60 BC

西域都護の設置
シルクロードの完成

紀元前60年、宣帝は初代西域都護に鄭吉を任命し、タリム盆地の三十六国を漢の勢力圏に正式に組み込んだ。張騫が命懸けで切り拓いた「鑿空」から約80年── シルクロード東半分の管理体制がここに完成した。

紀元前60年、前漢の宣帝は西域都護府を設置し、鄭吉を初代西域都護に任命しました。西域都護は烏塁城(現在の新疆ウイグル自治区輪台県付近)に駐在し、タリム盆地周辺の三十六国(後に五十余国)を統括する役職です。この設置により、漢はパミール高原以東の中央アジア東部を正式に勢力圏に組み込み、東西交易路── いわゆるシルクロードの東半分を管理下に置くことに成功しました。

この出来事は、紀元前139年に武帝が張騫を西域に派遣してから約80年の歳月をかけて達成された壮大な事業の完成を意味します。張騫の西域派遣は「鑿空」(空を鑿つ=未知の世界を切り拓く)と呼ばれ、中国と中央アジア・西アジアを結ぶ交通路の存在を中国に初めてもたらしました。その後の武帝による数次の遠征、屯田の設置、外交工作を経て、宣帝の時代にようやく恒常的な統治機構が完成したのです。

西域都護の設置は、単なる軍事的征服ではなく、東西文明の交流を制度的に保障する枠組みの確立でした。シルクロードを通じて、中国の絹・漆器・鉄器が西方に輸出され、西方からは香料・宝石・ガラス・葡萄・胡桃・胡麻などが中国にもたらされました。この東西交易は人類史における文明交流の最も壮大な事例の一つです。

このページでは、漢の西域経営の前史、張騫の「鑿空」の意義、西域都護府の設置経緯と統治の仕組み、シルクロード交易がもたらした文明交流、そしてこの出来事の世界史的意義を詳しく解説します。

西域経営の前史 ── 匈奴との覇権争い

漢の西域経営を理解するためには、匈奴との関係を知る必要があります。前漢の建国当初、匈奴は冒頓単于のもとで絶頂期にあり、西域のオアシス都市国家群を支配下に置いていました。匈奴は西域諸国から貢納を徴収し、軍事動員を行い、タリム盆地は匈奴の経済的・軍事的基盤の一つとなっていました。

武帝が匈奴との全面戦争に踏み切った大きな理由の一つが、この西域の支配権をめぐる争いでした。西域を匈奴から奪取することは、匈奴の経済基盤を弱体化させると同時に、漢に新たな交易路と資源をもたらすことを意味していました。武帝は張騫を大月氏に派遣して匈奴を挟撃する同盟を模索し、その過程で西域の広大な世界が中国に知られるようになったのです。

武帝の時代には、李広利による大宛(フェルガナ)遠征、楼蘭・車師の征討、酒泉・敦煌の設置など、積極的な西域進出が行われました。しかし武帝の軍事行動は莫大な費用を要し、必ずしも恒常的な支配体制の確立には至りませんでした。西域諸国は漢と匈奴の間で二股をかけ、情勢に応じて帰属を変えるのが常態でした。真の意味で西域を管理下に置くには、宣帝の時代を待たなければなりませんでした。

地理

タリム盆地と西域三十六国

西域とは、広義には玉門関・陽関以西の地域を指しますが、狭義には天山山脈とクンルン山脈に挟まれたタリム盆地周辺のオアシス都市国家群を指します。タクラマカン砂漠を中心とするこの地域には、楼蘭(鄯善)、車師、亀茲(クチャ)、疏勒(カシュガル)、于闐(ホータン)などの都市国家が点在していました。これらの国々はオアシス農業と中継交易で栄え、東西交通路の要衝を占めていました。漢書は三十六国と記しますが、実際にはその後分裂や統合を繰り返し、五十余国に増えたとされています。

タリム盆地三十六国オアシス都市タクラマカン砂漠中継交易

張騫の鑿空 ── 未知の世界を切り拓く

紀元前139年頃、武帝は張騫を大月氏に派遣しました。大月氏は匈奴によって故地を追われて西方に移動した遊牧民族であり、武帝は大月氏と同盟して匈奴を挟み撃ちにする構想を抱いていたのです。しかし張騫は出発直後に匈奴に捕らえられ、十余年にわたって拘留されました。

