139 BC

張騫の西域派遣
シルクロードの幕開け

紀元前139年、武帝は張騫を大月氏のもとに派遣し、匈奴挟撃の同盟を求めた。匈奴に捕らえられ13年の艱難辛苦を経て帰還した張騫の旅は「鑿空」と称され、シルクロードを開通させた人類史上の偉業となった。

紀元前139年、即位して間もない武帝は、一人の勇敢な使者を未知の西方世界へと送り出しました。その名は張騫。匈奴を挟撃するために大月氏との軍事同盟を結ぶという外交使命を帯びた張騫の旅は、当初の目的こそ達成できませんでしたが、その結果として東西の二大文明を結ぶ「シルクロード」が開かれるという、世界史的に計り知れない成果をもたらすことになります。

張騫が出発した紀元前139年当時、中国人にとって西域(現在の中央アジア)は文字通り「未知の世界」でした。タクラマカン砂漠の向こうに何があるのか、どのような国々が存在するのか、ほとんど何の情報もありませんでした。張騫の旅路は、匈奴の支配する危険地帯を横断しなければならず、出発時に百余名いた随行者のうち生きて帰還できたのは張騫と従者の甘父のわずか二名だけでした。

張騫が持ち帰った西域の情報は、武帝と漢の朝廷に衝撃を与えました。中国の西方にはフェルガナ盆地の大宛国、遊牧民の康居、ギリシャ系の大夏(バクトリア)、インドの身毒など、多彩な国々が存在していたのです。司馬遷は張騫の旅を「鑿空」(空を鑿つ=前人未踏の道を切り開く)と評しました。この言葉が示す通り、張騫は東西文明をつなぐ道を初めて切り開いた開拓者であり、その功績は二千年以上経った現在も色あせることがありません。

このページでは、張騫が派遣された政治的・軍事的背景、匈奴に囚われた十年間の苦難、西域諸国での見聞、帰還後の報告と影響、そしてシルクロード開通が東西文明に与えた歴史的意義を詳しく解説します。

派遣の背景 ── 匈奴挟撃の構想

武帝が張騫を西域に派遣した最大の動機は、匈奴を挟撃するための軍事同盟の構築でした。匈奴帝国は冒頓単于の時代(紀元前209年〜紀元前174年)に最盛期を迎え、モンゴル高原から中央アジアに至る広大な領域を支配していました。漢は建国以来、和親政策(公主の降嫁と多額の贈答品)で匈奴との衝突を避けてきましたが、この屈辱的な関係を打破することが若き武帝の悲願でした。

武帝が着目したのは、かつて匈奴に敗れて西方に移住した大月氏という遊牧民族でした。大月氏はもともと河西回廊(現在の甘粛省)付近に居住していましたが、匈奴の冒頓単于に攻撃され、王が殺されてその頭蓋骨は匈奴の単于の酒器にされるという惨劇を経験していました。大月氏は匈奴への深い恨みを抱いているはずであり、漢と同盟を結んで東西から匈奴を挟撃する計画は理に適ったものに思えました。

問題は、大月氏の所在地がほとんど分からないということでした。西方のどこかに移住したという漠然とした情報しかなく、しかもその途上には匈奴の支配領域が広がっていました。この危険な任務に志願したのが、漢中出身の郎官(宮廷の下級官吏)・張騫でした。張騫は体格がよく、意志が強く、寛大な人柄で人々から信頼される人物であったと伝えられています。武帝は張騫に漢の使節として百余名の随行者を与え、匈奴出身の従者・堂邑父(甘父)を案内人として付けて、紀元前139年頃に長安から出発させました。

民族

大月氏 ── 匈奴に追われた遊牧民

大月氏はインド・ヨーロッパ語族に属するとされる遊牧民で、もともと現在の甘粛省西部からタリム盆地東部にかけて勢力を持っていました。紀元前176年頃、匈奴の冒頓単于と老上単于に相次いで攻撃され、王は殺害されました。残った大月氏の人々は西方に大移動を行い、やがてアム・ダリヤ川(烏滸水)流域の大夏(バクトリア)を征服して定住しました。大月氏はこの地で次第に遊牧から定住生活に移行し、後にクシャーナ朝を建国してガンダーラ美術や仏教の東方伝播に重要な役割を果たすことになります。

大月氏冒頓単于河西回廊大夏クシャーナ朝

張騫の旅路 ── 未知の世界への出発

張騫一行は長安を出発し、隴西(現在の甘粛省東部)を経て西へと向かいました。しかしその行く手には、匈奴の支配領域が立ちはだかっていました。河西回廊は当時、匈奴の右賢王の管轄下にあり、中国人が匈奴の許可なくこの地を通過することは事実上不可能でした。張騫一行が出発してまもなく、匈奴の騎馬兵に発見され、全員が捕虜となってしまいます。

