1938年は、日中戦争の性格が根本的に変わった年でした。前年末の南京陥落後、日本軍は中国の首都を占領すれば中国が降伏するものと期待していましたが、蒋介石は屈服せず、重慶を臨時首都として抗戦の継続を宣言しました。日本の「短期決戦」の目論見は完全に外れ、戦争は日本が最も恐れていた長期消耗戦の様相を呈し始めます。
1938年前半には台児荘の戦いで中国軍が日本軍に初の大規模な勝利を収め、中国の抗戦士気を大いに高めました。6月には蒋介石が日本軍の進撃を阻止するため黄河の堤防を決壊させるという極端な焦土作戦を実行し、大きな犠牲を払いながらも日本軍の武漢への直接進撃を遅延させました。
1938年6月から10月にかけて展開された武漢会戦は、日中戦争における最大規模の会戦でした。中国軍は約110万人、日本軍は約35万人が参加し、長江中流域の広大な地域で4か月半にわたる攻防が繰り広げられました。最終的に武漢三鎮(武昌・漢口・漢陽)は日本軍の手に落ちましたが、中国軍の主力は温存され、日本軍は戦線を維持するだけで精一杯の状態に追い込まれました。武漢会戦後、日中戦争は戦略的膠着状態に入り、長期持久戦の段階へと移行していきます。
台児荘の勝利 ── 中国軍初の大捷
1938年3月から4月にかけて、山東省南部の台児荘で展開された戦闘は、日中戦争における中国軍初の大規模な勝利として歴史に記録されています。日本軍の第五師団と第十師団が南北から山東省の要衝・徐州を挟撃しようとしたのに対し、中国の第五戦区司令長官・李宗仁(りそうじん)が巧みな作戦指導によって日本軍を撃退しました。
李宗仁は日本軍の先鋒部隊を台児荘の運河沿いに引き込み、側面から包囲攻撃を加える戦術を採りました。中国軍は台児荘の市街地で壮絶な肉弾戦を展開し、約2週間の激闘の末、日本軍を撃退しました。日本軍の損害は約1万1千人に達し、中国軍は武器・弾薬を大量に鹵獲しました。
台児荘の勝利は、南京陥落以来沈滞していた中国の抗戦士気を一挙に高めました。この勝利の報は全国に伝わり、武漢をはじめ各地で盛大な祝勝行事が行われました。国際社会においても、中国が依然として有効な抵抗能力を持つことが認識され、中国への支援強化の機運が高まりました。
しかし台児荘の勝利は戦術的な成功にとどまり、戦略的な日本軍の優勢を覆すものではありませんでした。日本軍は態勢を立て直して大規模な増援を送り、5月には徐州を包囲しようとしました。中国軍は包囲される前に徐州から撤退し、日本軍は空の徐州を占領しました。この「徐州会戦」で中国軍の主力が脱出に成功したことは、蒋介石の持久戦略の一環として評価されています。
台児荘の戦い ── 勝利の要因
台児荘での勝利を可能にしたのは、いくつかの要因が重なったことでした。第一に、李宗仁の冷静な戦術判断です。広西派の軍人である李宗仁は、正面からの激突を避け、日本軍を運河沿いの市街地に誘い込んで包囲する柔軟な戦術を採りました。第二に、中国軍の将兵が見せた高い士気と犠牲的精神です。台児荘では中国兵が手榴弾を体に巻き付けて日本軍の戦車に突撃するなど、壮絶な肉弾戦が展開されました。第三に、日本軍が兵力を分散させ、補給線が伸びきった状態で攻撃を仕掛けたことです。台児荘の教訓は、適切な指導と高い士気があれば、中国軍は日本軍に勝利しうることを示しました。
黄河決壊 ── 焦土作戦の代償
1938年6月9日、蒋介石の命令により、河南省鄭州近郊の花園口で黄河の堤防が人為的に決壊させられました。これは日本軍の武漢方面への進撃を遅延させるための焦土作戦でしたが、その代償は途方もなく大きなものでした。黄河の濁流は河南・安徽・江蘇の三省にわたる広大な平原を水没させ、約89万人が溺死し、数百万人が家を失いました。
決壊の直接の目的は達成されました。日本軍の機械化部隊は大規模な浸水地帯によって進路を遮断され、武漢への直接的な北方ルートからの進撃を断念せざるを得なくなりました。日本軍は長江沿いの南方ルートに進路を変更し、これにより武漢到達は数か月遅れることになりました。