張騫は匈奴のもとで妻子をもうけながらも使命を忘れず、隙を見て脱出に成功し、大月氏のもとに到達しました。しかし大月氏は新たな土地で安住しており、匈奴への復讐には関心を示しませんでした。張騫は同盟の目的を果たせないまま帰路につき、再び匈奴に捕まるなどの苦難を経て、出発から13年後にようやく長安に帰還しました。出発時に百余人だった随行者のうち、帰還したのは張騫と従者の堂邑父の二人だけでした。

軍事的な同盟は成立しませんでしたが、張騫がもたらした情報は計り知れない価値がありました。大宛(フェルガナ)の汗血馬、大月氏の領土、大夏(バクトリア)、安息(パルティア)、身毒(インド)── 西方世界の存在と、そこに至る交通路の情報が初めて中国にもたらされたのです。司馬遷はこの功績を「鑿空」(空を鑿つ)と称えました。張騫の旅は、シルクロードという壮大な東西交流路が中国側から意識的に認識される出発点となったのです。

張騫は始めて西域への道を通じさせた。これを「鑿空」という。空を鑿つ── 未知の虚空を穿ち、新たな世界への道を切り拓いたのである。 ── 『史記』大宛列伝の趣旨より
人物像

張騫 ── 東西交流の開拓者

張騫は漢中郡城固県(現在の陝西省城固県)の出身で、武帝の募集に応じて西域使節に志願しました。13年間の苦難の旅から帰還した後、博望侯に封じられ、紀元前119年には再び西域に派遣されて烏孫との同盟交渉にあたりました。この第二次派遣では、張騫の副使たちが大宛・康居・大月氏・安息などにまで足を延ばし、西域諸国との外交関係が本格的に始動しました。張騫は紀元前114年に没しましたが、彼が切り拓いた東西交通路は、その後二千年にわたって人類文明の交流を支え続けることになります。

張騫鑿空大月氏博望侯東西交流

西域都護府の設置 ── 鄭吉と烏塁城

西域都護の設置の直接の契機は、匈奴の内部分裂でした。紀元前60年頃、匈奴の日逐王が内紛を嫌って漢に投降しました。日逐王は匈奴の西辺を統括する要職にあり、西域諸国を管轄していた人物です。彼の投降により、匈奴の西域支配は事実上崩壊しました。

宣帝はこの好機を逃さず、騎都尉として西域で活躍していた鄭吉を初代西域都護に任命しました。鄭吉は日逐王の投降を受け入れた功績があり、西域の事情にも精通していました。西域都護の治所は烏塁城(現在の新疆ウイグル自治区輪台県付近)に置かれ、タリム盆地を南北から通る二つの交易路── 天山南路(北道)と崑崙北路(南道)の結節点を押さえる戦略的な位置にありました。

西域都護の権限は広範にわたりました。西域諸国の争いの調停、交通路の安全保障、屯田の管理、軍事行動の指揮── 都護は漢の中央政府を代表して西域全体を統括する最高責任者でした。ただし、西域諸国の内政には直接介入せず、各国の王を通じた間接統治が基本でした。漢は諸国の王に印綬を与えて承認し、貢納と軍役を求める代わりに、匈奴などの外敵からの保護を約束するという関係でした。

統治の仕組み

西域都護の統治体制

西域都護府の統治は、直轄支配ではなく間接統治の形態をとりました。都護は数百から数千の漢の兵士を率いて烏塁城に駐在し、屯田兵による食糧の自給体制を整えました。西域諸国との関係は「冊封」── すなわち漢が諸国の王を承認し、王は漢に対して質子(人質)を送り、定期的な朝貢を行うというものでした。この体制は、莫大な駐留軍を維持するコストを避けつつ、広大な地域の安定を確保する巧みな仕組みでした。後世の唐の安西都護府や、清の理藩院による藩部統治の原型ともいえるものです。

西域都護府鄭吉烏塁城間接統治屯田

シルクロード交易 ── 東西文明の架け橋

西域都護の設置により、シルクロード東半分の安全が制度的に保障されたことで、東西交易は飛躍的に拡大しました。中国からは絹(シルク)が最大の輸出品として西方に流れ、ローマ帝国の貴族たちを魅了しました。「シルクロード」という名称自体が、この絹の交易に由来しています。絹のほかにも、漆器、鉄器、銅鏡、紙なども西方に輸出されました。