匈奴の単于(最高指導者)である軍臣単于は、張騫から使命を聞き出すと激怒しました。「漢が大月氏に使者を送るということは、匈奴を挟み撃ちにしようとしているということだ。もし匈奴が漢を飛び越えて南の越国に使者を送ったら、漢はそれを許すか」と詰問したといいます。しかし単于は張騫を殺さず、匈奴の女性を妻として与え、監視下に置くという処分を下しました。

張騫は匈奴のもとで約十年間を過ごすことになりました。匈奴の女性との間に子供も生まれましたが、張騫は漢の使節としての使命を一日たりとも忘れませんでした。常に漢の使節の証である「節」(竹の杖に牛の尾を結んだ使者の印)を手放さず、いつか脱出して使命を果たす機会を待ち続けたのです。この不屈の意志こそが、張騫を単なる冒険家ではなく、偉大な使者として歴史に刻む所以となりました。

張騫は人となり強力にして大度あり、信人を任ずるに足る。蛮夷これを愛す。 ── 司馬遷『史記』大宛列伝の趣旨より
地理

西域への道 ── 河西回廊とタリム盆地

長安から西域に至る道は、まず河西回廊(甘粛省の狭い東西に延びる回廊地帯)を通り、その先で二つのルートに分かれました。天山山脈の南麓を通ってタリム盆地の北縁を行く「天山南路(北道)」と、崑崙山脈の北麓を通ってタリム盆地の南縁を行く「西域南道」です。両ルートともタクラマカン砂漠の縁をオアシス都市を辿りながら進むもので、水と食糧の確保が生死を分ける過酷な旅路でした。張騫の旅はこれらの道を初めて中国人として踏破したものであり、後の漢の西域経営と交易路整備の基礎となりました。

河西回廊タリム盆地天山山脈オアシス都市西域の道

匈奴での囚われと脱出 ── 十年の忍耐

匈奴に捕らえられた張騫は、遊牧民の生活を送りながらも、常に脱出の機会を窺っていました。約十年にわたる囚われの間、張騫は匈奴の風俗・習慣・軍事組織・政治体制を仔細に観察し、後に漢にとって極めて貴重な情報となる知見を蓄積しました。また、匈奴を通じて西方の遊牧民や交易商人と接触し、西域の地理や諸国の情報を間接的に収集していたと考えられています。

紀元前129年頃、匈奴内部の混乱に乗じて、張騫はついに脱出に成功しました。従者の甘父とともに匈奴の監視を逃れた張騫は、当初の使命を果たすべく大月氏を目指して西へと旅を続けました。大宛国(フェルガナ盆地、現在のウズベキスタン)に到達した張騫は、大宛王の歓待を受けました。大宛王は漢という東方の大国の存在を知っており、交易の利益を期待して張騫に通訳と案内人を付けて康居(現在のカザフスタン南部)へ送り出しました。

康居を経て大月氏に到着した張騫は、しかし期待した答えを得ることができませんでした。大月氏はすでにアム・ダリヤ川流域の肥沃な土地に定住し、豊かな生活を送っており、もはや匈奴への復讐心を失っていたのです。大月氏の王は漢との軍事同盟に興味を示さず、張騫は一年余りにわたって説得を試みましたが、ついに同盟の合意を得ることはできませんでした。外交使命としては失敗に終わったのです。

外交

張騫が訪れた西域の国々

張騫は大月氏への往復の旅路で、数多くの西域の国々を訪問あるいは情報収集しました。大宛(フェルガナ)は汗血馬(血のような汗を流す名馬)の産地として知られ、武帝は後にこの馬を求めて軍を派遣するほどでした。康居は遊牧民の国で、大宛と大月氏の間に位置していました。大夏(バクトリア)はアレクサンドロス大王の東征以来のギリシャ系国家の後裔で、ギリシャ文化と中央アジアの文化が融合した独特の文明を持っていました。張騫は大夏の市場で蜀(四川省)の布と竹の杖が売られているのを発見し、中国からインドを経由する南方交易路の存在を推測しました。

大宛康居大夏汗血馬西域諸国

帰還と報告 ── 「鑿空」の偉業

大月氏での外交交渉が不調に終わった張騫は、帰路についた。帰りは行きとは異なるルートを選び、崑崙山脈の北麓を通る南路を取りました。しかし不運にも再び匈奴の勢力圏に入り込み、今度も捕らえられてしまいます。約一年間にわたる二度目の囚われの後、匈奴内部で単于の死に伴う政変が起き、その混乱に乗じて再び脱出に成功しました。

紀元前126年、張騫はついに長安に帰還しました。出発から実に13年が経過していました。百余名いた随行者のうち帰還できたのは、張騫と甘父のわずか二人だけでした。張騫が手にしていた漢の使節の証「節」は、十三年の風雪に晒されて朽ち果てていましたが、張騫は一度たりともこれを手放しませんでした。その姿は、武帝と朝廷の人々を深く感動させました。