しかし、この決壊がもたらした民間人の被害は甚大でした。浸水した地域は「黄汎区」と呼ばれ、約54,000平方キロメートル(四国と九州を合わせたほどの面積)の農地が水没しました。約1,200万人が被災し、その後数年間にわたって飢饉が続きました。蒋介石政権は当時、黄河決壊を日本軍の爆撃によるものと発表し、自軍の関与を否定しました。真相が広く知られるようになったのは戦後のことです。
花園口事件は、戦争における民間人の犠牲の問題を鋭く提起するものでした。軍事的な必要性のために自国民に巨大な犠牲を強いることの是非は、今日に至るまで議論の対象です。蒋介石にとっては国家の存亡をかけた苦渋の決断であったとも言えますが、数十万の無辜の民を犠牲にした行為は、戦時指導者の責任の重さを痛感させます。
武漢会戦 ── 日中戦争最大の決戦
1938年6月から10月にかけて展開された武漢会戦は、日中戦争における最大規模の会戦でした。長江中流域の要衝・武漢三鎮(武昌・漢口・漢陽)をめぐり、中国軍約110万人と日本軍約35万人が4か月半にわたって攻防を繰り広げました。戦域は湖北・安徽・江西・河南の四省にわたり、東西約400キロメートル、南北約300キロメートルという広大なものでした。
日本軍は長江沿いの水路と鉄道路線を利用して二方面から武漢に迫りました。北路軍は安慶・信陽方面から、南路軍は九江・黄石方面から進撃しました。中国軍は各地で遅延戦術を展開し、要所ごとに日本軍を引き付けて消耗させました。万家嶺の戦いでは、中国軍は日本軍の第106師団をほぼ壊滅させる戦果を挙げました。
蒋介石の武漢防衛戦略は、武漢そのものの死守ではなく、時間を稼いで重慶への政府機能・産業施設の移転を完了させることにありました。この「以空間換時間」(空間を犠牲にして時間を稼ぐ)戦略により、中国は戦争継続に必要な産業基盤と人材を奥地に移すことに成功しました。
10月25日、日本軍はついに武漢三鎮を占領しましたが、中国軍の主力は事前に西方に撤退しており、日本軍が期待した中国軍主力の殲滅は達成されませんでした。武漢会戦における日本軍の損害は約3万5千人にのぼり、戦力の消耗は深刻でした。武漢占領後、日本軍はこれ以上の大規模な進攻作戦を遂行する能力を事実上失い、戦争は戦略的膠着状態に入りました。
重慶の抗戦体制 ── 大後方の建設
武漢陥落に先立つ1937年11月、蒋介石は重慶を臨時首都とすることを宣言していました。四川省の山間部に位置する重慶は、長江の峡谷と険しい山岳地帯に守られた天然の要塞であり、日本軍の地上部隊が容易に到達できない場所でした。この地理的条件が、中国が8年間にわたる持久戦を遂行することを可能にしたのです。
重慶への遷都に伴い、沿海部の産業施設と人材の大規模な西遷が行われました。上海・南京・武漢などの工場約600か所が解体され、長江を遡って四川盆地に移転しました。大学・研究機関も内陸部に移り、北京大学・清華大学・南開大学は雲南省の昆明で臨時の西南聯合大学を設立しました。この産業と知識の大移動は、中国の抗戦を支える経済的・知的基盤を確保するものでした。
しかし重慶政府の戦時体制は多くの困難を抱えていました。日本軍は1938年末から1943年にかけて重慶に対する大規模な戦略爆撃(重慶爆撃)を繰り返し、市民に甚大な被害をもたらしました。物資の不足は深刻で、インフレーションが急速に進行し、国民生活は困窮を極めました。軍事的にも、精鋭部隊の多くを上海戦や武漢会戦で失った国民党軍は、戦闘力の回復に苦慮していました。
国際的な支援も限られていました。ソ連は1937年から1941年にかけて中国に軍事援助を行い、航空機や軍事顧問を提供しました。しかし西方列強の支援は消極的で、中国への主要な物資輸送路であったビルマ・ロード(滇緬公路)は、ビルマからの山岳道路を通る困難なものでした。中国は国際的に孤立した状態で、持久戦を戦い抜かなければなりませんでした。
産業の大西遷 ── 中国版の「工場疎開」
日中戦争における中国の産業西遷は、歴史上類を見ない規模の工場移転でした。実業家の盧作孚(ろさくふ)が経営する民生輪船公司は、長江の三峡区間で工場設備・物資・難民の輸送に大きな役割を果たしました。日本軍の空襲の危険を冒しながら、約40日間で約150万トンの物資と約150万人の人員を重慶方面に輸送したとされています。この西遷により、中国の戦時工業生産は完全に途絶することなく維持され、長期抗戦を可能にしました。同時に、それまで農業地帯であった四川盆地に近代的な産業基盤が移植され、中国内陸部の近代化の契機ともなりました。