西方からは、多種多様な物産が中国にもたらされました。胡桃(くるみ)、葡萄、石榴、胡麻、胡瓜、苜蓿(ウマゴヤシ=馬の飼料)── これらの「胡」の字を冠する食物の多くは、シルクロードを通じて中国に伝来したものです。また、ラピスラズリ、珊瑚、琥珀、ガラス製品、香料(乳香・没薬)などの貴重品も中国に流入し、宮廷文化を豊かにしました。

物産の交流にとどまらず、宗教・芸術・技術の伝播もシルクロードの重要な機能でした。後漢以降に中国に伝来する仏教も、このシルクロードを通じてインドから中央アジアを経て伝わってきます。西域都護の設置は、こうした文明交流の基盤を制度的に整備した出来事であり、その影響は東アジアの文化全体に及んでいるのです。

文化交流

「胡」の字が示す西域の影響

中国語で「胡」の字がつく食物や物品の多くは、西域を経由して中国に伝来したものです。胡桃(くるみ)、胡麻(ごま)、胡椒(こしょう)、胡瓜(きゅうり)、胡琴(二胡の原型)── これらはすべてシルクロード交易の産物です。また「葡萄」という漢字自体も、ペルシア語やギリシア語に由来するとされています。大宛(フェルガナ)産の葡萄から作られた葡萄酒(ワイン)は武帝の宮廷で珍重されました。食文化一つをとっても、シルクロードが中国文明に与えた影響の大きさがわかります。

シルクロード絹の交易文明交流胡の文化葡萄酒

歴史的意義 ── ユーラシアを結ぶ制度の誕生

西域都護の設置は、中国史においては「漢の版図の西端がパミール高原に達した」ことを意味します。これは中華帝国が初めて中央アジアに恒常的な統治機構を置いた画期的な出来事であり、以後の中国歴代王朝の西域経営の原点となりました。唐の安西都護府・北庭都護府、清のジュンガル征服と新疆の設置── これらはいずれも、前漢の西域都護に遡る歴史的系譜の上にあります。

世界史的に見れば、西域都護の設置は「ユーラシア大陸規模の交易システムの制度化」という意義を持ちます。東のローマ帝国と西の漢帝国── ユーラシアの東西両端に巨大な帝国が同時に存在し、その間の交通路が制度的に保護されたことで、古代世界最大の国際交易ネットワークが成立したのです。

宣帝の時代は前漢の黄金期と評価されますが、西域都護の設置はその最も輝かしい成果の一つです。武帝が軍事力で強引に推し進めた西域進出を、宣帝は外交と制度構築によって安定した統治に転換しました。張騫の鑿空から約80年── 数多くの犠牲と試行錯誤を経て、東西文明を結ぶ壮大な交通路がここに完成したのです。

比較史

漢とローマ ── ユーラシアの東西帝国

西域都護が設置された紀元前60年頃、地中海世界ではローマ共和国がカエサル・ポンペイウス・クラッススの第一回三頭政治の時代にありました。ユーラシアの東西に位置する二大帝国は、直接の接触こそ限られていたものの、シルクロードを通じて間接的につながっていました。中国の絹はローマの貴族の間で珍重され、ローマのガラス製品や宝石は中国の宮廷に届きました。漢では大秦国(ローマ帝国)の存在が知られており、班超が甘英を大秦に派遣しようとした故事は有名です。

漢とローマユーラシア東西帝国大秦国文明のネットワーク

西域都護設置 関連年表

張騫の西域派遣から西域都護の設置に至るまでの主要な出来事を時系列でまとめました。

年代 出来事 備考
前139年頃張騫の第一次西域派遣大月氏への同盟使節
前126年張騫が長安に帰還「鑿空」の達成
前119年張騫の第二次西域派遣烏孫との同盟交渉
前104年李広利の大宛遠征汗血馬の獲得
前77年楼蘭の改名(鄯善)漢の西域経営が進展
前68年鄭吉が渠犁で屯田西域における漢の拠点整備
前60年匈奴の日逐王が漢に投降匈奴の西域支配が崩壊
前60年西域都護府の設置鄭吉が初代都護に就任
前51年呼韓邪単于が漢に入朝漢匈戦争の終結