AD 1953

第一次五カ年計画
ソ連型工業化の推進

新生中国がソ連の全面的援助のもと156の重点プロジェクトを軸に重工業の建設を推進し、農業国から工業国への転換を図った壮大な国家計画。

1953年、中華人民共和国は第一次五カ年計画(1953年〜1957年)を開始しました。建国から3年間の経済回復期を経て、いよいよ本格的な国家建設に乗り出したのです。この計画の核心は、ソ連の全面的な技術・資金援助のもとで重工業を優先的に建設し、農業国である中国を工業国へと転換させることにありました。

1949年の建国時、中国は世界で最も貧しい国の一つでした。一人当たり国民所得はわずか27ドル程度で、工業生産は国民経済のわずか約30%を占めるにすぎませんでした。鉄鋼生産量は年間わずか15万8000トン(同時期のアメリカは約8000万トン)であり、石油・電力・化学工業などの基幹産業はほぼ皆無に等しい状態でした。毛沢東は「我々は釘一本、ネジ一本すら自前で作れない」と嘆いたと伝えられています。

この圧倒的な後進性を克服するため、中国はソ連の経験に学ぶことを選びました。1950年2月に締結された「中ソ友好同盟相互援助条約」に基づき、ソ連は中国に対して大規模な経済・技術援助を約束しました。第一次五カ年計画は、ソ連の五カ年計画をモデルとし、ソ連の技術者・設備・図面を活用して、中国の工業基盤を一から構築しようとする壮大な試みでした。

このページでは、第一次五カ年計画の背景、ソ連からの援助の実態、計画の具体的内容、同時に進められた農業の集団化、そして計画の成果と問題点、歴史的意義を詳しく解説します。

工業化の必要性 ── 農業国からの脱却

建国直後の中国が直面した最大の課題は、圧倒的な経済的後進性でした。人口約5億4000万人のうち約80%が農村に住み、工業労働者はわずか数百万人にすぎませんでした。近代的な工業は主に旧満州(東北地方)と上海周辺に集中しており、しかもその多くは日本の植民地支配やアメリカ・イギリス資本によって建設されたものでした。

朝鮮戦争への参戦は、工業化の必要性を痛感させる経験となりました。戦場では近代兵器を大量に消費しましたが、中国は弾薬すら十分に自給できず、ソ連からの輸入に頼らざるを得ませんでした。また、アメリカの軍事的脅威に対抗するためにも、自前の軍事工業の構築が急務であると認識されました。

1949年から1952年までの「経済回復期」において、中国政府はインフレーションの抑制、交通網の復旧、旧国民党政権下の官僚資本の接収と国有化を進め、経済の安定化に一定の成功を収めました。1952年末までに工業・農業の主要指標は戦前最高水準を回復し、本格的な建設に着手する条件が整ったのです。

工業化の戦略については、重工業を優先するか軽工業・農業を重視するかという議論がありました。毛沢東と中国共産党指導部は、最終的にソ連モデルに倣い、重工業を優先する路線を選択しました。鉄鋼・電力・機械・化学工業などの基幹産業を先に建設し、それを基盤として軽工業と農業の近代化を進めるという構想です。これはスターリン型の工業化戦略そのものであり、消費財の生産と国民生活の向上は後回しにされることを意味していました。

経済状況

建国時の中国経済 ── 出発点の後進性

1949年の中国は、あらゆる経済指標において世界の最後進国群に属していました。一人当たり鉄鋼生産量はわずか0.29キログラム(日本の約100分の1)、発電量は一人当たり2.76キロワット時(アメリカの約500分の1)、セメント生産量も極めて少量でした。全国の鉄道総延長は約2万2000キロメートルで、日本の半分にも達していませんでした。毛沢東がしばしば引用した表現によれば、中国は「一辆汽車、一架飛機、一辆坦克、一辆拖拉機都不能造」(自動車も飛行機も戦車もトラクターも一台も作れない)状態でした。この圧倒的な後進性こそが、ソ連型の急速な重工業化を正当化する最大の根拠となったのです。

農業国重工業優先経済回復期スターリン型工業化後進性

ソ連の援助 ── 「156項目」プロジェクト

第一次五カ年計画の成否を左右したのは、ソ連からの全面的な援助でした。1950年の中ソ友好同盟相互援助条約に基づき、さらに1953年と1954年の追加協定を経て、ソ連は中国に対して「156項目」と呼ばれる大規模な産業建設プロジェクトへの支援を約束しました(実際に着工されたのは150項目、計画期間中に完成したのは約68項目)。

