小平の死 関連年表

年月出来事備考
1984年12月中英共同声明の署名1997年の香港返還が決定
1990年4月香港基本法の採択一国二制度の法的枠組み
1992年パッテン総督の着任民主化改革を推進
1996年12月董建華が初代行政長官に選出選挙委員会による選出
1997年2月19日鄧小平の死去92歳、パーキンソン病
1997年2月25日鄧小平の追悼大会人民大会堂、江沢民が追悼の辞
1997年6月30日イギリスの統治の最後の日パッテン総督の離任
1997年7月1日香港返還・特別行政区の成立主権移譲式典、董建華が就任
1997年7月アジア通貨危機の発生香港経済に深刻な打撃
1999年12月マカオ返還一国二制度の二例目