西暦97年、後漢王朝の勢力圏は中央アジアの広大な領域にまで及んでいました。西域都護として西域五十余国を統括していた班超は、さらに西方に目を向け、伝説の大国「大秦」── すなわちローマ帝国との外交関係樹立を構想しました。この壮大な計画を実行に移すべく選ばれたのが、班超の信頼厚き部下・甘英でした。
甘英はシルクロードを西へ西へと進み、安息(パルティア王国)を横断してペルシア湾の岸辺にまで到達しました。しかしそこで安息の船乗りから「この先の海は広大で、順風でも三ヶ月、逆風なら二年もかかる。航海中に故郷を恋い慕って命を落とす者も多い」と聞かされ、甘英は渡海を断念して引き返しました。この話が真実であったか、あるいはローマとの直接交易を恐れたパルティアの策略であったかは、今なお歴史家の間で議論が続いています。
甘英の旅は、大秦への到達という目的こそ果たせませんでしたが、中国人が実際に足を踏み入れた最西端の記録として極めて重要な意味を持ちます。彼が持ち帰った西方世界の情報は『後漢書』西域伝に詳細に記録され、当時の中国人が地中海世界をどのように認識していたかを知る貴重な史料となっています。
班超と西域経営 ── 後漢のシルクロード支配
甘英の遠征を理解するためには、まず班超が築き上げた後漢の西域支配体制を知る必要があります。班超は名門の文人一家に生まれながら、「大丈夫たる者、傅介子・張騫のように異域に功を立てるべきであり、筆と硯にかじりついていてどうする」と投筆従戎の志を立て、西域に赴任しました。永平十六年(73年)に西域に派遣されてから実に三十年以上にわたり、班超は卓越した外交力と軍事力で西域諸国を後漢の影響下に収めていきました。
班超の西域経営は、単なる軍事的征服ではなく、巧みな外交と同盟関係の構築によるものでした。彼はまず鄯善国で北匈奴の使者を夜襲して殺害し、鄯善を後漢側に引き入れるという大胆な行動で名を上げました。その後、于闘、疏勒、亀茲など西域の主要国を次々と帰順させ、永元三年(91年)には西域都護に任じられて西域五十余国を統括する立場に就きました。
班超が西域を安定させたことで、シルクロードの交易路は後漢の保護下で安全に機能するようになりました。東方の絹や漆器、西方の宝石やガラス製品が活発に行き交い、文化と技術の交流も盛んになりました。この安定した交易環境の中で、班超はさらに西方の大国・大秦との直接的な外交接触を構想するに至ったのです。
班超 ── 投筆従戎の英雄
班超は歴史家・班固の弟であり、『漢書』の編纂を手伝いながらも文筆の世界に飽き足らず、軍人として西域に赴きました。わずか三十六人の部下とともに鄯善に乗り込み、百人を超える北匈奴の使者団を奇襲で全滅させた逸話は、班超の果断さを象徴する出来事です。以後三十年にわたる西域経営で、班超は武力だけでなく外交的手腕を駆使し、異なる文化・言語を持つ多くの国々を後漢の勢力圏に組み入れました。晩年に「生きて玉門関に入りたい」と故郷への帰還を願い、永元十四年(102年)に帰国を許されましたが、帰国直後に病没しました。享年七十一歳でした。
甘英の出発 ── 大秦を目指して
永元九年(97年)、班超は部下の甘英を大秦への使節として派遣しました。この遠征の目的は、シルクロードの最西端に位置すると伝えられる大秦国(ローマ帝国)と直接の外交関係を結ぶことにありました。当時、中国と大秦の間には安息(パルティア王国)が仲介者として存在し、両大国の直接交易を妨げていると考えられていました。
甘英が大秦に向けて出発した背景には、経済的な動機が大きく関わっていました。シルクロードの中継交易で莫大な利益を得ていたのはパルティアであり、中国の絹はパルティアの商人を経由することで何倍もの価格に跳ね上がっていました。もし後漢が大秦と直接交易できれば、この中間マージンを排除して双方に利益をもたらすことができると班超は考えたのです。