156項目プロジェクトは、鉄鋼、非鉄金属、電力、石炭、石油、機械製造、化学工業、軍事工業など、重工業のあらゆる分野を網羅する包括的なものでした。ソ連は工場の設計図、製造設備、技術マニュアルを提供するだけでなく、数千人の技術顧問を中国に派遣し、中国人技術者をソ連に招いて訓練しました。1950年代前半にはソ連から約1万人の専門家が中国で活動し、中国からも約3万8000人の留学生・研修生がソ連に派遣されました。

代表的なプロジェクトとしては、鞍山鉄鋼公司(中国最大の製鉄所の拡張)、武漢鉄鋼公司(長江流域初の大型製鉄所)、第一汽車製造廠(長春、中国初の自動車工場)、洛陽トラクター工場(中国初のトラクター工場)などがありました。これらの工場はソ連の設計・設備に基づいて建設され、中国の重工業の骨格を形成しました。

ただし、ソ連の援助は無償ではありませんでした。設備と技術は有償であり、中国は農産物・鉱物資源の輸出によって支払いました。また1950年の条約でソ連から供与された3億ドルの借款も利子付きであり、中国は1965年までに全額を返済しています。この有償援助に対する不満は、後の中ソ対立の一因ともなりました。

我々はソ連に学ばなければならない。ソ連の今日は我々の明日である。 ── 1950年代前半の中国のスローガン(趣旨)

計画の内容 ── 重工業建設と社会主義改造

第一次五カ年計画は、大きく二つの柱から成り立っていました。第一の柱は重工業を中心とする工業建設、第二の柱は農業・手工業・資本主義商工業の「社会主義改造」(所有制の変革)です。

工業建設においては、国家投資の約58%が工業部門に配分され、そのうち約88%が重工業に充てられました。鉄鋼・石炭・電力・機械・化学工業が重点分野とされ、156項目のソ連援助プロジェクトを核として、合計694の大中型工業プロジェクトが計画されました。工場の配置については、沿海部への集中を避け、内陸部(特に東北・華北・西北地方)に分散させる方針がとられました。これは軍事的観点から沿海部が攻撃に脆弱であることへの対策であると同時に、地域間の経済格差を是正する意図もありました。

社会主義改造は「過渡期の総路線」(1953年発表)として定式化されました。農業では互助組から初級農業生産合作社(土地を出資として共同経営)、さらに高級農業生産合作社(土地の集団所有)へと段階的に集団化を進める方針が示されました。手工業についても合作社への組織化が推進されました。資本主義商工業については、「利用・制限・改造」の方針のもと、まず国家資本主義の形態(公私合営)を経て、最終的に国有化するという漸進的な路線が採用されました。

計画の策定にあたっては、ソ連の国家計画委員会(ゴスプラン)の専門家が直接指導にあたりました。中国でも1952年に国家計画委員会が設立され、陳雲や李富春といった経済通の指導者が計画の立案と調整にあたりました。計画は「中央集権的指令型経済」の原則に基づき、主要な生産目標は中央政府が設定し、各省・各企業に割り当てられました。

農業の集団化 ── 土地改革から合作社へ

第一次五カ年計画と並行して進められた農業の集団化は、土地改革で農民に分配した土地を再び集約するという、一見矛盾した政策でした。しかし共産党の論理では、土地改革は封建的搾取の廃止が目的であり、個人農経営はあくまで過渡的な形態にすぎず、最終目標は社会主義的な集団経営にあるとされていました。

集団化は三段階で進められました。第一段階は「互助組」の結成で、数戸の農家が労働力や農具を融通し合う緩やかな協力形態です。第二段階は「初級農業生産合作社」で、土地を出資として共同で耕作し、収穫を土地と労働の双方に応じて分配する半集団経営です。第三段階は「高級農業生産合作社」で、土地は完全に集団所有となり、分配は労働量のみに基づいて行われました。

当初の計画では、集団化は15年ないし18年かけて漸進的に進める予定でした。しかし1955年7月、毛沢東は「農業合作化の問題について」と題する報告を行い、集団化のテンポを大幅に加速するよう指示しました。毛沢東は農民の「社会主義的積極性」を楽観的に評価し、党内の慎重論を「右傾日和見主義」として批判したのです。この結果、1955年末から1956年にかけて集団化は急速に進み、1956年末までに全農家の約96%が高級合作社に加入するという驚異的な速度で集団化が完了しました。

急速な集団化には多くの問題が伴いました。多くの農民は自ら手にしたばかりの土地を手放すことに抵抗を示し、合作社への加入を拒否したり、家畜を屠殺して個人資産の集団化を妨げる行動に出ました。生産管理の経験不足や組織の混乱も相まって、一部の地域では農業生産が低下しました。しかし全体としては、集団化は深刻な農村の混乱を引き起こすことなく「成功」したと評価され、この「成功体験」が毛沢東をさらなる急進路線へと導くことになります。