張騫が武帝に報告した西域の情報は、中国の世界認識を一変させるものでした。中国の西方には大宛・康居・大月氏・大夏・安息(パルティア)・条支(セレウキア)・身毒(インド)など、多数の国家が存在し、それぞれ独自の文明と豊かな物産を持っていました。張騫はこれらの国々の位置・人口・軍事力・産物・風俗を詳細に報告し、武帝はこの情報をもとに西域経営の構想を練り始めました。司馬遷はこの偉業を「鑿空」と表現しました。「空を鑿つ」── それまで何もないと思われていた空間に、初めて道を穿ったという意味です。

評価

「鑿空」── 司馬遷の賛辞

司馬遷が『史記』大宛列伝で張騫の旅を「鑿空」と評したことは、張騫の功績を最も端的に表現しています。「鑿」は穴を開ける、「空」は虚空を意味し、前人未踏の道を切り開いたことを指します。張騫以前、中国と中央アジアの間には事実上の情報の壁が存在していました。張騫はこの壁に初めて穴を開け、東西二大文明が互いの存在を認識し、交流を開始する道筋をつけたのです。外交使命としては失敗に終わった張騫の旅が「鑿空」と称えられるのは、その結果がもたらした文明史的な意義があまりにも巨大だったからに他なりません。

鑿空司馬遷史記大宛列伝前人未踏

歴史的意義 ── シルクロードの誕生

張騫の帰還後、武帝は西域経営を本格的に開始しました。紀元前121年に霍去病が河西回廊を匈奴から奪取すると、武威・張掖・酒泉・敦煌の「河西四郡」が設置され、長安から西域に至る交通路が漢の管轄下に置かれました。紀元前119年には張騫が二度目の西域使節として派遣され、今度は烏孫(天山山脈北麓の遊牧民)との同盟交渉を行いました。張騫はこの第二次使節に際して多数の副使を各国に派遣し、西域諸国との外交関係の構築に努めました。

こうして開かれた東西交通路は、19世紀のドイツの地理学者フェルディナント・フォン・リヒトホーフェンによって「シルクロード(絹の道)」と名づけられました。この道を通じて、中国の絹・漆器・製紙技術・鋳鉄技術が西方に伝わり、西方からは葡萄・石榴・胡麻・胡桃・苜蓿(ウマゴヤシ)・汗血馬などの動植物のほか、ガラス製品・宝石・音楽・舞踊が中国に流入しました。やがてこの道を通じて仏教が中国に伝来し、中国文明に計り知れない影響を与えることになります。

張騫の功績は、単に交易路を開いたことにとどまりません。それまで互いの存在をほとんど知らなかった東アジア文明と中央アジア・西アジア文明が、初めて直接的に接触する契機を作ったことに、その本質的な意義があります。シルクロードは単なる交易路ではなく、思想・宗教・技術・芸術が行き交う「文明の道」であり、人類の文化的遺産を飛躍的に豊かにしました。張騫が命がけで切り開いたこの道は、二千年の時を経てもなお、東西文明の交流の象徴として輝き続けています。2014年には「シルクロード:長安=天山回廊の交易路網」としてユネスコ世界遺産に登録され、張騫の偉業は人類共通の遺産として公式に認められました。

文化交流

シルクロードがもたらしたもの

シルクロードを通じた東西交流は、両文明に深遠な影響を与えました。中国からは絹(シルク)が最も重要な輸出品であり、ローマ帝国の貴族はこの東方の神秘的な布を熱狂的に求めました。逆に中国には西方から多くの農作物が伝来し、「胡」の字がつく食物の多くがシルクロードを通じてもたらされたものです。胡瓜(きゅうり)、胡椒、胡桃(くるみ)、胡麻(ごま)などがその代表例です。さらに重要なのは、紀元後1世紀頃にシルクロードを通じて仏教が中国に伝来したことで、これは以後の中国文明の精神的基盤を根本的に変えることになりました。

シルクロード仏教伝来東西交流文明の道

張騫の西域派遣 関連年表

張騫の出発からシルクロードの確立に至るまでの主要な出来事を時系列でまとめました。

年代 出来事 備考
前176年頃匈奴が大月氏を攻撃大月氏の王が殺害され西方に移住
前141年武帝即位匈奴への積極策を志向
前139年頃張騫が長安を出発百余名の随行者とともに西行
前139年頃匈奴に捕らえられる約十年間の囚われ生活が始まる
前129年頃張騫が匈奴から脱出西へ旅を続け大宛に到達
前128年頃大月氏に到着同盟交渉は不調に終わる
前127年頃帰路で再び匈奴に捕まる約一年間の二度目の囚われ
前126年張騫が長安に帰還13年の旅、帰還者はわずか2名
前121年霍去病が河西回廊を奪取河西四郡の設置
前119年張騫が第二次西域使節として出発烏孫との同盟交渉
前115年頃張騫が第二次使節から帰還副使を各国に派遣
前114年張騫が死去「博望侯」の爵位を贈られる
前60年漢が西域都護府を設置西域の正式な管轄が始まる