甘英の旅路は、西域都護府のあった亀茲(現在の新疆ウイグル自治区クチャ)付近から出発し、西へ向かいました。タクラマカン砂漠の南縁またはパミール高原を越え、大月氏(クシャーナ朝)の領域を通過し、さらに西のパルティア王国の版図へと入っていきました。当時のシルクロードを実際に旅するには、砂漠の猛暑、高山の寒冷、盗賊の襲撃、言語の壁など、無数の困難が待ち受けていました。甘英とその一行がこれらの障害を乗り越えてペルシア湾にまで到達したこと自体が、驚異的な偉業だったのです。
大秦 ── 中国人が見たローマ帝国
中国の史書において「大秦」と呼ばれたローマ帝国は、半ば伝説的な存在として記録されています。『後漢書』西域伝によれば、大秦は「その人民は皆長大にして端正、中国人に類す」と記され、中国文明に匹敵する高度な文明国として認識されていました。また「その国に金銀の多きこと、珊瑚・琥珀・琉璃・瑪瑙を産す」とも記録されており、ローマ帝国の豊かさが中国にまで伝わっていたことがうかがえます。大秦はまた「犁鞬」(リーケン)とも呼ばれ、これはギリシア語のアレクサンドリアの音写であるとする説もあります。
西方への旅路 ── シルクロードを越えて
甘英の旅路は、古代世界における最も壮大な外交使節の旅の一つでした。亀茲から西へ出発した甘英は、まずパミール高原(葱嶺)を越えて大月氏の領域に入りました。大月氏は当時クシャーナ朝として中央アジアに広大な帝国を築いており、ガンダーラ地方を中心にギリシア・インド・中国の文化が融合する独特の文明を形成していました。甘英は大月氏の協力を得てさらに西へ進み、安息国(パルティア王国)に入りました。
安息国はメソポタミアからイラン高原にかけての広大な領域を支配するイラン系の大国であり、東のシルクロード交易と西の地中海交易を結ぶ要衝に位置していました。甘英は安息国の領内を横断し、条支国(現在のイラク南部からペルシア湾岸にかけての地域と推定される)にまで到達しました。条支はペルシア湾に面した港湾都市であり、ここからさらに海路で大秦に向かうことが可能な場所でした。
甘英が通過した地域は、当時の世界で最も文明が進んだ地帯でした。パルティア王国の首都クテシフォンはティグリス川沿いの大都市であり、ギリシア文化の影響を受けた壮麗な建築物が立ち並んでいました。甘英はこれらの西方文明を自らの目で見聞し、その詳細な情報を記録しました。この記録は後に『後漢書』西域伝に反映され、当時の中国人が西方世界について持っていた知識の集大成となったのです。
シルクロードの中継貿易とパルティアの利権
シルクロードの交易において、パルティア王国は東西の中継者として莫大な利益を得ていました。中国産の絹はパルティアの商人の手を経るたびに価格が上昇し、最終的にローマに届く頃には原価の何十倍にもなっていたと伝えられます。ローマ帝国の博物学者プリニウスは「絹の輸入によってローマから東方に流出する金銀は年間一億セステルティウスに達する」と嘆いたほどです。パルティアにとって、中国とローマの直接交易は自国の中継貿易利権を脅かす重大な脅威でした。甘英の遠征を阻止しようとする動機は十分にあったのです。
ペルシア湾の挫折 ── 引き返した使者
甘英は条支に到達し、ペルシア湾(あるいは紅海とする説もある)の岸辺に立ちました。目の前には大秦へと続く広大な海が広がっていました。しかしここで甘英は、現地の安息の船乗りたちから航海の困難さについて警告を受けました。「この海は広大で、順風を得ても渡るのに三ヶ月かかる。もし逆風に遭えば二年もかかることがある。そのため航海に出る者は三年分の食糧を積む。海の上では故郷を恋い慕い、命を落とす者が多い」と告げられたのです。
この言葉を聞いた甘英は、渡海を断念して引き返す決断をしました。後世の歴史家たちは、この安息の船乗りの警告が意図的な虚偽であった可能性を指摘しています。パルティア王国は中国とローマの直接接触を望んでおらず、甘英の渡航を妨害するために航海の困難さを誇張したのではないかというのです。実際、当時のペルシア湾からローマ帝国の属州であるシリアやエジプトへの航路は、パルティアの商人やアラブの船乗りによって定期的に利用されており、三ヶ月から二年という航海日数は大幅な誇張でした。