遊撃戦と根拠地 ── 共産党の戦略的拡大
武漢会戦後の戦略的膠着状態は、中国共産党に大きな戦略的機会を提供しました。日本軍は占領地域の主要都市と鉄道沿線を支配していましたが、広大な農村地帯を有効に管理する力を持っていませんでした。共産党の八路軍と新四軍は、この「空白地帯」に浸透し、遊撃戦を展開しながら抗日根拠地を建設していきました。
毛沢東は1938年5月に「持久戦論」を発表し、日中戦争を三段階(戦略的防御・戦略的膠着・戦略的反攻)で捉える理論を提示しました。毛沢東はこの論文で、中国は最終的に勝利するが、それには長期の持久戦が必要であり、遊撃戦が持久戦の主要な形態となると論じました。この理論は共産党の戦略的行動の指針となりました。
華北の抗日根拠地では、共産党は「三三制」(共産党員・左派人士・中間派が各三分の一を占める)による民主的な辺区政府を樹立し、減租減息(地代と利息の引き下げ)政策を実施して農民の支持を獲得しました。この政策は地主制度を廃止するものではなく穏健な改良にとどまりましたが、農民にとっては生活の改善を実感できるものであり、共産党への支持基盤を着実に拡大させました。
1938年末の時点で、共産党の八路軍は約15万6千人、新四軍は約2万5千人の兵力を擁していました。これは長征終了時の数千人から飛躍的な増大でした。華北・華中の広大な地域に抗日根拠地のネットワークが形成され、共産党は軍事組織としてだけでなく、地方行政を担う政治勢力としても着実に成長していきました。この拡大の勢いは国民党を警戒させ、やがて国共間の摩擦が再燃していくことになります。
歴史的意義 ── 持久戦への転換
1938年は日中戦争の性格を決定的に変えた年でした。武漢会戦の終結により、日本軍は大規模な進攻作戦能力を失い、戦争は日本が最も恐れていた長期消耗戦に突入しました。蒋介石の「以空間換時間」戦略は、膨大な犠牲を払いながらも、その基本的な目的を達成したのです。
日本は近衛文麿首相の「東亜新秩序」声明(1938年11月)で新たな政治的解決を模索しましたが、蒋介石はこれを拒否し抗戦を継続しました。日本は蒋介石に代わる交渉相手を求めて汪兆銘(おうちょうめい)政権を南京に樹立しましたが(1940年)、これは中国民衆の支持を得ることができず、日本の政治工作は行き詰まりました。
持久戦化は国共両党の力関係にも重大な影響を与えました。国民党軍が正面戦場で日本軍と消耗戦を戦う間、共産党は敵後方での遊撃戦を通じて勢力を拡大し続けました。この構図は1945年の日本の降伏まで基本的に変わらず、共産党は終戦時に約120万の正規軍と約260万の民兵を擁する巨大勢力に成長していました。
1938年の戦略的膠着は、日中戦争が太平洋戦争の一部として国際化する伏線ともなりました。中国を短期間で屈服させることに失敗した日本は、資源確保のために南方への進出を図り、それが英米との対立を深め、1941年の太平洋戦争の開戦につながっていきます。武漢会戦は、東アジアのみならず世界史的な連鎖反応の起点となった戦いでした。
武漢会戦と持久戦 関連年表
| 年月 | 出来事 | 備考 |
|---|---|---|
| 1938年3-4月 | 台児荘の戦い | 中国軍が日本軍に初の大規模勝利 |
| 1938年5月 | 徐州会戦 | 中国軍主力が包囲を脱出 |
| 1938年5月 | 毛沢東「持久戦論」発表 | 長期戦の理論的基礎を提示 |
| 1938年6月9日 | 花園口の黄河決壊 | 日本軍の進撃を遅延、約89万人が犠牲 |
| 1938年6月 | 武漢会戦の開始 | 中国軍110万vs日本軍35万 |
| 1938年10月 | 万家嶺の戦い | 日本軍第106師団をほぼ壊滅 |
| 1938年10月25日 | 武漢三鎮の陥落 | 中国軍主力は西方に撤退 |
| 1938年10月 | 広州の陥落 | 中国の主要港が日本軍に占領 |
| 1938年11月 | 近衛声明「東亜新秩序」 | 日本の新たな政治的目標を宣言 |
| 1938年12月 | 汪兆銘の脱出 | 重慶を離れてハノイへ |