社会主義改造

資本主義商工業の改造 ── 公私合営

農業の集団化と並行して、都市部では資本主義商工業の社会主義改造が進められました。中国共産党は私営企業を一挙に国有化するのではなく、段階的に国家管理に移行させる「公私合営」方式を採用しました。まず国家が私営企業に出資・参加して経営の主導権を握り、元の資本家には利潤の一定割合を「定息」として支払う形態です。1956年1月には、毛沢東の加速指示を受けて全国の主要都市で一斉に全業種の公私合営が実現し、資本家たちは銅鑼や太鼓を打ち鳴らして「社会主義の勝利」を祝うパレードに参加しました。表面上は自発的な変革でしたが、実際には政治的圧力のもとで選択の余地はほとんどありませんでした。資本家への定息支払いは1966年まで続けられ、文化大革命の開始とともに打ち切られました。

公私合営社会主義改造定息国有化過渡期の総路線

成果と問題点 ── 光と影

第一次五カ年計画は、数字の上では大きな成功を収めました。1957年の工業総生産額は1952年比で128.6%増加し、計画目標の103%を達成しました。鉄鋼生産は1952年の135万トンから1957年には535万トンに増加、石炭生産は6649万トンから1億3000万トンに、発電量は73億キロワット時から193億キロワット時にそれぞれ増大しました。第一汽車製造廠からは中国初の国産トラック「解放号」が生産ラインを離れ、洛陽からは国産トラクターが出荷されました。

工業化の地理的分布も大きく変化しました。かつてほぼ沿海部に集中していた工業が内陸部にも展開し、武漢・包頭・蘭州・成都などの都市に新たな工業拠点が形成されました。これにより中国の工業配置は均衡化の方向へ大きく前進しました。

しかし問題点も少なくありませんでした。重工業への偏重は、軽工業と農業の発展を犠牲にしました。消費財の供給は国民の需要を満たすには程遠く、食糧・綿布・食用油など生活必需品には配給制が導入されました。農業生産の伸びは年平均3.8%にとどまり、人口増加率(年約2%)を大きく上回ることはできませんでした。

また、ソ連モデルの機械的な導入にも限界がありました。ソ連型の大規模工場は資本集約的であり、中国の豊富な労働力を十分に活用できませんでした。また中央集権的な指令型計画経済は、地方の実情に合わない硬直的な意思決定をもたらすことがありました。毛沢東自身も1956年の「十大関係論」において、重工業偏重の弊害を認識し、農業と軽工業にもっと配慮すべきだとの見解を示しています。この認識が、後の「大躍進」における独自路線の模索につながっていくことになります。

歴史的意義 ── 工業国への第一歩

第一次五カ年計画の歴史的意義は、それが中国の工業化の出発点であったという点に尽きます。この5年間で中国は、自動車も戦車も飛行機も作れなかった農業国から、基本的な重工業体系を備えた国へと変貌しました。計画期間中に建設された工場や発電所の多くは、その後数十年にわたって中国の工業生産を支え続けました。

しかしそれ以上に重要なのは、第一次五カ年計画が中国の経済体制と社会構造を根本的に変えたことです。農業の集団化と資本主義商工業の社会主義改造を通じて、中国は私的所有に基づく経済から社会主義的公有制経済へと移行しました。1956年末までに社会主義改造は基本的に完了し、中国は「社会主義社会」に入ったと宣言されました。

国際的には、第一次五カ年計画は中ソ同盟の蜜月期を象徴するものでした。ソ連の援助なくしてこの計画の成功はあり得ず、両国の協力関係は1950年代前半に最も緊密でした。しかし計画の進行とともに、ソ連モデルへの疑問も芽生え始めました。毛沢東は中国独自の社会主義建設の道を模索するようになり、それが1958年の大躍進政策という独自の実験へとつながっていきます。

第一次五カ年計画は、その成功ゆえに、中国指導部に過度な楽観主義をもたらしたとも評価されています。「計画を立てれば実現できる」「大衆を動員すれば奇跡が起こせる」という信念は、大躍進の悲劇的な失敗へとつながる危険な自信の源泉となったのです。

第一次五カ年計画 関連年表

出来事備考
1950年2月中ソ友好同盟相互援助条約ソ連援助の法的基盤
1952年国家計画委員会設立計画経済の司令塔
1953年第一次五カ年計画開始156項目プロジェクト着手
1953年過渡期の総路線を発表社会主義改造の方針
1953年食糧の統一買付・統一販売配給制の導入
1955年7月毛沢東「農業合作化」報告集団化の加速
1956年1月全国主要都市で公私合営一斉実施資本主義商工業の改造
1956年末社会主義改造が基本完了社会主義社会への移行
1956年4月毛沢東「十大関係論」ソ連モデルへの疑問
1957年第一次五カ年計画完了主要目標を達成