1949年10月1日午後3時、北京の天安門城楼の上に立った毛沢東は、マイクに向かって「中華人民共和国中央人民政府は、本日ここに成立した」と宣言しました。天安門広場に集まった約30万人の群衆は歓声を上げ、五星紅旗が天安門広場の旗竿に初めて掲げられました。この瞬間、中国は新たな時代に入りました。
中華人民共和国の建国は、1840年の阿片戦争以来約109年にわたった「百年の屈辱」の終結を意味するものでした。列強の侵略、半植民地化、軍閥の割拠、日本の侵攻、そして内戦という激動の歴史を経て、中国共産党の指導の下に中国大陸はついに統一されたのです。毛沢東はこの歴史的瞬間を「中国人民はついに立ち上がった」という言葉で表現しました。
しかし、新中国の建国は終着点ではなく、新たな出発点でした。戦争で荒廃した国土の復興、約5億人の国民の生活の安定、近代的な工業国家への転換、そして国際社会における新政権の承認という課題が山積していました。さらに、国民党の残存勢力との戦闘は中国南部と西部でなお続いており、台湾にはなお国民政府が存在していました。建国の喜びの中にも、前途の困難さへの認識がありました。
南下と統一 ── 渡江作戦から全土解放へ
三大戦役の勝利を受けて、1949年の中国大陸では人民解放軍の南進が怒涛のように展開されました。1月の北平和平解放後、蒋介石は「引退」して李宗仁が代理総統に就任し、共産党との和平交渉を試みましたが、毛沢東は国民党に対して実質的な無条件降伏に等しい条件を突きつけ、4月20日に交渉は決裂しました。
4月21日、毛沢東と朱徳の命令により、人民解放軍は渡江作戦を開始しました。約百万の大軍が西は湖口から東は江陰に至る約500キロメートルの戦線で一斉に長江を渡りました。国民党軍の長江防衛線は1日で突破され、4月23日には中華民国の首都・南京が占領されました。国民政府は広州に逃れ、その後も重慶、成都と転々としていきます。
5月27日には中国最大の商業都市・上海が解放されました。上海の接収にあたって、人民解放軍は市民への被害を最小限に抑えるよう厳格な規律を維持しました。解放軍の兵士たちが市街戦を避けて路上で野営する姿は、上海市民に強い印象を与え、新政権への好意的な評価を生みました。
その後も解放軍は南下を続け、福州(8月)、広州(10月)、重慶(11月)、成都(12月)と主要都市を次々と占領していきました。1949年末までに、中国大陸のほぼ全域が人民解放軍の支配下に入りました。ただし、チベット・海南島・一部の辺境地域はまだ完全には掌握されておらず、台湾には国民政府が存続していました。
建国の準備 ── 新政治協商会議
中華人民共和国の建国は、周到な政治的準備の上に行われました。その中核となったのが、1949年9月21日から30日にかけて北平で開催された中国人民政治協商会議(新政協)第一回全体会議です。この会議には中国共産党のほか、各民主党派・人民団体・少数民族・華僑などの代表662名が参加し、新国家の基本的な枠組みを決定しました。
会議では、新国家の臨時憲法にあたる「中国人民政治協商会議共同綱領」が採択されました。共同綱領は、中華人民共和国を「工人階級が指導し、工農連盟を基礎とする人民民主主義独裁の国家」と規定し、新民主主義の政治・経済・文化・教育・民族・外交の基本方針を定めました。正式な憲法の制定は1954年まで待たなければなりませんでしたが、共同綱領は建国初期の国家運営の基本法として機能しました。
会議ではまた、国名を「中華人民共和国」と決定し、首都を北平と定め、その名称を「北京」に改めました。国旗は五星紅旗(赤地に大きな黄色い星一つと小さな星四つ)、国歌は「義勇軍進行曲」(田漢作詞・聶耳作曲)が採用されました。国旗のデザインは全国から応募された約3000案の中から選ばれたもので、大きな星は中国共産党の指導を、四つの小さな星は工人・農民・小ブルジョワジー・民族ブルジョワジーの四つの階級を象徴するとされています。
中央人民政府の組織も決定されました。中央人民政府主席に毛沢東、副主席に朱徳・劉少奇・宋慶齢・李済深・張瀾・高崗の6名が選出されました。副主席に宋慶齢(孫文の未亡人)や李済深(国民党の元軍人)など非共産党員を含めたことは、「統一戦線」の方針を体現するものでした。政務院総理(首相に相当)には周恩来が任命されました。
五星紅旗と義勇軍進行曲 ── 新中国のシンボル