ただし、甘英の立場を擁護する見方もあります。彼は陸路の旅に慣れた人物であり、未知の海上航海に対する恐怖は当然のものでした。また、使節団の安全を確保することは最優先事項であり、信頼性の不確かな航路で使節団全員の命を危険にさらすことは避けるべきだったという判断も理解できます。いずれにせよ、甘英がもう少し西に進んでいれば、ローマ帝国のシリア属州に到達し、古代世界の二大帝国が直接接触するという歴史的瞬間が実現していた可能性があります。
もし甘英がローマに到達していたら
歴史にifは禁物とされますが、甘英がローマ帝国に到達していた場合の影響は計り知れません。97年当時のローマ帝国は「五賢帝時代」の初期にあたり、ネルウァ帝の治世下で安定した統治が行われていました。翌年にはトラヤヌス帝が即位し、ローマ帝国は最大版図に向かって拡大を続けます。東西二大帝国の正式な外交関係が樹立されていれば、パルティアの中継貿易独占が崩れ、シルクロードの交易構造が根本的に変わっていた可能性があります。文化・技術の交流も飛躍的に加速し、世界史の展開は大きく異なるものになっていたかもしれません。
歴史的意義 ── 東西交流史の金字塔
甘英の遠征は目的地には到達できなかったものの、古代東西交流史における極めて重要な出来事として位置づけられています。まず第一に、甘英はこの旅を通じて西方世界に関する膨大な情報を収集し、中国に持ち帰りました。条支国や安息国の地理・風俗・産物についての詳細な記録は『後漢書』西域伝に反映され、後漢時代の中国人の世界認識を大きく広げました。
第二に、甘英の旅は中国人が実際に到達した最西端の記録です。張騫が大月氏まで到達した紀元前二世紀の旅から約二百年を経て、甘英はさらに西のペルシア湾にまで足を伸ばしました。この地理的到達点は、その後数百年にわたって中国人による西方到達の最遠記録であり続けました。
第三に、甘英の遠征はパルティア王国が東西直接交易を阻止しようとしていた状況を浮き彫りにしました。甘英が引き返した後も、中国とローマの間接的な交流は絹や香料の交易を通じて続きましたが、直接的な外交関係が樹立されるのは延熹九年(166年)にローマの商人が日南郡(現在のベトナム中部)に到達したと記録されるまで、さらに約七十年を待たなければなりませんでした。甘英の遠征は失敗に終わりましたが、その挑戦の精神と収集した情報は、古代世界のグローバルな連結性を示す貴重な証拠として、現代の歴史研究においても高く評価されています。
大秦王安敦の使者 ── 166年の接触
甘英の遠征から約七十年後の延熹九年(166年)、『後漢書』は大秦王安敦(ローマ皇帝マルクス・アウレリウスと推定される)の使者が日南郡に到達したと記録しています。ただし、この使者は正式な外交使節ではなく、ローマの商人が皇帝の名を騙って貿易の便宜を図ろうとしたものであるとする説が有力です。彼らが持参した象牙・犀角・玳瑁などの品物はローマの特産品ではなく東南アジアの産物であり、海路での交易に従事していた商人であった可能性が高いと考えられています。いずれにせよ、この記録は古代における東西二大帝国の接触を示す貴重な史料です。
甘英の大秦遠征 関連年表
班超の西域赴任から甘英の遠征に至るまでの主要な出来事を時系列でまとめました。
| 年代 | 出来事 | 備考 |
|---|---|---|
| 73年 | 班超が西域に派遣される | 投筆従戎の志を実行に移す |
| 73年 | 鄯善国で北匈奴の使者を襲撃 | 西域経営の第一歩 |
| 74年 | 于闘国が後漢に帰順 | シルクロード南道の確保 |
| 91年 | 班超が西域都護に任命 | 西域五十余国を統括 |
| 94年 | 西域諸国が全面的に帰順 | 焉耆・亀茲なども服属 |
| 97年 | 甘英が大秦への使節として出発 | 班超の命による遠征 |
| 97年 | 甘英がペルシア湾に到達 | 安息の船乗りの警告で渡海断念 |
| 102年 | 班超が帰国、直後に病没 | 享年七十一歳 |
| 166年 | 大秦王安敦の使者が日南郡に到達 | 東西帝国の間接的接触 |