新中国の国旗と国歌の選定には、建国の理念が凝縮されています。五星紅旗をデザインしたのは上海の経済学者・曽聯松で、全国公募に応じた一般市民でした。赤は革命の血を、黄色は中国人民の肌の色(光明を象徴)を表し、大きな星と四つの小さな星の配置は共産党と四つの階級の団結を意味します。国歌「義勇軍進行曲」は元来1935年の抗日映画の主題歌であり、日本の侵略に対する中華民族の抵抗精神を歌い上げたものです。建国にあたって「暫定国歌」として採用されましたが、その力強い旋律と歌詞は国民に広く親しまれ、正式な国歌となりました。
開国大典 ── 1949年10月1日
1949年10月1日、秋晴れの北京で中華人民共和国の建国式典「開国大典」が挙行されました。午後3時、毛沢東は天安門城楼の上に立ち、中央人民政府委員会の委員たちに囲まれて、厳かに建国を宣言しました。その声はラジオを通じて全中国に、そして全世界に伝えられました。
建国宣言の後、毛沢東は自ら天安門広場の旗竿に設置された電動スイッチを押し、最初の五星紅旗を掲揚しました。54門の大砲が28発の礼砲を放ちました(28発は中国共産党の結成から28年を意味するとされます)。続いて朱徳総司令が人民解放軍に対して全国に向かって進軍を続けるよう命令を発しました。
天安門広場には約30万人の群衆が集結し、盛大な閲兵式と祝賀パレードが行われました。人民解放軍の歩兵・騎兵・砲兵・戦車・装甲車の部隊が次々と天安門前を行進し、上空を17機の飛行機が編隊飛行で通過しました(機体が少なかったため、一部は二度通過したと伝えられています)。夜にはランタンと花火が北京の夜空を彩り、祝賀は深夜まで続きました。
開国大典は、中国の歴史における王朝の建国とは根本的に異なる性格を持っていました。皇帝の即位ではなく、人民の代表による共和国の建国であり、天安門という明清の皇帝の権威の象徴的空間を人民の祝祭の場に転換したことには、革命の意義が象徴的に表現されていました。毛沢東が天安門に立った姿は、その後長きにわたって新中国の原点として国民の記憶に刻まれることになります。
新政権の構造 ── 人民民主主義独裁
中華人民共和国の政治体制は、毛沢東が1949年6月の論文「人民民主主義独裁論」で提示した理論に基づいて構築されました。毛沢東はこの論文において、新中国は「工人階級の指導の下、工農連盟を基礎とする人民民主主義独裁」の国家であると定義しました。「人民」に含まれるのは工人・農民・小ブルジョワジー・民族ブルジョワジーの四つの階級であり、これらの階級は共産党の指導の下で団結して国家建設にあたるとされました。
政権の中枢機構として、中央人民政府委員会(国家の最高権力機関)の下に政務院(行政機関)・人民革命軍事委員会(軍事機関)・最高人民法院(司法機関)・最高人民検察署(検察機関)が設置されました。政務院は周恩来が総理として率い、外交・国防・財政・経済・文化教育などの各分野を管轄する部門が置かれました。
建国当初の経済政策は、急進的な社会主義化を避け、「新民主主義経済」を掲げました。これは国営経済を主導としつつも、私営企業(民族資本)の存続を認め、農業の集団化も段階的に進めるという漸進的な方針でした。インフレーションの抑制と財政の統一が最優先課題とされ、陳雲が中心となって経済の安定化に取り組みました。1950年春までにハイパーインフレーションは終息し、物価の安定が達成されたことは、新政権の統治能力を国民に印象づける重要な成果でした。
社会改革も急速に進められました。1950年5月には婚姻法が公布され、封建的な婚姻制度(包弁婚・売買婚・重婚・蓄妾)が禁止されました。6月には土地改革法が公布され、地主の土地を没収して農民に分配する土地改革が全国規模で実施されました。これらの改革は数千年来の社会構造を根本から変えるものであり、新中国の社会的基盤を構築しました。
「人民民主主義独裁」── 新中国の政治理論
毛沢東が提唱した「人民民主主義独裁」は、中国の具体的条件に即してマルクス・レーニン主義を応用した独自の理論です。「独裁」という言葉は西洋の民主主義的な政治理論とは相容れないように見えますが、毛沢東は「人民に対しては民主、人民の敵に対しては独裁」という二重構造の論理を展開しました。「人民」の範囲を広く設定して民族ブルジョワジーまで含めたことは、建国初期に幅広い社会的基盤を確保するための現実的な判断でした。しかし、「人民の敵」の定義が政治状況によって変動し得ることは、後の反右派闘争や文化大革命において深刻な問題を引き起こすことになります。
外交と承認 ── 国際社会の反応
中華人民共和国の成立に対する国際社会の反応は、冷戦の構図を反映して二極化しました。建国翌日の10月2日、ソ連は世界で最初に中華人民共和国を承認しました。続いてブルガリア・ルーマニア・チェコスロバキア・ハンガリー・ポーランドなどの東欧社会主義諸国、北朝鮮・モンゴルなどが相次いで承認しました。
西側諸国の対応は分かれました。イギリスは1950年1月6日に中華人民共和国を承認しましたが、これは香港の利権を守る現実的な判断に基づくものでした。しかしアメリカは承認を拒否し、引き続き台湾の中華民国政府を中国の正統な政府として支持しました。アメリカの不承認政策は1972年のニクソン訪中まで約23年間続き、東アジアの国際関係に深い影を落としました。
毛沢東は建国に先立って外交方針を明確にしていました。1949年春に発表された「別の一方に傾く」(「一辺倒」)の方針は、新中国が社会主義陣営に属し、ソ連と同盟関係を結ぶことを宣言するものでした。12月には毛沢東自らモスクワを訪問してスターリンと会談し、1950年2月に「中ソ友好同盟相互援助条約」が締結されました。この条約はソ連から中国への経済・技術援助の基盤となりましたが、同時に中国の外交的選択肢を制約するものでもありました。
建国当初の中国外交で注目されるのは、周恩来外交部長(外相)の手腕です。周恩来は「打掃干浄屋子再請客」(家を掃除してから客を招く)という原則を掲げ、旧中国の不平等条約を清算し、外国の特権を廃除した上で、対等な立場で外交関係を樹立する方針を示しました。この方針に基づき、列強の租界・租借地は回収され、在華外国軍隊は撤退を求められました。
歴史的意義 ── 「中国人民は立ち上がった」
中華人民共和国の建国がもつ歴史的意義は、中国史のみならず世界史の文脈においても極めて大きいものです。第一に、阿片戦争以来約109年にわたった「百年の屈辱」に終止符が打たれました。半植民地・半封建社会からの解放は、中国のナショナル・アイデンティティにとって決定的な意味を持ちました。不平等条約の撤廃、外国軍隊の撤退、租界の回収により、中国は完全な主権国家としての地位を回復したのです。
第二に、世界の人口の約4分の1を占める国が社会主義体制に移行したことは、冷戦の世界的な勢力図を一変させました。「中国の喪失」(Loss of China)はアメリカ国内で激しい政治論争を引き起こし、マッカーシズム(赤狩り)の一因ともなりました。中華人民共和国の成立は、アジア・アフリカの反植民地運動にも大きな刺激を与え、脱植民地化の世界的潮流を加速させました。
第三に、中国社会の根本的な変革が始まりました。土地改革による地主制度の廃絶、婚姻法による女性の解放、識字運動による教育の普及など、建国初期の改革は何億もの人々の生活を変えました。しかし同時に、「人民の敵」に対する大規模な弾圧も行われ、旧体制の支持者や反革命分子とされた人々は厳しい処罰を受けました。革命と暴力は不可分の関係にありました。
中華人民共和国の建国は、中国の長い歴史において新たな章の始まりでした。しかしその後の歴史は──大躍進運動の悲劇、文化大革命の混乱、改革開放による経済発展──建国時の理想と現実の間に常に緊張が存在し続けたことを示しています。1949年10月1日の天安門に掲げられた五星紅旗は、新たな希望の象徴であると同時に、未知の試練への出発の旗でもあったのです。
中華人民共和国の建国 関連年表
| 年月 | 出来事 | 備考 |
|---|---|---|
| 1949年1月 | 北平和平解放 | 三大戦役の完了 |
| 1949年3月 | 七届二中全会(西柏坡会議) | 農村から都市へ、工作重心の移転 |
| 1949年4月21日 | 渡江作戦の開始 | 百万の大軍が長江を渡る |
| 1949年4月23日 | 南京の占領 | 国民政府の首都が陥落 |
| 1949年5月27日 | 上海の解放 | 中国最大の商業都市を接収 |
| 1949年6月 | 「人民民主主義独裁論」発表 | 新国家の理論的基礎 |
| 1949年9月21-30日 | 新政治協商会議 | 共同綱領・国旗・国歌を決定 |
| 1949年10月1日 | 開国大典 | 中華人民共和国の成立を宣言 |
| 1949年10月2日 | ソ連が承認 | 世界初の国家承認 |
| 1950年2月 | 中ソ友好同盟相互援助条約 | 社会主義陣営への参入 |